ねこ猫ヒカル
第2部
【4話 甘い誘い】
昼食は和やかに過ぎていった。ヒカルは最初、緒方の方をちらちらと見て落ち着かなかったが、だんだん慣れてきていつも通りもりもりとご飯を頬張った。緒方が地方対局の土産に持参してきた「神戸牛の佃煮」も食卓に並び、ヒカルもいたく気に入って箸を進めた。
「よく食べるな。進藤君。」
緒方は上機嫌でヒカルを見た。ヒカルはもぐもぐしながら緒方を見上げる。こうして落ちついてよく見ると、そんなに悪い奴でもなさそうだと、ヒカルは思った。
ちょっと背が高くて威圧感はあるし、自分にいじわるをしたり今まで良い印象はなかったが、ヒカルに醤油をとってくれたり気がつくところもある。
『人の事、ちっちゃい子供みたいに頭ポンポンするのはやめてほしいけど・・。塔矢が言うほど怖くもない感じがする。あん時は、うっかりしてたからだ。オレが油断したからあんな事になったけど、ちゃんと警戒してれば大丈夫!塔矢は心配性なんだから・・。』
ヒカルは苦手な物を克服したような晴れ晴れしい気持ちになった。そう思えば、もうちっとも隣にいる男の事など気にならない。
「へぇ、進藤君はアキラ君とそんなに仲がいいんだ。やっぱり拾ってもらった恩ってやつかい?」
緒方が急に話をヒカルに振ってきた。ヒカルはつーんとすまして、
「拾ってもらったとか関係ないもん。オレと塔矢は特別なの。」
と、威張って言った。
偉そうなヒカルの態度を見て、父は笑った。
「特別か・・。特別だからってわがままばっかり言っていてはな。」
「わがままなんか言ってないよ!」
「今朝だって玄関先でごたごたしていたじゃないか。棋院に連れて行けとか・・。あんまりアキラを困らせるんじゃないぞ。」
父の言葉は厳しかったが、顔は笑顔だった。小さい子供に言いきかせるように響きは優しい。でもヒカルはむっとする。
「へぇ、棋院へねぇ・・。」
緒方が、にやにやとヒカルを見る。ヒカルはいたたまれなくなって下を向く。
『そんなに・・悪い事だった?一緒に行きたいって言っちゃダメだった?』
ヒカルは、冷めたお茶をぐいっと飲んだ。
「ごちそうさま!」
ヒカルはこの場から離れたくて、塔矢の写真の入った写真立てを持って、急いで席を立った。そそくさと急ぐヒカルの背中を緒方の言葉が引き止めた。
「棋院に行きたいのなら、俺が連れて行ってやってもいいぜ。進藤君。」
「え?」
振り返ると、緒方は優しそうに微笑んで、
「オレが棋院へ連れて行ってやろうか?」
と、誘惑の言葉をかける。
「あら、緒方さん。棋院へ行くんですか?地方から帰ってお疲れでしょう。」
母が緒方の湯飲みに熱いお茶を注ぎながら言った。緒方は笑いながら、
「いや、ちょうど今日はこの後棋院へ寄ろうと思っていたんですよ。車で来ていますし、帰りは進藤君とアキラ君を家までお送りしましょう。」
「緒方君、そんなことまでしなくていいんだ。ネコはわがままで棋院に行きたいとか言っているだけなのだし、キミもいろいろ忙しいだろう。」
「いえ、先生。大したことありませんよ。」
ヒカルは耳を疑って立ちつくしていた。
『どうしよう・・。』
連れて行ってくれるのなら連れて行って欲しいのはやまやまだ。ヒカルは手に持った写真立てにちらりと視線を送る。写真のアキラは厳しい顔をしている。迷う心の中でアキラの声がする。
「進藤、緒方さんには近づいちゃいけない。絶対だ。どんな事をされても知らないよ。」
厳しいアキラの声。緒方に棋院に連れて行ってもらう事はアキラの言いつけを破る事になる。
「どうする?進藤君。君次第だ。キミが行きたいなら連れて行ってあげるよ。」
緒方の甘い言葉がヒカルを硬直させる。
「きっと、アキラ君もキミが突然来たら驚くだろう。喜ぶよ。」
「・・ほんと?」
ヒカルは緒方の「アキラが驚き、喜ぶ」という言葉を鵜呑みにした。
『塔矢が・・オレが行ってびっくりして喜んでくれるなら・・この人と一緒に行っても怒らないかも。それに、もうこの人にはオレはネコだってばれてるし、今日も案外優しいし・・大丈夫かもしれない。』
ヒカルは、じっと緒方を見た。緒方の目に邪心はない。そうヒカルは感じた。ヒカルは頭の中でこだましているアキラの声を振り切って、好奇心と自分の知らないアキラを見たいがために、こくんと頷いた。
「オレ、行く!」
緒方の車は赤いスポーツカーだ。
「進藤君、車は初めてかい?」
車の周りをぐるぐる回ってヒカルは物珍しそうに覗き込んだり、触ったりしている。
「うん。初めて。固いね!それにすべすべ。」
「そうか。塔矢先生の家には車ないもんな。」
「道で見たことはあるけど・・人が乗ってるんだね。これ。オレ、こいつって人間界の獣でそいつが暴れて道を走ってるのだと思ってた。」
ヒカルは目を丸くしている。
「どうだ。かっこいいだろう。これに乗れるなんて嬉しいだろう。」
「うん。タガメみたいだね!」
「タガメ・・・。」
緒方は複雑そうな顔をした。タガメというのはあの川や田にいるタガメのことだろうか・・いや、きっと聞き間違いだと、緒方は自分の中でムリヤリ修正を施した。
助手席のドアを開けてやり、ヒカルを乗せる。シートベルトの仕方を教えてやり、自分も乗り込んだ。
「さぁ、出発だ。」
緒方は満面笑みで期待に目を輝かしているヒカルを見て、心底気分が良かった。
「アキラ君の気持ちがわかるな・・。」
「え?」
「キミのようなネコを飼っているアキラ君がうらやましいよ。」
ヒカルは、意味がよくわからなくて、きょとんとした。
「あっという間にアキラ君の所へ連れて行ってやるからな。」
「うん!」
エンジンを軽くふかし、閑静な住宅街を緒方の自慢の車は駆け抜けていった。