ねこ猫ヒカル
第2部
【9話 我慢しないで】
ヒカルが風呂から出て、食堂を覗くともう電気が消されていた。
「塔矢、2階に上がってるのかな。」
ヒカルは、階段の下に立って、上の様子をうかがう。アキラの部屋のドアからもれた灯りが、うっすらと階段のへりを照らしている。
「・・・まだ怒ってるかな・・。怒ってるよね・・。オレ、謝った方がいいのかなぁ・・。でも謝るって言っても塔矢が勝手に怒ってるんだし・・。そりゃあ、言いつけ破って棋院行ったけどさ・・。」
ヒカルは首にかけたタオルを不安げに口元へ持っていく。タオルの柔らかさが少しだけヒカルの心をやわらげてくれるような気がした。
「うじうじしててもしょうがないや・・。謝って塔矢が許してくれるなら、謝ろう。だって、いつまでも塔矢とぎくしゃくするのいやだもん。」
ヒカルは、意を決して階段を上がっていく。ドアを開けようとすると、塔矢の声がした。
「進藤?」
その言葉の響きは優しさを含んでいる。ヒカルは、ドキッとしながらも、おそるおそるドアを開けた。
『もしかして・・怒ってない?』
部屋には、もう二組の布団が敷いてあった。アキラは自分の布団のところで座っている。
「進藤。こっちへ。」
アキラは、ヒカルを自分の前に座るようにいざなった。
「う・・うん。」
アキラはどうやら怒ってはいないようだが、表情は硬かった。ヒカルは、アキラの心情を読みとれないまま、自分の布団の上に正座する。
「進藤。」
アキラは、ヒカルの名を呼んで、ヒカルの手をとり、両手でぎゅっと包み込んだ。
「塔矢?」
ヒカルは意図がわからないで、驚いた声を出す。アキラは、しばらくじっとヒカルのことを見つめていたが、自分の布団の下から、写真立てを取りだした。ヒカルの宝物のアキラの写真の入った写真立てだ。
「あ・・。」
ヒカルは、思わず声を上げる。食堂の椅子のクッションの下に隠してきた写真立てが今アキラの手にある。
「今日、これをお母さんからもらって、眺めていたんだって?」
アキラは優しく言った。ヒカルは、なんだか秘密を知られてしまったような気恥ずかしい気持ちになって、かぁっと頬を赤らめる。
「だ・・わ・・。・・か、返して!」
なんと言ったらいいのかわからなくて、ヒカルは思わずあわててその写真立てを取り返そうとした。アキラの方に手を伸ばしたヒカルの細い体を、アキラはそっと腕を回して捕まえる。
「わっ!」
驚いてバランスを崩したヒカルをアキラは力を入れて抱きしめることで受けとめた。
いつもアキラを見上げているばっかりのヒカルだが、今、アキラの顔は自分の胸の辺りにある。見おろすと、アキラも抱きしめたまま見上げてきて視線がぶつかる。一瞬、ヒカルの息が止まった。
「進藤。」
アキラの名前を呼ぶ声が、密着した体越しに響いてくる。その感覚にヒカルはきゅんと胸が痛くなった。
「ごめん。ボクは気づかなかった。キミが我慢していたって事・・。」
アキラは、視線をはずすことなくそう言った。ヒカルも目が離せない。
「キミが、本当はボクと一緒にいられる時間が少なくて寂しく思っていたこと・・こんな写真でキミが寂しさを紛らわそうとするほど悲しかったこと・・ボクはわからなかった。キミが強くなったのだと思ってた。勝手に・・。・・棋院について来たいとわがままを言ったのはキミの意思表示だったんだね。そして、ボクの注意を破ってまで緒方さんについていったのも、僕に会いたい・・ただそれだけだったんだね。ごめん。いつも一緒に寝起きしているのに、全然進藤のこと、わかってなかった。」
アキラの言葉は沈んでいた。後悔の念を隠せないといった様子だ。
「ボクは、ボクだけが我慢しているのだと・・思っていたところがあった。キミは平気なんだと。触れ合うことがなくても・・キミがボクを求めることはないのかと・・。勝手に被害妄想に陥っていた。ボクだけが・・キミを求めてやまなく、苦しいのだと思った。」
「塔矢・・。」
「でもキミも苦しかった・・。ボクと種類は違うけど・・寂しく思っていてくれた。・・ボクは申し訳ないと思うと共に、そうキミが思ってくれていたことがたまらなく嬉しいんだ。」
そう言いながら、アキラはそっとヒカルの胸に顔を埋める。今自分はどんなに早く脈打っているんだろうかとヒカルは思った。なんだか不思議な気持ちだった。いつも自分を甘えさせてくれていたのはアキラなのに、今はなんだか、アキラが甘えるように顔をすり寄せてくる。
『なんか、あったかい。なんだろ・・ドキドキするけど、困っちゃうドキドキじゃない。幸せの素が流れてる感じ・・。』
ヒカルは、じっとアキラを見おろした。そして、所在なげだった腕をアキラの首にかける。
「塔矢ぁ・・オレ、寂しかったけど・・でも悲しくなかったよ。でもうまく塔矢に甘えられなくて・・塔矢と一緒にいる時の方が居心地悪かった。塔矢がいない間は、塔矢のこといろいろ考えていられて幸せなのに、顔を合わせたらどうしていいのかわからなくなっちゃうなんておかしいよね・・。でもずっとここん所、そうだったの。でもうまく言えなくて・・。どうしても家の中じゃないところの塔矢を見たくなったの。家の中だと昼間の思いが積もりすぎててオレ、身動きとれなくなっちゃうって思って・・違うところだったらもっと素直になれるって思った。」
「進藤・・。そんなこと考えてたのか・・。」
「でも、本当は外で頑張ってる塔矢を見たかったのかも。だって、オレの知らない塔矢もきっとかっこいいもん。だから・・どうしても見たくなっちゃって、緒方さんが誘ってくれたからのっちゃったんだ。塔矢は怒るかもしれないけど、オレが行ったらきっと喜んでくれるって思ったから・・。実際は怒られてばっかりだったけど。」
ヒカルは、ぺろっと舌を出して、照れくさそうに笑った。
「怒ってすまなかった。・・でも緒方さんには今後も気をつけて欲しい。他の人にも・・。」
「うん・・。」
納得していなさそうな様子のヒカルから、アキラは抱きしめていた腕を離して、ヒカルの頬に手を当てた。そして、決まり悪そうに口をとがらせて、
「進藤!危険だからとか・・そういうこともあるけど、ボクは近づいて欲しくない。本当は君を誰にも触れさせたりしたくない。わかる?ボクは嫉妬しているんだ。これはやきもちだよ。」
「や・・やきもち?」
ヒカルは、思いもかけない言葉に頭がぐるぐるした。
『やきもちって・・あの物語の中で読んだことがある、あのやきもち?思いが強くってたまらなくて、誰にも渡したくないって思うあれ?』
そうなのだ。アキラは今、ヒカルに近づく者に対してやきもちをやいている。それは裏返せばヒカルを強く想っているということだ。ヒカルは全身の血が暴れ出すのを感じた。
「塔矢が・・やきもちだなんて・・なんか変なの。」
「変なのってなんだ!?こっちは真剣に言っているのに。」
「だって、いつも冷静な塔矢が、やきもちだなんて・・そんなの塔矢のこと一番好きなんだから、妬くことないのに。バカみたい。」
「バ・・・・!」
ヒカルにからかわれたような気持ちになって、アキラは耳まで真っ赤にした。そして次のヒカルの言葉でさらに赤くなる。
「でも、嬉しいよ・・。塔矢。」
「!」
「塔矢が・・オレを大事に思ってくれてるって事だもん!」
「進藤・・。」
二人はどちらともなくキュッと抱きしめあった。しばらくして、アキラの綺麗な指先がヒカルの頬をなぞり、あごに伸びる。そして、そのままうっとりと口づけた。
久々の甘いキス。アキラはもうこのまま離したくないと思った。できる限り、ヒカルの唇を味わっていたかった。しかし、キスの間上手に息ができないヒカルはすぐに
「う・・ん・・。」
と、苦しげに息を漏らす。それでも気にしないようにして、アキラはそっと空気を求めて開かれた唇に割って入った。
「んんーー。」
ヒカルは、条件反射で拳を握った。何度もこの拳をアキラの頭にくらわせることで、酸欠の危機を乗り越えてきた。でも、それは、この甘い時間の終わりを意味する。ヒカルは必死に拳が振り上がるのを押さえた。
『苦しいけど・・それよりも今は塔矢と仲直りできて嬉しい。それに塔矢がオレをいっぱい好きだってわかって嬉しい・・。なんか・・気をまぎらわさなきゃ・・。』
ヒカルは、アキラの深いキスを受けながら、必死に自分と戦った。そして、どうしようもないと思った時、突然ひらめいた。自分もアキラと同じようにすれば、息ができるのではないかと・・。
『よーし・・。オレもベロで塔矢のこと舐めてやる!そしたら、息できるのかも!』
ヒカルはおそるおそる舌を伸ばし、アキラの侵入してきている舌に触れた。アキラの体が思いもかけない刺激にびくっと跳ねる。
『ん!舌伸ばすと息できるじゃん!それに、塔矢びっくりしてるみたい。えへへ。もっとびっくりさせてやれ。だって、いっつもオレばっかりびっくりさせられてるもん!』
ヒカルは、調子にのって、今までアキラにされたことを思い出しながら、ひるんだアキラの口に攻撃を仕掛けた。
アキラの口に突然入り込んできたヒカルの舌は暴れ回った。
「う・・・。」
ぞくっとしたアキラがうめくと、ヒカルはますます調子に乗った。
『オレ勝ってるかも!!勝ってるかも!塔矢、ドキドキしてる?動揺してる?』
しかし、いつまでも押されているアキラではもちろんない。ヒカルが答えてきたのはびっくりしたが、逆にもっとヒカルを攻めたいという欲求が湧き上がってくる。アキラは体の中で燃えさかる炎の欲するまま、ヒカルの体を強引に布団に押し倒した。
「わぁっ!」
ばふんと倒されて、すぐにアキラがヒカルの体を組み伏せて、上からヒカルの唇を狙う。ヒカルは手をばたつかせたがアキラはさっと両手でその腕をヒカルの頭に持っていって、強い力で押さえつけた。
『なんかやばいかも!』
ヒカルは直感的に危機感を感じた。アキラの瞳に余裕がない。真剣すぎるまなざしは、ヒカルを捕らえて離さない力に満ちている。
「塔矢!だめぇ!!」
ヒカルが叫ぶのと同時に、急にフッと軽くなる。
「あり?」
案の定、危機を察知した猫の本能で、アキラの腹に猫キックを食らわせてしまったようだった。アキラは、ふっとばされて、腹を押さえてうずくまっている。
「うわぁ・・ごめん!!ごめん。塔矢。痛かった?」
ヒカルは自分が無意識でやったこととはいえ、さすがに悪いと思って駆け寄った。
「痛っ・・。」
アキラは、涙目になって痛みに耐えている。ヒカルは蹴ってしまったと思われる箇所に手を乗せて優しく撫でた。
「塔矢・・ごめん。」
ヒカルは乱れて顔にかかっているアキラのサラサラの黒髪を元の場所に戻しながら、アキラの顔を覗き込んだ。アキラは、すねたようにむくれているように見えた。
「塔矢ぁ・・。」
何も言ってくれないアキラに、ヒカルは意を決した。
『このままじゃいけない。オレ、いっつも塔矢のこと突き飛ばしたり蹴ったりしちゃって・・。もっと塔矢と大好きを増やすためには、塔矢がしたいことできるようにしないといけないんだ・・きっと。』
ヒカルは、アキラの前に座り直した。そして、両手を前に突き出す。そして、ヒカルは信じられないことを言った。
「塔矢。オレを縛って!」