ねこ猫ヒカル
【9話 とらわれのヒカル】
「出せ!出せってば!佐為!!」
土牢の太い木の柵にしがみついて、ヒカルは叫んだ。
猫の国へ連れ戻されて2日がたっていた。その間、ヒカルは近衛の目を盗んでは、人間の世と行き来できるという木の洞に向かった。しかし、何度も行く手を阻まれ、その都度つかまってしまう。ヒカルは最初はアキラ会いたさだったが、そのうちムキになって脱走を繰り返した。
そうして、どうしようもないと判断した教育係の佐為がヒカルを土牢に閉じこめたのだ。土牢は半地下にあって、ひんやりと湿った空気がいつも流れている。ヒカルも小さい頃はよくいたずらをして、佐為に閉じこめられたことはあったが、泣けばすぐに出してもらえていた。しかし、今回はそうはいかない。いくら叫んでも、泣いても、決して佐為は開けてはくれなかった。
「もう!佐為のバカ!」
佐為へ悪態をついても、ここからでは佐為には聞こえるはずもない。時々、和谷がこっそり差し入れにお菓子や本を持ってきてくれて、気を紛らわしてくれる。
「ヒカルの君・・佐為の君は随分怒ってるから・・。でもきっともう脱走しない、人の国に行かないって言えば、出してくれると思うぜ。」
和谷は、小さい時からずっと友達のように接してくれる数少ない近衛である。でも、ヒカルが人間界に行ったことで、随分とがめを受けて、どうしても人間界に行きたいヒカルの肩は持ってくれなかった。
「塔矢ぁ・・。塔矢はオレがいなくなってどうしてるんだろう・・・。」
そう考えていると、佐為があらわれた。まだ怒っている厳しい目。決してヒカルを土牢から出すために来たのではないとわかる。
「ヒカル。反省しましたか?」
「・・・。」
佐為は土牢の扉を見張り番に開けさせて、中に入ってきた。隅で黙り込んで座っているヒカルに近づき、頬に手を当てる。
「私だって、こんな事はしたくないのですよ?ね?あの人間のことは忘れなさい。そうすれば、ここからも出してあげますよ。」
「人間なんて言うな!塔矢だ!塔矢のこと、忘れるなんてできない。」
いやいやと首を振るヒカルに佐為は優しく髪触れて、子供をあやすように撫でた。
「忘れなくてどうするのです?ヒカル。よく考えなさい。あなたが人間界に行ったところでずっといられるわけではない。人間はあなたを一時の心のよりどころとしているだけです。いつかあの人間はあなたを裏切り、あなたを捨てますよ?その時あなたはどうなります?絶望して・・もう猫の国にさえ戻れない体になって・・。猫の国にいれば、幸せなことばかりですよ。」
「・・・猫の国にいたって、オレだけ必要なわけじゃないだろ。別のもっと力が強い・・素質のある王子が生まれたらみんなそっちに移っていくだけ・・。塔矢はオレだけを・・オレだけ大事にしてくれる・・。」
「まぁ、そんなこと。ヒカルから誰も離れてなんていきませんよ。みんなあなたを愛していますからね。あの人間にたぶらかされているだけですよ。本当は人間なんて、何か一つを大事にする事なんてできないのですから・・。」
「違う。塔矢は違う!塔矢とならオレ・・『赤い輪』だって見つけられそうなんだ・・。」
「赤い輪ですって!?」
佐為の表情が変わった。ヒカルは、うつむいていたが、佐為の声の変化にはっとなった。
「赤い輪などという言葉は発してはいけませんよ。ヒカル。赤い輪など、リスクが多すぎる。そう、小さい頃から教わったでしょう。あれはただの伝説です。実際にはあり得ません。」
「でも・・でも・・赤い輪があれば、猫の国の栄光が1000年延長されるんでしょ?」
「だからといって、あなたが赤い輪を手に入れなくてもいいのですよ。赤い輪が手に入らなかった時、どうなるかわかっているのでしょう?王子であるあなたがそんな事を口にしなくてもいいのです。」
佐為の厳しい言葉がヒカルをびくつかせた。
「それに、ヒカル。今日あの人間がその後どうしたか、見に行かせていた伊角が戻りましたよ。」
「え?」
「あの者が、どうしているのか・・あなたに教えてあげようと思って伊角に調べさせたのですよ。」
佐為は、ヒカルの顔をその細い綺麗な指で自分の方に見上げさせた。ヒカルの目は、期待と不安で揺れている。佐為は、その目にいらだった。
冷酷な口調で佐為は
「あの人間は、ヒカルのことなど忘れて、別段普通に楽しそうに過ごしているそうですよ。それどころか、ヒカルがいなくなって碁の勉強にも身が入ると言っていたそうですよ。」
「え?」
佐為の残酷な言葉に、ヒカルは頭が真っ白になった。佐為は、にっこりと笑った。しかしその笑顔は冷たさを含んでいた。
「ねぇ、忘れてしまいなさい。ヒカル。あなただけが寂しい思いをするなんて馬鹿らしいじゃありませんか。ね?」
「とう・・や・・。」
ヒカルの瞳から涙があふれた。佐為はすっと立った。泣いているヒカルを置き去りに、土牢から出る。
外で控えていた伊角があわてて、
「佐為の君・・あれでは!」
と、抗議したが、佐為はさっさと土牢をあとにした。伊角もヒカルのことを気にかけながら、土牢をあとにする。
廊下で伊角は、佐為の君を追いかけた。
「佐為の君、あれではお話が違います。あの人間はヒカルの君と同じく沈んだ日々を送っていると言うのに・・。」
伊角は自分の報告が曲げて伝えられて事にあせっていた。佐為は立ち止まって、伊角にきついまなざしを向ける。
「考えなさい。そんなことをヒカルに言おうものならちっともあきらめないではありませんか。伊角、本当のことをヒカルに告げてはなりませんよ。命令です。」
佐為はそれだけ言うと、いつもは足音など立てないのに、ドスドスと廊下を去っていった。
一方、アキラの方は、自分の力不足からヒカルを奪われたことのショックに打ちひしがれていた。父と母が心配するので、平気な振りをしているつもりだったが、どうしても父と母にはばれてしまっている。もちろん、父も母もアキラと同じようにヒカルがいなくなって寂しく思っているのだろう。
今日も学校帰り、家に帰るとヒカルのことを思い出すので、父の経営する碁会所に寄った。ヒカルが来てからはまっすぐ家に帰る毎日だったので、約半月ぶりくらいになる。
「あらぁ、アキラ君。お久しぶり。」
受付嬢の市河さんがにこにこと出迎えてくれる。アキラは、取り繕うように不自然な笑顔を作る。
「あ、今日は緒方さんも来てるわよ。奥でたばこ吸ってるわ。」
「そうですか。」
囲碁のタイトルホルダーである父の弟子・・緒方はいつも白いスーツに身を包んだ男である。囲碁は強いが女癖が悪くて、いつも複数の女性とつきあっていると、弟子の中でアキラと仲がよい芦原に聞いていた。緒方は結構勘がいいところがあり、アキラは自分が気落ちしていることを読まれそうでまずいと思った。
そう思っている矢先に緒方に見つかる。緒方は遠慮なしに向かいの席に座ってきた。
「やあ、アキラ君。ん?どうした?浮かない顔だな。」
しかもすぐに元気がないことも見破られる。アキラは、なるべく笑顔を作って、いつも通りの会話を返した。
「そんなことありませんよ。緒方さん。」
「そうか?そうだ。そういえば、名人が猫を飼いだしたってこの前言っていたけど、アキラ君が拾ってきたんだって?」
予想しない猫の話を出されて、アキラは体がこわばる。それでも口は冷静を装って
「ええ・・。でも猫は逃げてしまって・・今はいないんですよ・・。」
と、言った。なるべく猫の話はしたくなかった。
「そうか。どこかの飼い猫だったのかな?本当の家に戻ったのか・・。」
緒方の言葉にさらにアキラは傷ついた。『本当の家』という響きが、アキラのところが居場所でないと言っているように聞こえた。
「まぁ、でもなんだか聞いたら普通のトラ猫だって言うじゃないか。アキラ君にはもっと・・西洋の猫なんかいいんじゃないか?なんだ?そんなに猫がいなくなったのがショックなのかい?なら、今度いいペットショップを紹介しよう。いい猫がたくさんいるぞ。」
緒方は親切心で言っているのだろうが、アキラにはいらだちしか与えなかった。
「進藤は・・進藤は普通の猫なんかじゃありませんよ・・。特別な猫だ・・。」
「シンドー?変わった名前を猫につけていたんだな・・。」
緒方は、新しいたばこに火をつけた。
「進藤は・・進藤は・・かわいくて・・暖かくて・・進藤だってボクを必要としてくれていた・・。」
「アキラ君?」
「進藤にボクがあんな事をしてしまったから・・魔法が解けてしまったんだ・・幸せな魔法が・・。」
「あんな事?」
「罰が当たったんだ・・。ボクが今ある幸せを大切にしないで、もっと触れたいと願ったから・・。」
アキラの思い詰めた様子に、緒方はあわてて、つけたばかりのたばこの火を消す。
「おいおい。何の話だ?猫とかいって、実は女・・とか?いや、まさか、アキラ君に限って。」
緒方は、そういいながらも興味津々だ。
「何をしたんだ?アキラ君。キスでもしたのか!?」
緒方の言葉に、アキラはあからさまに動揺した。緒方はもちろんそれを見逃さない。
「キ・・キスなんて・・。」
「したんだろ?それで何?そのシンドウとかいう子にふられたのかい?泣かれたとか。」
「・・・・・。」
「図星か。良かったらオレが相談に乗るよ。ふふふ。アキラ君は知らないかもしれないけど、オレは超モテモテ男なんだぜ。」
「・・知ってます。」
「そうか。酸いも甘いもかみ分けきってるからな、何でも聞いてくれよ。恋愛のことなら・・。」
「恋愛?別にボクと進藤はそんな・・。」
アキラはポッと頬を赤らめる。緒方はますます調子に乗って饒舌になった。
「ん?しかし、キスしたんだろ?キスしたいと思うのが恋愛でなくてなんだというんだい?」
「・・緒方さん・・キスキス言わないでください・・。」
「で、そのシンドウとかいう子はアキラ君のことを好きなのかい?」
「好きかどうかなんて・・。いつも大好きといってくれていましたが・・。」
緒方は、もじもじしながら答えるアキラに、ヒューと下品に口笛を鳴らした。
「アキラ君・・結構やるなぁ・・。好きだって言ってくれるなら平気だろ。行け!どんどん行け!」
「でも・・進藤は泣きましたが・・。」
「きっとびっくりしたんだ。うん。若い時にはよくあることさ。その後嫌いとかもう別れようとかいわれた訳じゃないだろ?」
「ええ・・。でも・・もう進藤は遠くへ行ってしまったんです・・。連れ去られてしまったんです・・。」
アキラは、拳を膝のところで固く握りしめた。緒方は、ふふふと笑って、
「アキラ君らしくないな。連れ去られてそれで終わりかい?別の男にさらわれたわけじゃないんだろ?さしずめ、相手の親に気づかれてひきさかれってところか。」
「そんなところです・・。」
「ならば、追いかけろ!追いかけて奪え!碁で相手の陣地を奪うごとくに!」
緒方の力強いアドバイスによって、アキラは少し元気が出てきたような気がした。緒方もただの女たらしではないようだ。
「そうですね。追いかけます!」
「その意気だ!」
緒方は、拳を振り上げてガッツポーズをした。しかし、その勢いも意気込んだアキラの次の一言によって長くは続かなかった。
「ところで、緒方さん、猫の国ってどこにあるんですか?」
アキラの意味不明な言葉に、緒方は沈黙するしかなかった。