船を下りて、まず目についたのは、咲き乱れる木々の花だった。
鮮やか、というのとは少し違う。とても綺麗で、華やかなんだけれど、同時にとてもはかない美しさがあった。
風に舞った薄紅色の花びらが、私の黒髪に落ちる。それを指先でそっとつまんでみた。
桜、というらしい。
私たちが育った国には存在しない、この東方の島国を象徴する植物だと聞いた。
「……で、感想は?」
何を考えるでもなく、ぼんやりと桜の花びらを見ていた私に、同行者が声をかけた。
飄々としているのはいつも通り。だけど、さすがに今日は少し緊張しているように見えた。
「感想、って?」
「生まれ故郷に帰ってきた感想だよ」
「生まれ故郷って云っても……私は赤ん坊の頃に、母に連れられて出てるから……何も覚えてないわ。正直、帰ってきたなんて、思えない」
「ふうん」
「それを云うなら、葉月の方が――」
云いかけて、私は思わず言葉を失った。葉月の瞳に一瞬浮かんだ色。私が今まで見たことのない、激しくて冷たいその光に、私は怯んだ。
「……あたしも、よく覚えてないよ。小さかったし」
「……そう」
ため息をこらえて、私は頷いた。
葉月は昔のことは話してくれない。ここに来ることにあんなに熱心だった理由も、それなのにいざ旅立ちの日が近づくと、どんどん思い詰めて暗くなった理由も。
――ここは、天津の国。
ミッドガルド大陸の東、遠く遠く海を隔てた異国の地だ。
これまでその存在は知られていたものの、航路の危険さから定期的な往来はなかった。それが最近になって、冒険的な商人の活躍で、安全な航路が発見されたのだ。その結果、両国間で貿易が始まり、私たちのような一般人も、貿易船に乗せてもらうことができるようになった。……船賃はぼったくりと云っていい金額だけど。
ここが、私と葉月の生まれ故郷、らしい。
らしい、というのは、さっき葉月に云ったとおり、私の記憶にはないからだ。商人だった母は、幼い私を連れ、危険な海を渡ってミッドガルドへやってきた。
なぜ母がそうまでしてミッドガルドへ来なければいけなかったのか(もしくは、天津を離れなければならなかったのか)、それも私にはわからない。母は私を修道院に預けたあと、過労のあまり亡くなってしまったから。
悲しいことに、母の顔すら思い出せない私が、天津に郷愁を持てるはずがなかった。私の故郷はプロンテラ。ずっと、そう思ってきた。
だけど、葉月は違った。天津航路の就航を聞くや、すぐにでも行こうと云いだしたのだ。
私ももちろん興味はあったから、一緒に来ることにやぶさかではなかったのだけれど。
「ここでぼーっとしてても始まらないよ。ぶらぶらして来よ」
「……うん、そうだね」
「それにしても湿気が多いとこだなあ、ここは」
云いながら、歩き出した葉月に続く。シーフの服装は、アコライトに比べてまだ涼しげでいいんじゃないかな。私にはあんな露出の多い格好はできないけど。
桜並木の下を、二人でぶらぶらと散策した。建物の様式も、人々の服装も全然違う。私も葉月も、もしかしたら、ああいう格好で暮らしていたのかもしれないと思うと、ちょっと不思議。
視線を上げると、そびえる城郭が見えた。これもプロンテラの王城とは全然違う。
「不思議なところね」
「んー、……そうかもね」
気のない返事で、葉月は私の視線を辿った。
それはやはり、何かを隠そうとしているように、私には思えた。
「……葉月」
「ん、なに?」
「私は、あんたの相棒だからね」
怪訝そうに振り返った葉月の目が、大きく見開かれる。そして、一拍の間のあと、私の視線をまっすぐ捉えたまま、にっこりと笑った。
それは、たとえばフェイヨンの迷宮で。イズルードの海底で。ゲフェンの塔の地下で。生死をかけた場所で、いつだって安心して背中を任せられる私のパートナーの、笑顔だった。
「知ってるよ」
「……うん、行こっか」
ようやく私もわだかまりなく微笑むことができた。
たとえ葉月が何を隠していようと、どんなことが起きようと、私たちは大丈夫。どんな困難も、ふたりの絆だけで乗り越えていける。
このときの私は、そう信じてた。
この国で待ち受けている運命も知らずに。