狭くて薄暗い洞窟は、腐った死体どもの汚らわしい息吹でいっぱいだった。
ただでさえ醜悪な生き物であるオークが、死んだ後もこうしてうろついているなんて、タチの悪い冗談としか思えない。
――あの女なら、迷える魂を救うとか、そんな綺麗事をのたまうのだろうけど。
私には、関係ない。生きているものも、死んでいるものも。
私の邪魔をするなら、すべて、叩き伏せるだけだ。
「しつこい……っ」
風を切るチェインに、一瞬、炎の揺らめきが宿る。燃える分銅が、背後から迫ったオークゾンビの頭を直撃し、粉砕した。
息をつく暇もなく、新手が来る。コウモリどもも集まってきた。
上等。私の体力が尽きるのが早いか、こいつらを全部ぶちのめすのが早いか――!
「うわ、これは無理だって。撤退撤退!」
「――え?」
不意に声をかけられると同時に、腕を引っ張られた。
振り払おうとしたものの、思いがけない強さで引かれたので、体勢を崩してしまった。その隙に、オークゾンビどもがにじり寄ってくる。
ああ、これじゃもうほんとに一時退くしかない。こいつが邪魔しなければ――。
「ぼけっとしてないで! 走るわよ!」
「……わかったから、離しなさい」
「そんなこと云ってる場合じゃないでしょ!? 早く早く!」
云いながら、そいつはもう走り出していた。私の手を引いたままで。
やむを得ず、私もあとについて走る。もたもたしていては、確かに致命的に囲まれてしまう。
……こんな風に、手を引いて走られるのは、とても嫌だったけれど。なんだか余計なことを思い出してしまう。
だから、洞窟から抜け出ると同時に、私はそいつの手を振り払おうとした。
けれど、肩で息をついて疲労困憊という様子でありながら、そいつの手は未だしっかりと私の手を掴んでいた。
うつむいて息を吐いていた顔を、そいつが上げる。
眼鏡をかけた女だった。どうやら商人らしい。商人がこんなところに来るなんて、珍しいことだ。
つい意外そうに見つめてしまった私の視線をどう受け止めたのか、そいつはずり落ちた眼鏡を直しながら、にっこりと笑った。
「危なかったねえ。間一髪って感じ」
「……手、離して」
「え? ああ、ごめんごめん」
ようやく離された手を、大げさに振ってみせる。そして、眼鏡の奥の瞳を軽く睨んでやった。
「あんたが邪魔しなければ、十分切り抜けられたわ」
「……え?」
私の言葉に、商人はぽかんと口を開ける。見るからに人の良さそうな女は、気まずげに視線をそらし――たりは、しなかった。
それどころか、急に意地悪そうに薄く微笑んで、首を傾げて見せて。
「アホ?」
なんてことを、口にした。
「な……っ」
「一人でダンジョンに入るぐらいだから、それなりに腕は立つのかと思ったけど。冷静な状況分析ができないようじゃ三流以下よ」
「だから、私は大丈夫だったって――」
「本気で云ってるなら、本気でアホよ? 自分の力量、残ってた回復手段、敵の出現頻度、すべて計算して、それでもあのままあそこにとどまっていたのが正解だったと思う?」
まさに立て板に水、という感じだった。
私はその勢いに飲まれたわけでもないし、もちろん納得なんてしていなかったけれど、つい言葉に詰まってしまった。負け惜しみのようになってしまうのが嫌で。
すると、そいつはもう一度満面の笑みを浮かべ、そして次の瞬間、糸が切れたように座り込んだ。
「ちょ、ちょっと……」
「はあ、つっかれたぁ。休憩休憩」
商人特有の大きな鞄を広げて、中のアイテムを探り始めた。どうやら回復ポットの類を探しているらしい。
私は軽くため息をついて、そいつの前に右手をかざした。
「……ヒール」
「お?」
少し驚いた風に顔を上げた商人の体を、薄い光のヴェールが包む。光は傷を癒し、疲れを取り除くはずだ。
「……」
「……なによ」
じっと見つめてくる視線から、なぜか目をそらし、自分にもヒールをかけた。
「ありがとう。助かる」
「……別に」
「思った通りの子みたいで、安心した」
「だから、なによ、それは」
「私、夢深っていうの。あなたの名前は?」
……聞いちゃいない。私はもう一度ため息をついて、自分もその場に腰を下ろした。
夢深と名乗った女は、ニコニコと微笑みながら、私の返事を待っている。
名前。そんなものはない。私には必要なかったから。
ただ便宜上、呼び分けるために使われる名称だけが。
「……紫凰」
「しおう? ふーん、かっこいい名前ね」
「……」
「んじゃ、よろしく、紫凰」
何をよろしくすると云うのか。
差し出された手を、私は今度こそ無視することに決めた。