呼び出し音が10回以上鳴るまで待っていたが、相手は電話に出る様子がなかった。
霧島聖はため息をつき、指を電話のフックに伸ばした。そして電話を切ろうとしたそのとき、ようやく繋がった。
「もしもし? 聖だが……」
「……」
繋がりはしたが、電話の相手は無言だった。いつもなら勢いよく答える声が聞こえるはずなのに。かけ間違えたかと、聖は思った。
「もしもし? 晴子さんだろう?」
「……」
やはり返事はない。沈黙を肯定と取り、聖は言葉を続けた。電話の向こうの神尾晴子の尋常でない様子が、胸騒ぎを激しくさせていた。
「観鈴くんを車椅子で運んでいるのを見た、という話を聞いたんだが……どこか、具合でも悪いのか?」
「……」
「例の発作はあっても、身体的には彼女は健康だったはずだ。私でよければ、診察しよう。なんなら、往診に行っても……」
「……ええんや」
「え?」
「もう、ええんや」
あまりに低い、感情のない声だった。悲しみも痛みもない。だからこそ、聖の不安はどんどん大きくなっていった。
「もういいって……それはどういう……」
思わず声が大きくなる。それでも晴子の声音は、淡々としたままだった。
「聖さんがどんな名医でも、もうどうしょうもない。……そういうこっちゃ」
「それは……」
「……ほな」
聖の言葉を待たず、唐突に電話は切られた。
受話器を握りしめて、聖の顔は青ざめていた。まさか、と思う。事故でもなく、そんな突然に。
とにかく、このまま放ってはおけない。聖は受話器を置いて、外へ駆け出そうとした。
勢いよく病院のドアを開け放つ。すると、そこには驚きに目を丸くした妹の佳乃が立っていた。
「わぁ、びっくり。お姉ちゃん、どうしたのぉ?」
右手を口元に当てて、相変わらずおっとりした口調で佳乃は云った。右手首に巻かれたバンダナが、風で揺れている。そのバンダナを見るといつも思う痛みを、やはりいつも通り胸の奥に沈めて、聖は微笑んだ。
「ああ、すまないな、佳乃。出かけてくるから、留守番していてくれ」
「了解だよぉ。急患さん?」
「……それなら……まだいいのだが……」
「え?」
「いや、なんでもない。神尾さんのところにいるから。遅くなるようなら、先にご飯を食べて休んでいろ」
「……うん」
聖の様子から何かを感じたのか、佳乃もそれ以上は何も訊かずに頷いた。
残暑の厳しい日差しの中、聖は駆け出していく。佳乃は少し不安げに、その後ろ姿を見送っていた。
*
玄関の呼び鈴を何度鳴らしても、先ほどの電話と同じように、晴子は出ようとしなかった。
聖は唇を噛んで少し考えたあと、玄関の引き戸に手をかけた。開いている。静かに引き明け、聖は晴子を呼んだ。
「晴子さん? 聖だ。いるんだろう?」
やはり答えはない。聖は引き戸を閉め、靴を脱いだ。
「……上がらせてもらうぞ」
廊下を通って、居間へ向かう。だが、そこには誰もいなかった。台所にもいない。晴子の部屋にも。
――やはり、ここか。
固く締め切られた観鈴の部屋のドアの前で、聖は少しためらった。
はじめから、ここにいることはわかっていたはずだ。それなのに最後にしたのは、不安が的中するのが怖かったからか。
医者のくせに、なんということ。
自分を叱咤して、聖はドアに手をかけた。
「……開けるぞ」
ゆっくり、ドアを開ける。そこにはやはり、無表情に座り込んだ晴子と、穏やかな笑顔でベッドに横たわる観鈴とがいた。
そう、観鈴の面には深い安らぎと満足感が浮かんでおり、ただ静かに眠っているようにさえ見えた。
聖は息を飲み、晴子に声をかけることさえ忘れて、ベッドに近づいた。震える手を、観鈴に伸ばす。
医者として、臨終を看取った経験などいくらでもあった。けれど今回は、なぜだかとても怖かった。その死を認めてしまうことが。知人の娘だから、という理由だけではない、奇妙な理不尽さが込み上げていた。
どうしてこの娘は、こんなに穏やかな笑顔を浮かべているのだろう? こんな歳ですべてを失って、どうして?
「確かめるまでもない。もう、わかっとる」
ふいに声をかけられ、びくっと聖は身をすくませた。自身の動揺を見透かされたようで、ついきつい口調で晴子を振り返ってしまった。
「どういうことなんだ、これは!? なぜ、いきなり、こんな……」
「……」
「どうしてこんなことになる前に、連絡してくれなかったんだ」
座り込んだままの晴子の前に膝をつき、聖は晴子の顔を覗き込んだ。
晴子は答えず、聖と目を合わせようともしない。
連絡したらどうにかなったのか、晴子の態度はそう云っているようで、聖の動揺は深まった。例の発作で相談されたときも結局、何もできなかったではないか。
「あの発作と……何か関係があるのか……?」
「……」
「なあ、晴子さん……」
「……わからへんよ」
「……」
「ウチにはもう、何がどうなってるのか……全然……」
「晴子さん……」
「なあ、なんでや、聖さん? なんで、あの子、死ななあかんかったん? ゴールってなんやの? ウチ、ただあの子と……本当の親子になりたかってん……。それだけやったのに……」
堰を切ったように、晴子は涙とともに言葉を吐き出した。
要領を得ないその話を、聖は整理しながら聞いていた。
観鈴を本当に引き取るため、観鈴の実家に行ってきたこと。
帰ってきたら国崎往人がいなくなっており、観鈴の体調がおかしくなっていたこと。
観鈴の記憶がなくなったこと。
観鈴の実父が引き取りに来たこと。
すべてを諦めようとしたとき、観鈴が「ママ」と読んでくれたこと。
そして……海岸での最後の出来事……。
止めどなく大粒の涙を流し続ける晴子を、聖はじっと見つめていた。
晴子の話からは、結局、観鈴がどうしてこんなことになったのか全くわからなかったが、ただ、晴子が観鈴をどれだけ愛していたかは痛いほど伝わってきた。どれだけの痛みと悲しみの中に、今、彼女がいるのかも。
「なあ、聖さん、なんでや? ウチ、あの子の本当の母親になりたかったんや。それだけやったのに。遅すぎたんか? ウチがあの子のこと、ずっと淋しいままにさせとったから……そやから、こんなことになったんか?」
「晴子さん、それは……」
「これが……これが、罰なんやろか? ウチの……」
「……!」
罰。その言葉が、聖の胸を貫いた。
もっと早く、真実と向き合う勇気があれば。そうすれば、悲劇は避けられたのか。目を背け続けた報いは、必ず訪れるのか。
けれど。彼女は本当の気持ちを取り戻そうとしたのに。それを「遅すぎた」で切り捨てるのは、あまりに残酷ではないか。
そしてその残酷な結末は、やがて自分にも――。
そこまで考えて、聖は目を閉じて首を大きく振った。
晴子を元気づける言葉を探す。自分自身への言い訳を探すように。
聖はベッドの横に立ち、観鈴の顔を見つめながら呟いた。
「それでも……観鈴くんは幸せだったはずだ。最後に晴子さんと築いた親子の絆は……本物だったのだろう?」
「……」
「だから、こんなに穏やかな……」
「――そんなん」
「……え?」
言葉を遮られて、聖は晴子を振り返った。晴子の慟哭はさらに激しく、握りしめた拳からは血が滲むのではないかと思われた。
「そんなん、なんの役にも立たんやないかっ。死んでしもうたら、なんの意味もないわっ。ウチのこと、ママなんて呼んでくれんでもよかったんや。ただあの子が生きとってくれたら……。叔母さん、て呼ばれとってもええ。ただ……生きとってくれたら……」
「……」
もはやふたりとも、口にする言葉がなかった。ひとりは無力感に立ちすくみ、ひとりはただ嘆きのただ中で涙を流し続けた。
*
すでに陽が落ちてから数時間が経ち、空は今日も満天の星空だった。
聖は白衣のポケットに手を入れ、うつむき加減でゆっくりと家路をたどっていた。
あのあと、結局、何も話せなかった。ただ、観鈴をそのままにしておくわけにもいかず、再び座り込んだままになった晴子に代わって葬儀の手配をして、聖は神尾家を辞した。
医者としても、友人としてもなんの力にもなれず、ただ事務処理だけをして帰る自分が、ひどく情けなかった。
――そして。
帰り着いた病院の前で、聖は大きくため息をついた。そしてドアを開けると、待合室では、右手にバンダナを巻いた少女がぽつんと座っていた。
「……佳乃」
「あ、お姉ちゃん、お帰りなさぁい」
淋しげな様子を見せていた佳乃は、聖の姿を認めると、満面の笑顔で立ち上がった。
聖も思わず笑顔を返す。ずっとずっと、その笑顔に救われてきた。そのことを、改めて思い出した。
――そう、そして。
「ずっとここにいたのか?」
「うん、なんとなく。……ねえ、神尾さん、どうかしたの?」
「……ああ、あとで話すよ。お腹がすいただろう? 食事にしようか」
「うんっ。もう、お腹ぺこぺこだよぉ」
「そうかそうか。すまなかったな」
笑顔で台所へ向かおうとしたところで、聖は足を止めた。振り返って、佳乃を――佳乃の右手を見つめる。そこで揺れているバンダナを。
佳乃が不思議そうに、聖を見つめ返した。
「お姉ちゃん?」
「……」
聖は待合室のソファまで戻り、腰掛けた。佳乃を促し、隣に座らせる。
「佳乃、右手を出しなさい」
「はぁい」
やはり不思議そうにしながらも、佳乃は素直にバンダナを巻いた右手を差し出した。
聖は佳乃の笑顔と、そのバンダナとを、交互に見た。
ここに、自分の罪がある。
佳乃を失うことが怖くて、嘘をついた。本当のことから目をそらして。いつか時間が経てば解決してくれるのではないかと、信じてもいない望みを託して。
けれど、乗り越えなければいけないのは自分自身だ。自分と、佳乃だ。
晴子と観鈴が乗り越えたように。そして、遅すぎたと悔いを残さないために。
聖はそっと佳乃の右手を握り、バンダナの端に指を添えた。
「……お姉ちゃん、それは……」
佳乃がびくっと体を震わせ、後ずさろうとした。
聖は佳乃の手を握ったまま、静かに微笑んだ。
「いいんだ」
「お姉ちゃん……?」
佳乃は戸惑い、おびえた視線を聖に向けた。しかし、聖の穏やかな笑顔を見て、うつむきながらも体から力を抜いた。
「これで、いいんだ」
バンダナの端を、聖はすっと引っ張った。
迷い、嘆き、不安、そして、希望。様々な想いの綾を解きほぐすように、黄色いバンダナはほどけ、宙を舞った。
姉妹はその黄色い軌跡を、じっと見守っていた。
「魔法は、いらないんだ」
「うん……」
姉のその呟きに、妹は小さく頷いた。
あとがき
プレイ前の第一印象では晴子さんイチオシだったんですが、プレイ後の感想では僅差で聖ねーさんかな?という感じです。張りつめた脆さってのがいいですよね(^.^)。あと、私はやはりきつい顔が好き(^^ゞ。
ということで、お気に入り二人で書いてみました。次は美凪が書けるといいなあ。実現性は乏しいですが(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。