彼女が出かけようとしたちょうどそのとき、家主が帰ってきた。
引き戸を開いた衛宮士郎は、玄関に立つ長身の美貌を認めて、眩しげに目を細める。その仕草は、たとえ毎日顔を合わせていても慣れることのない、まさに人外の美に対する賛嘆の表れなのだが、その視線を向けられる当人にはなぜか居心地が悪い気がしてしまう。
もちろん、彼女はそんな内心の屈託を見せることはないけれど。薄く微笑んで目線を上げ――ああ、ようやく彼は私より背が高くなってくれた――、声をかけた。
「お帰りなさい、士郎」
「ただいま。ライダーは出かけるところか?」
はい、と答えて、彼女は頷く。腰に届くどころか、膝の辺りまで及ぶ長い紫の髪が、その動きに合わせて揺れた。
彼女は、「ライダー」と呼ばれている。それは彼女が召喚されたときの役割名であり、厳密には固有名詞ではないが、彼女も周りの人間も以前のまま、そう称していた。真名で呼ばれるのも、かえって落ち着かないし、外聞も悪い。「メドゥーサ」だなんて。
「買い物に行ってきます」
「そっか、気をつけてな」
何に気をつけるのだろう、と内心苦笑しながら、ライダーはもう一度、はいと頷く。
彼女を傷つけられるようなモノは、そう滅多に存在しない。それでも初めて逢った頃から、彼女を普通の人間のように――普通の女の子のように扱い、気遣いを見せる士郎。その気持ちが、ライダーの心をくすぐった。
「――ああ、そうだ、眼鏡の調子はどうだ?」
すれ違う瞬間、士郎は振り返ってそんなことを訊いた。
ライダーは指を上げて、眼鏡の縁に触れる。こんなものを使ったことはなかったので、確かにはじめは違和感があったが、あの封印よりはよほど快適だった。
「問題ありません。さすがはアオザキの魔眼殺し。――こうしていても、効果はないでしょう?」
云いながら、ライダーは士郎の目をじっと見つめた。
するとたちまち、士郎が挙動不審になる。顔を赤くして、わたわたと目をそらした。
「士郎? 魔眼の効果が出てしまっていますか?」
「い、いや、そうじゃない! そうじゃなくて、その……正面から見られると、やっぱり……」
「?」
「な、なんでもない! じゃあ、気をつけてな! 行ってらっしゃい!」
くるりと回れ右をして、士郎は機械仕掛けのようにぎくしゃくとした動作で廊下を歩いていった。
ライダーは不思議そうに軽く首を傾げたものの、すぐ肩をすくめて、玄関を出た。彼女のマスターの伴侶が不可解な行動を見せるのは、今に始まったことではない。
そう、あのときも。とうてい勝ち目などなく、生還する見込みすらなかったのに。彼はいささかも迷わず、戦うことを選んだ。
今、考えても彼の行動原理は不可解で――、そして、とても彼らしい。士郎なら、何度同じ状況になっても、同じ選択をする。
そう思えるのが、なぜだかとても嬉しい。
不可解なのは、自分も同じか。ライダーはもう一度苦笑して、空を見上げた。
雲一つない青空が広がっている。季節は、夏になろうとしていた。
*
家を出たあと、ライダーは当てもなくぶらぶらと歩いていた。
買い物に行く、などというのは嘘だった。本当は「食事」をするつもりだったのだ。
サーヴァントとして召喚された彼女は、ただここに存在しているだけで、魔力を消費する。そしてそれは、彼女のマスター・間桐桜に負担をかけることになる。
だから、彼女は桜に――もちろん士郎にも――内緒で、魔力を自力調達していた。つまり、慎二に仮に使役されていたとき同様、人の血を吸うことで魔力を得ていたのである。
もちろん、問題になるほどの量は奪わないようにしている。「教会」などにかぎつけられては厄介だし、何より――。
「……」
ふう、と珍しくライダーは重いため息をついた。
自分の行いを知れば、桜と士郎が悲しむだろう。とりわけ士郎は、我がことのように怒るに違いない。そしてきっと、自分の魔力を吸うように云うのだ。
それだけは、二度とできなかった。
出がけに士郎に会ってしまったのは失敗だった。こんなことを考えていると、とても「食事」をする気になれない。
適当に時間をつぶしたら帰ろう、そう考えていたライダーは、自分がいつの間にか、あの桜並木に来ていたことに気づいた。
聖杯戦争が終わってから二年、士郎と桜がようやく叶えた約束。あのふたりと、遠坂凛と、そして自分とで桜の花を見に来た。
あのときの景色は見事だった。そして、この自分がそんな風に誰かとただ花を眺めているなんて、そのことがとても不思議だった。
ライダーはあのとき、皆で座った場所を探し、そこへ腰を下ろした。今度はひとりきり、膝を抱えて。
当たり前だが、今はもう桜の花はない。
代わりに生い茂る緑。熱気をはらんだ風。日増しに青を増していく空。
あれからまだ数カ月なのに、季節はどんどん移ろっていく。
「……」
再び、ライダーはため息をつく。
変わっていくのは季節だけではない。人もまた、変わる。
マスターは明るい笑顔で笑うようになった。
士郎は自分より背が伸びた。
リンは険がとれて少しだけ穏やかになった。
――だけど。
「私は、変わらない」
呟いた一言が、奇妙に重かった。
この姿は、所詮仮初めのものだ。どれだけ時が経っても変わらず、ある日、自分を現世につなぎ止める力が切れたら、ただそれだけで忽然と消えてしまう。はじめからいなかったと同じに。
それなら。どうして、私は、ここにいるのだろう――。
「……え?」
頬を流れる雫に気づいて、ライダーは激しく狼狽した。涙なんてものが自分にあるとは、信じられなかった。
慌ててぬぐおうとした手が、眼鏡にぶつかった。
「……あ……」
外しかけた眼鏡を、何かに気づいた様子で、ライダーはかけ直す。そうして、そのまま周りを見回した。
ガラス越しに見える景色。すぐそばにあるのに、超えられない何かで隔てられているもの。
ああ、なんて、自分にふさわしい――。
堅く目を閉じて、ライダーは自分の膝に顔を埋めた。もはや涙は流れず、ただ虚ろな闇が裡にあった。
*
気がつけば、夜のとばりが落ちていた。
軽く時間をつぶして帰るつもりが、ずいぶん無駄なことをしてしまった。ライダーはやや急ぎ足で、家路を辿っていた。本当は跳んでしまえばすぐ帰れるが、あまりそういうことはしないように云われている。
一頻り自分を哀れんだら、素の自分に戻ることができた。
何を感傷的になっていたのだろう。どうかしているとしか思えない。マスターの感覚に引きずられているのだろうか。
そんなことを考えながら、衛宮家の玄関を開けたとき、またしても彼女は家主と鉢合わせすることになった。
「おう、お帰り」
「……戻りました。士郎は今からお出かけですか?」
まだ夜更け、という時間ではないが、決して早くもない。食事時にこの人物が家を空けるのは珍しい。
ライダーの問いかけに、士郎は笑顔で首を振って、履きかけの靴を脱いだ。
「いや、ライダーの帰りが遅いから、ちょっとその辺まで見に行こうかと思って」
「……え……?」
「ちょうどよかったよ。飯にしようぜ。今日の当番は桜だから」
「……」
「ライダー?」
茫然と立ち尽くすライダーを、士郎は不思議そうに首を傾げて見る。
その表情をじっと見ていると、知らず知らず、ライダーの口元には笑みが浮かんできてしまった。
そう、この人はそうなんだ。いつだってこんな私を、普通の「女の子」扱いしてしまう――。
訳もわからず茫然とされ、次いで微笑んだライダーに、士郎はさらに困惑して眉をひそめる。だがそれも束の間、士郎もライダーに微笑み返した。
「ライダーも変わったな」
「――な」
たちまち、ライダーの表情が凍る。よりによって、今、そんな話をされるとは。変わっていく世界の中で、変わりようのない己を自覚したこのときに。
「……どういう意味でしょう。私は――」
「どういうもこういうもないだろ。よく笑うようになったじゃないか。うん、やっぱり美人は笑ってる方がいいよ」
「………………」
今度こそ、ライダーは言葉を失って立ち尽くした。放心状態、と云ってもいい。
本当に。この人は。
「そう……ですか。変わりましたか、私は」
「うん。……って、どうかした? 俺、なんか悪いこと云っちゃったかな?」
気遣わしげに覗き込んでくる士郎に、ライダーは首を振って答えた。
「いいえ。……ありがとうございます」
「?」
やはり士郎には何のことかわからない。だがそれでも嬉しかったのは礼を云われたからではなく、ライダーが穏やかに微笑んでいたからだろう。うん、これは眼福ものだ。
「さ、早く飯にしよう。桜が待ちくたびれてる」
「はい」
頷いて、ライダーは士郎の後に続いた。眼鏡越しに、その背中を見つめる。
そばにいても、超えられない何かがあると思ったけど。私と世界を隔てていたのは、そんな「何か」じゃなくて、ただ私の中にあるものだったのかもしれない。それなら。
「士郎」
「……ん、どうした?」
「ありがとう」
もう一度、ライダーは礼の言葉を繰り返した。振り向いた士郎が、伝説の如く石と化すような、そんな笑顔で。
END
2004.2.12
あとがき
「Fate」SS第一作がライダーネタになるとは、自分でも夢にも思いませんでした……(^^ゞ。
いやでも、ライダーいいですよ。ええ。士郎に身長の話をされてうろたえるところなんか、めちゃくちゃ可愛いですね。
ライダールートが没になってしまったのが、とてもとても残念です。キャスタールートもそうですが。
まあ、ライダーと士郎の関係は、惚れたはれたじゃなくて、人間的な信頼だと思ってはおりますけれど。相棒って感じ?
久々に煩悩爆発なあとがきですが(^^ゞ、ご感想などいただければ幸いですm(__)m。