「この私にも、藤の花を想うような人が現れればいいのだが」

「大切にしたいと想う人……?」

「貴女がなってくれますか、藤姫」

 そう云って、あの方は微笑んだ。
 それはいつもと変わらない、私をからかって楽しんでいる笑顔。ただの戯れで口にした言葉。
 そんなことはわかりきっていたのに。どうして私は、あの言葉を、笑顔を、眼差しを、忘れることができないのだろう――。

恋紫

 屋敷の内で、何か急に騒がしい気配があった。
 様子を見て参ります、と云って席を立たれたのは鷹通殿であったけれど、その知らせを持って帰ってきたのは、先ほどまで噂に上がっていた人物だった。

「ご機嫌麗しゅう、姫」

「……友雅殿」

 相変わらず優雅で艶やかで、そして隙のない仕草で、橘少将友雅殿は微笑んだ。
 雅な風流人にして、帝の懐刀とさえ噂される方。そして今は、京にとってなくてはならない龍神の神子を護る、八葉の一人――。

「姫?」

「は、はい、なんでしょう、友雅殿」

 思わずじっと見つめると、友雅殿は訝しげに目を細めた。かと思えば、次の瞬間には、またいつものように少し意地の悪い笑みを浮かべていた。

「私に見とれていらっしゃいましたか?」

「ち、違いますっ」

 ははは、と声を上げて友雅殿が笑う。
 この方の前では、私が私らしさを保てない。どうして、こんなにも落ち着きをなくしてしまうのか、自分でもわからなかった。
 きっと、友雅殿が意地悪ばかり云うからだ。――そんな、優しい瞳をして。

「そ、それより、何か騒ぎがあったようですが……」

「ああ、ケンカですよ」

「――ケンカっ!?」

 こともなげに、友雅殿は云う。腰を下ろして、さも興味なさそうに話を続けた。

「天真と頼久がまた、派手にやっているようですね」

「そんな……大丈夫なのですか?」

「いざとなれば、鷹通や泰明殿が止めるでしょう。ご懸念には及びません」

「はあ……。でも、どうしてケンカなど? 一時はともかく、近頃では親しく打ち解けているように見受けられましたのに」

「さあ? 男同士の事情など、知りたくもありませんが……」

 友雅殿は、扇子を意味もなく開いたり閉じたりしている。よほど退屈な話だと思っているのだろう。
 その様子に、私はついため息をついてしまった。

「……お変わりになりませんわね、友雅殿は。八葉になられたというのに」

「はは、八葉だろうがなんだろうが、私は私ですよ。変わりようがない」

 本当に、どこも変わった風がない。
 本来なら、私はそこで八葉の務めの重さを説いて、友雅殿に自覚を促すべきだったのだろう。
 けれど、不思議なことに、私は友雅殿がいつもどおりであることに、奇妙な安堵を覚えてしまっていた――と思う。
 友雅殿自身、私の小言を想像していたのか、少し意外そうな目線を私に向けた。しかし、何も云わず、話を元に戻した。

「まあ、想像はつきますが」

「ケンカの理由……ですか?」

「ええ。天真が頼久に噛みついたのでしょうね」

「それは、私にもわかりますわ。こう申しては天真殿に失礼ですが……頼久からそのような真似に及ぶとは、考えられませんもの。問題は、なぜ天真殿が頼久に……」

「八つ当たりでしょう。このところ、苛立っておりましたから」

「天真殿が?」

「はい」

 そうなのだろうか。確かに、以前はそういう時期があった。けれど、蘭殿が救い出されてから、天真殿も落ち着かれたと思っていたのに。
 私が要領を得ない顔をしていたのだろう、友雅殿は微笑んだまま、言葉を続けてくれた。

「天真は、あかね殿に懸想している。姫もご存じのはずですが」

「は、はい、それが?」

「恋しい者は、どうあっても護りたいと思うでしょう」

「それは……よいことなのではないのですか? ましてや、天真殿は八葉の一人なのですから……」

「そう、それが問題なのですよ」

 ぱちん、と音を鳴らして友雅殿は扇子を閉じた。私を覗き込んでくる瞳から、どうしても視線をそらせなくなってしまう。我知らず、息を飲んでいた。

「問題……? どうしてですか?」

「己の力で護りたいと思うのは、他の何者にも護らせたくない、ということです。けれど、八葉は文字どおり、八人いる」

「……あ……」

「八葉はすべて神子のものです。神子ただ一人のために、存在している。それが時に、疎ましくも感じるのでしょう」

「……」

「それだけ強く誰かを想えるのも、うらやましいことですが」

 話し終えて、友雅殿は面を外に向けた。
 風が入り、友雅殿の髪をそよがせる。その横顔を、私はとても遠いもののように見ていた。
 ――胸の内に、黒い何かが渦巻いているようだった。
 八葉はすべて神子のものだと、友雅殿はそう云った。神子ただ一人のためだけに存在していると。
 それは、自明のことだったはずだ。私自身、そう何度も口にしてきたはず。
 しかし、それならば。友雅殿がいつか逢いたいと願ったひとは、神子様だったのだろうか……?
 私は唇を噛んで、面を伏せた。
 愚かしいことを考えている。使命と恋慕を混同するなんて、どうかしているとしか思えない。
 わかっているのに、どうして、こんなに胸が痛い――。

「……姫? どうかなさったのですか?」

「――! い、いいえっ」

 気がついたときには、友雅殿が間近で私の表情を伺っていた。私ははしたなくも飛びすさる勢いで身体を反らし、紅くなった頬を隠そうとした。

「は、八葉に不和が生じては、み、神子様を護ることなど、で、できません。そのことを、その、案じておりました」

 苦し紛れに発した言葉だったが、それもまた本心ではあった。
 ようやく八葉が揃ったというのに、仲間同士でいがみ合いがあっては、鬼につけ込んでくれと云っているようなものだ。それでなくても、詩紋殿とイノリ殿のこともあるのに。
 しかし、当の問題を口にした友雅殿は、真剣に憂える様子はなかった。

「相変わらず心配性でいらっしゃる。そこまでの大事にはなりませんよ」

「どうして、そう云い切れるのです?」

「多少の不安や苛立ちはやむを得ないにしても、本当に大切なものを見失うほど、天真は愚かではないでしょう」

「そう……ですね。そうだと、いいのですが」

「大丈夫ですよ」

 穏やかに友雅殿は笑う。その笑顔を見ていると、何も案じることなどないような気がしてきてしまう。
 龍神の神子を支える役目を持つ私が、こんな風に人に判断を預けるような真似をしてはいけないのに。
 そう、内心で自分を叱咤しながらも、私はつい友雅殿に微笑み返して、頷いてしまっていた。

「そうですね。はい……信じます」

「そう、天真を信じてやりましょう」

 ……私が信じたのは……いや、云うまい。そこまでは決して口にしてはいけないこと。
 私は笑顔で、もう一度頷いた。
 友雅殿も微笑んでいたが、ふと何かを思いついた表情になった。たちまち、例の意地悪な笑顔になる。
 こんな顔をすると、本当に悪戯を考えている子供のようだ。私は身構えながらも、なぜか気持ちが浮き立つのを感じていた。

「そうそう、先ほど、八葉となっても何も変わらないと申し上げましたが……」

「は、はい」

「実は一つだけ、変わったところがあるのですよ」

「変わったところ……?」

「はい、奇妙なものが身体に浮かび上がりまして」

「奇妙……って、それは宝珠のことでは!? なんということをおっしゃるのです、友雅殿!」

 八葉はその証として、身体のどこかに宝珠が浮かび出る。それは神力の源であり、尊い力の印だ。それを奇妙扱いとは、なんたること。

「そうはおっしゃいますが、薄気味悪いものですよ」

「友雅殿! ……あ、でも、宝珠はどこに……?」

 見たところ、友雅殿の顔や腕には宝珠はないようだった。他の者は、たとえば頼久なら耳、天真殿は肩、詩紋殿は手の甲、とわかりやすい場所にあったのだけれど。

「私のは、ここに」

 そう云って、友雅殿はご自分の胸元を指した。思わずその指先を見つめた私に微笑んで、襟元に手をかけ――。

「ご覧になりたいですか?」

「――――――と、ともまさどのっ!!」

 思わず女房たちが覗きに来るぐらい、友雅殿の大きな笑い声がしばしの時間響いていた。
 私はもう何を云い返す気力もなく、頬を膨らまして横を向いていた。
 子供扱いされてからかわれるのが悔しく、友雅殿がなんの屈託もなく笑ってくれるのが嬉しかった。

「さて、それでは私はそろそろお暇いたします。参内しなければなりませんので」

「左様ですか」

 横を向いたまま見送ってやろうと思ったのだけれど、友雅殿が立ち上がる衣擦れの音に、思わず首を巡らしてしまった。
 友雅殿は微笑んで、頭を下げる。
 ……そう云えば、友雅殿はなぜこの屋敷に来られたのだろう? 参内の途中にわざわざ?

「何か、他の者にご用がおありだったのですか?」

「は? 何故です?」

「何故って……」

「私は、姫のご機嫌伺いに伺候しただけですよ」

 そう云って、友雅殿はもう一度笑った。
 神子様ただ一人のものであるはずの、友雅殿が。

「私は変わりませんよ、姫」

 私の醜い物思いなど見透かしたように、そして、それすらもすべて包み込んでくれるように、友雅殿は云う。あのときと、同じ瞳の色で。

「………………」

「それでは、また」

 言葉もなく、見送ることしかできなかった。
 友雅殿の姿が見えなくなってから、深い深いため息をつく。
 頬が熱い。胸がどきどきする。
 ――私をいつも惑わすそれらのことが、今はとても心地よかった。

「貴女がなってくれますか、藤姫」

 あれは、あの言葉は、約束だったのだと。
 わずかな時間だけでも自惚れていたかった。




2003.10.1


あとがき

穂波さんのサイト「ざつぶんしょこ」さんが開設されたとき、お祝いに書かせていただいたものです。転載の許可をいただきましたので、こちらにも掲載させていただきました。
私は「遙か」はゲームも持ってはいるんですが、導入部しかプレイしておらず、持っている知識はほとんど漫画版だけのものです。ですから、私的世界観では少将は藤姫のものです(^^ゞ。
もっとも、この頃の藤姫は、自分の気持ちが恋だとかわからなくて、わたわたしてるのが可愛いんだろうなーと思いますが。私が書くと、どうしても恋する乙女になってしまいます(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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