「祐一」
「なんだ?」
「そのおにぎり、食べてもいいかな?」
ドアを半開きにして、祐一が振り返る。廊下の明かりを受けたその顔には、わずかに笑顔が浮かんでいるように思えた。
そのことが嬉しくて、名雪ははにかんだ笑みを返した。
「おなかが空いたから」
「好きなだけ食べてくれ」
「うん」
「……それから……ありがとうな」
静かに呟いて、祐一はドアを閉めた。
部屋は再び、暗闇に閉ざされる。
祐一が出ていったのだから、もう明かりをつけてもいいはずだったが、名雪は闇の中、手探りでドアの近くまで進み、おにぎりを取った。
祐一は、彼女に逢うため、駆け出していった。
祐一なら、きっと彼女を救うことができるだろう。そして、わたしの大切な友達のことも。わたしには、なにもしてあげられなかったけれど。
そう考えながら、名雪はおにぎりをほおばった。
いつもどおり、ゆっくり、のんびり噛みしめながら、呟く。
「しょっぱい……。お塩加減、間違えたかな」
涙の味だった。
*
空になった皿を持ち、頬を流れた雫のあともぬぐって、名雪は階下へ降りた。
リビングでは、母の秋子が座って、本を読んでいた。名雪のほうを振り向き、穏やかに微笑む。
「あら、祐一さん、食べてくれたのね。よかった」
「あ、ううん、違うの、わたしが食べちゃった」
「まあ」
「なんか、おなか空いちゃって。えへへ」
照れ笑いを浮かべながら、名雪はキッチンに入り、皿を洗った。そして、リビングに戻ってきたとき、秋子がじっと自分を見つめているのに気づいた。
「え……なに? お母さん」
「……祐一さん、出かけたみたいね」
「……うん」
少しうつむいて、けれどやはり微笑んで、名雪は頷いた。
秋子が、ほんの少し眉をひそめた。
「わたしも事情はわからないんだけど……でも、祐一は頑張ろうとしてるの。それはわかる。大切な、ほんとうに大切なひとのために、頑張ろうとしてる」
「……」
「わたしには……見守ることしかできないけど……でも……、……あ」
静かに立ち上がった秋子に、名雪は、抱きしめられていた。驚いて目を丸くする名雪の髪を、秋子は優しく撫でた。
「名雪も、頑張ったわね」
「わたしは……なにも……」
「ううん。……でもね」
繰り返し、髪を撫でる。心の奥に、大切なものをしまって、鍵を閉めてしまおうとしている娘のために。繰り返し、優しく。
「悲しいときには、あなたも泣いていいのよ」
「……おかあ……さん……」
名雪が、小さく息を飲んだ。体の力を抜き、そっと母の胸に体重を預ける。変わらず、秋子は名雪の髪を撫でていた。
「ありがとう、お母さん。……でも、わたし、悲しいんじゃないよ」
「名雪……」
「ちょっと……つらいけど……でも、やっぱり、わたし、嬉しいんだと思う。祐一が、祐一らしいから……嬉しいよ……」
「……そう……」
「うん……」
穏やかに、たおやかに、名雪が微笑む。
秋子は、名雪を抱きしめる腕の力を、少し強めた。
外ではしんしんと雪が降り続いている。
やがて、静かな嗚咽が、張りつめた冬の空気に響いた。
あとがき
栞シナリオ終盤、栞の病気の真実を知って一度は絶望した祐一が、立ち上がるところです。
「Kanon」に名シーンはたくさんありますが、私がいちばん好きなのは、実はここかもしれません。名雪が、すごくいいんですよね。特に何を云うわけでもないんだけど、名雪の優しさというものがひしひしと伝わってきます。しかも、七年間待ち続けた自分の気持ちが、報われずに終わる瞬間だというのに。このときの名雪の気持ちを考えると、めちゃくちゃ切なくなります(T_T)。
というのが、この短いお話を考えたきっかけです。
余談ですが、地の文で秋子さんを「秋子」と呼び捨てにすることに、すっげー抵抗ありました(^^ゞ。やはり秋子さんは秋子さんなのですよね。そういえば小説版も、地の文でも「秋子さん」になってたなあ……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。