冬物語IV 〜冬〜

−後編−


     4

 気がついたときには、千尋が入院している病院までやってきていた。
 真冬は白い建物を見上げ、唇を噛んだ。
 母に心配をかけたくはない。だけど――。

(あんたは一人でしか生きられないんだもの)

 そんなはずがあるだろうか。自ら望んで、ひとりになどなるはずがないのに。
 真冬は確かに打ちのめされていた。だから、誰かにそれを否定してほしかった。
 そして、信に逢えない今、彼女が孤独を感じずにいられるのは、母のそばしかなかったのだ。
 体を引きずるようにして、真冬は千尋の病室の前まで来た。そうして、ノックをしようと手を上げたとき、中から話し声が聞こえてきた。

「――!」

 その声を聞いた瞬間、真冬は逆上していた。
 そのままノックもせず、ドアを乱暴に押し開けた。

「真冬……!」

 千尋が息を飲む気配がわかる。
 だが、真冬は千尋のほうを見ようとはせず、その傍らに立つ紳士を睨みつけていた。
 歳は五十前後だろうか。上品な装いで、穏やかな風貌をしていた。もっとも、今は驚愕と悲しみで、その表情はゆがんでいたが。
 男の名は、御堂拓磨。かつて、千尋が愛したただ一人のひと。

「……何をしてるの……」

「……」

「私たちの前に、二度と姿を現さないって約束でしょう!? のこのこ、こんなとこまでやってきて、どういうつもりよ!」

「真冬! お父さんになんてこと……」

「私にお父さんなんていない」

 思わず間に入った千尋の言葉を、一言で真冬は切り捨てた。
 拓磨の表情に、悲嘆の色がいっそう濃くなる。その面から真冬は忌々しげに目をそらし、母に視線を向けた。

「お母さんもお母さんよ! どうして、こんな人を中に入れたの!?」

「真冬……」

 千尋は悲しげに真冬を見つめる。その瞳の色からあることに気づき、真冬は絶句した。

「……まさか……これまでも……逢ってたの……?」

「……」

 面を伏せる千尋。それは肯定を意味していた。
 真冬は思わず母のそばに駆け寄り、その腕を掴んでいた。

「どうして? 私に嘘ついてたの? 二人きりの親子だから、そう云ってたじゃない。どうして……!」

 我知らず、涙がこぼれてくる。こんな男の前で泣きたくない、真冬は強くそう願ったが、どうしても涙を止められなかった。
 悔しくて、悲しくて、心が痛くて――。

「……真冬。母さんを責めないでくれ。私が――」

「気安く呼ばないで」

 涙に濡れたままの瞳で、真冬は再び拓磨を睨みつけた。
 悲嘆と絶望のさなか、それでも強い意志を宿したその表情は、夜叉のように美しかった。
 拓磨は娘のその凄絶な美貌に息を飲みながら、言葉を続けた。

「お前が私を憎むのは当然だ。だが、それでも、私はお前たちにできるだけのことをしてやりたい」

「……」

「それが私の……せめてもの償いだ」

「償い……?」

 千尋から体を離して、真冬は真っ直ぐに立った。
 未だ流れる涙を拭おうともせず、けれど、唇の端だけで、ニッ、と笑ってみせる。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。

「笑わせないで。確かにお母さんが入院していて、それでも私たちが生活していけるのは、あんたがくれたお金のおかげよ。それが……償い?」

「真冬! もうやめなさい!」

「猫でも飼ってるつもりなの? 餌だけやってれば、それで満足するとでも――」

「真冬……!」

 母の声が、その涙が、ようやく真冬に口を閉ざさせた。
 どれだけ罵っても足りることはない。できることなら、いっそ殺してやりたい。
 けれど、母を悲しませることは、したくなかった。

「……帰る」

 呟いて、真冬は体を翻した。
 ドアを閉めるとき、千尋の肩を抱いて慰める拓磨の姿が見えた。
 真冬は血が滲むほど唇を噛みしめ、病院をあとにした。

     5

 雲の流れが速い。天気が、崩れるのかも知れない。
 うつろな心を抱えて、ぼんやりと真冬は空を見ていた。
 母と二人、ずっと互いが互いにとって唯一の支えだと信じていた。
 けれど、そうではなくて。母の心には、ずっと、あの男がいたのだろうか。
 裏切られた、という気持ちはなかった。
 ただ、母があの男のことをどう思っているのか、これまで考えたことがなかった自分に、真冬は今更ながら茫然としていた。

(あんたは一人でしか生きられないんだもの)

 環の言葉が、繰り返し聞こえてくる。
 私は、何を、見てきたのだろう――。
 とぼとぼと、真冬は家路を辿った。
 そう、たとえどれだけ打ちひしがれようと、帰る場所は、ひとりきりのあの家しかないのだ。
 しかし、今日は待っている人がいた。――不幸なことに。

「……信……?」

 遠目からその姿に気づき、真冬は小走りに家まで急いだ。
 門の前に佇んでいるのは、間違いなく信だ。
 そうだ、何を失っても、今の自分には信がいる……。
 やがて、信も真冬に気づき、顔を上げた。
 真冬は歩みを少し緩め、微笑みながら、ゆっくりと近づいていく。
 その姿を見て、だけど信は、いつものように笑ってくれなかった。何が嬉しいのか不思議なくらい、顔中を笑顔にする信は、そこにはいない。ただ苦しいほど真剣な瞳で、真冬を見つめていた。
 真冬は徐々に落ち着かない気分になり、笑顔も消えていった。

「信……?」

 あと二、三歩の距離まで来て、真冬は足を止めてしまった。戸惑いに眉をひそめて、信を見つめる。
 すると、信のほうから真冬に近づいてきて、そっと右手を伸ばした。そして、真冬の長く艶やかな黒髪を、優しく梳った。

「綺麗な髪だな……」

「え……?」

「真冬の髪……すごく好きだった、俺……」

「信……?」

 真冬は手を上げて、自分の髪を撫でる信の手に重ねた。信はそのままその手を、真冬の頬に当てる。
 とても優しい仕草だけれど、やはり信の表情に、笑顔はなかった。

「きつい眼差しも……白い肌も……厳しいとこ……優しいとこ……全部全部……好きだった……」

「し……ん……? 何を……云って……」

 頬に当てられた手のひらを強く握りながら、震える声で真冬は訊いた。
 信が云いたいことは、きっと、わかっていたのに。

「別れてくれ」

「……」

 真冬の目が、大きく見開かれる。
 信はその瞳を、じっと覗き込んでいた。
 沈黙の時間が、どれだけ続いたか。
 やがて空には雲が立ち込め、ぽつぽつと雨が降り始めた。
 静かな雨に打たれながら、真冬は呟いた。

「……どうして……?」

「……俺は……自分が、許せない」

 苦しみに表情をゆがめ、信は初めて真冬から目をそらした。真冬はただ真っ直ぐ、信に視線を向けている。

「このまま……何もなかったように、俺だけ幸せになるなんて……できない……。何もできないなら……せめて……俺が……俺を……罰さないと……」

「……」

「勝手なこと云ってるって……わかってる……。でも……俺は……償いが……したい……」

「償い……!」

 その言葉が、真冬の心を激しく揺さぶった。
 償いをしたい。
 なんて奇麗事。
 そんなことで、何も本当に癒されはしないのに……!

「それで……何が変わるの……」

 信の手を強く握ったまま、真冬は云った。涙のにじんだ瞳で、信をきつく見据える。
 信は答えられず、唇を噛んだ。

「信がどれだけ自分を罰したって、失った命は返らない! 傷ついた人の心も、癒されやしない! そんなの……そんなの……自己満足でしかないわ……!」

「わかってる……! そんなこと、全部、わかってる。だけど……だからって……このままじゃ……いられない……」

「信……」

「俺は……真冬みたいに……強くない……」

 ……瞬間。世界が、暗転した。
 真冬は手の力を緩め、信の手を離す。そして、一歩、後ずさった。

「……なによ、それ」

 感情のない、小さな小さな呟き。
 その一言で、信は、自分が何を云ったのか、ようやく理解した。

「あ……真冬……」

「……」

 闇より黒い瞳が、じっと信を見つめている。見知らぬ誰かを見るように。
 思わず信が伸ばした手を、真冬が振り払う。そうして、呟いた。

「わかったわ」

「真冬……」

「さよなら」

 云い捨てて、真冬は門をくぐった。振り返らず、玄関を閉じる。
 降りしきる雨の中、信はその場に崩れ落ちた。
 その慟哭を、けれど、真冬が聞くことはなかった。

     *

 玄関のドアを閉めると、真冬はそのままそこにもたれて、吐息を漏らした。

「……嘘つき」

 強いだけでいる必要はないって、云ってくれたのに。
 結局、私が強い女だと思っているから。私は……ひとりでも平気だと、思っているから。

「……嘘つき……」

 そばにいてあげたいって、云ってくれたのに。
 ひとりになんかできないって、そう、云ってくれたのに。

「……うそ……つき……」

 体の力が抜け、真冬はそのままずるずると座り込んでしまった。
 涙が、あふれてくる。とめどなく。

(あんたは一人でしか生きられないんだもの)

 そんなの全然嘘だった。ひとりでなんか、生きられない。
 そう、だから、私は――。

「怖かった……の……」

 ただ、信を失うことが。
 彼を守りたい。そんなことを口実にして。
 母の支えでありたい。そんなことを口実にして。
 ただ私は、失うことが、こんなにも怖かった。
 差し伸べられた手を振り払われるのが怖くて、ただいたずらに爪を立てて――。

「あ……ああ……ああ……」

 もっと早く気づいていれば。
 いや、今これからでも、彼に本当の気持ちを伝えられれば。
 ただ、そばにいてほしいのだと。
 だけど。

(俺は……真冬みたいに……強くない……)

 あの言葉を聞いてしまった以上、真冬にはもうこのドアを開ける勇気はなかった。
 今度その手を振り払われたら。これまで自分を支えてきたものが、すべて砂のように崩れてしまう。
 だから、真冬は。
 ただ泣き崩れるしか、できなかった。



     epilogue

「真冬……真冬、風邪引くわよ」

「……ん……」

 体を軽く揺すられて、真冬は目を覚ました。
 顔を上げると、穏やかに微笑んでいる母の姿が目に入る。見舞いに来て、いつの間にか千尋のベッドにもたれて眠ってしまっていたらしい。

「大丈夫? 受験勉強、大変なの?」

「……ん、そうでもないよ。ちょっと日差しがあったかくて、うとうとしちゃっただけ」

「そう……。大学受験だから、大変なのは当たり前だけど、体には気をつけてね」

「わかってる」

 唇の端だけで、真冬はニッと笑ってみせる。
 それに返してくれた母の穏やかな笑みを、真冬は眩しそうに目を細めて見つめた。
 千尋が不思議そうに首を傾げる。真冬はまた小さく微笑んだ。

「お母さんが、どうしてそんな風に笑えるのか……私、ずっと不思議だった」

「真冬……?」

「でも、今なら少しわかる気がする……。お母さんは……ほんとに大事なものを、見失ったりしなかったのよね。どんなにつらくても、苦しくても……なくしちゃいけないものがなんなのか……知ってたから……」

「真冬、どうしたの? 何かあったの?」

「――ううん、なんでもない。鷹乃と待ち合わせしてるから、もう行くわね」

 笑顔で、真冬は立ち上がった。
 千尋は少し心配そうに眉をひそめたが、何も云わず、やはり穏やかな笑顔を娘に向けた。

「そう。鷹乃ちゃんによろしくね」

「うん。じゃあ、また来るから」

 軽く手を振って、真冬は病室を出た。

     *

 十二月も半ばを過ぎた。
 ――あの別れから、もう丸三年経ったことになる。
 北風の中、歩きながら、真冬はふと苦いため息をついた。
 母のように、どれだけ傷ついても苦しくても、あのとき信を愛する心を信じられたなら。あんな終わり方はしなかったかも知れない。
 繰り言は何より嫌いなはずだったが、この季節になると、どうしても真冬は考えてしまう。
 もし、やり直すことができるならと。

「……ってことは、そのあともまだまだ?」

「もちろんです」

「……詩音ちゃん、ほんとにそのうち、床が抜けるよ」

「――え?」

 うつむいて歩いていた真冬は、不意に聞こえた懐かしい声に、弾かれたように顔を上げた。路地の向こうを歩いていく、ひと組の男女がいる。

「……そんな……?」

 動悸が激しくなる。驚き、喜び、戸惑い、不安、嘆き――様々な感情に翻弄されながらも、真冬は即座に走り出していた。
 そして、そこにいたのは。彼女にとって、間違えるはずもなく。

「信……?」

「え?」

 呼びかけられ、少年が振り向く。
 その瞬間、真冬にとって、世界中のすべてが意味を失った。
 冬の景色も。道行く人々も。道路を行き交う車も。軒先に並んだネオンも。
 少年の傍らに立つ、不思議な目の色をした美しい少女も。
 すべてが色褪せ、ただ彼女と彼だけが、その世界に存在していた。

「やっぱり……! やっと……逢えた……」



 ――そして、彼女の最後の冬が始まる。


Memories Off EX
Scenario for Mafuyu Fujimura
Episode I
"The Winter"
end



2002.2.19


あとがき

最初から最後まで痛いシーンなので、めっちゃつらかったです(T_T)。
痛いシーン、下手だし。……じゃあ、どんなシーンが上手なのか、と突っ込まれると、返す言葉もないんですが。うぐぅ。
ということで、『冬物語』完結です。
掲示板でもちょっと書いたとおり、真冬は「強がってる子」じゃなくて、ほんとに「強い子」なんです。でも、それってちょっと悲しいことだよね、と信に出会って気づいてしまう。気づいてしまうんだけど、「強い子」であるが故に、本当に大切な勇気を持つことができない。そんな悲しい想い出が、この『冬物語』です。真冬が魅力的な少女になっていれば、非常に嬉しいのですが。
さて、もちろんこのままでは終わりません。真冬を幸せにしないと!
今度の相棒は、鷹乃に代わって静流ねーさんです。すべてを諦めることでかけがえのないものを守ろうとする女と、かけがえのないたったひとつのものを諦められない女。まさに正反対の二人が互いにどう影響を与えていくか……って話にしたいんですけど、まだ全然プロットもできてません(^^ゞ。気長にお待ちいただけるとありがたいです。
それでは、またいつか『冬物語 Second Season』でお会いしましょう。……もちろん、ほかのも書きますけど(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。

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