足元で揺れている花にさえ 気付かないままで
通り過ぎてきた私は鏡に 向かえなくなっている
浜崎あゆみ「Trauma」
1
一昔前は、大学の学食といえば、安い代わりに小汚くて味もそれなり、というのが定番だった。
しかし、近頃では大学も学生集めのため、設備充実に力を入れるところが少なくない。ここ、千羽谷大学も例外ではなかった。
採光にも留意し、明るく清潔感のあるそのスペースは、もはや「学食」という響きにはふさわしくなく、大学側が言うとおり、「カフェテラス」の趣があった。メニューもファミレスのランチに類するものが揃えられている。
そうした大学の努力の結果、学食――カフェで女子大生の姿を見ることも、今では特に珍しいことではなかった。
だから。彼女がその中で目立っていたのは、ひとえにその存在感故であったと云えるだろう。
装いは派手ではなく、化粧も最低限にしか施していない。けれど、腰まで及ぶ長く艶やかな黒髪と、黒い宝石のような瞳の煌めきが、彼女の印象を艶やかなものにしていた。
服装は、黒いデニム地のジャケットに、白いロングスカートと、これまたシンプルなものだ。
黒と白は、誰にでも似合う色だという。だが、彼女――藤村真冬ほど、そのコントラストが映えるひとはいなかった。
カフェに出入りする人々は、誰もが真冬に目を奪われていた。
それでいて、真冬の周りには人気がない。
決して真冬が剣呑な雰囲気を醸し出しているわけではなかった。ただ、どれだけ注視を浴びても、それを意識している素振りさえ見せない鷹揚さと、少し物憂げな横顔とが、彼女を近づきがたい存在にしていた。
それは真冬自身が望んで、手に入れてきた環境だったかも知れない。孤独を愛するわけではないけれど、気心の知れない人間と一緒にいるぐらいなら、独りの方が遙かにマシだった。ましてや、食事の席を同じくするだなんて。――こんな風に。
「こんにちは」
柔らかな声に真冬が顔を上げると、栗色の髪を揺らして、白河静流が微笑んでいた。
真冬の目が、わずかに細くなる。その仕草の意味に気づきながらも、静流は手にしたトレイを真冬の前に置いて、言葉を続けた。
「ここ、座ってもいいかしら?」
「……どうぞ。私はもう行きますから」
そう云ったときには、真冬はもう立ち上がっていた。
「え、だって、まだ……」
真冬が食べていたランチは、まだ半分以上残っていた。しかし真冬は構わず、静流のあとからやってきた霧島小夜美に軽く会釈して、歩き去った。
真冬の後ろ姿を見送り、小さくため息をついて、静流は腰を下ろした。小夜美はその向かい、ちょうど真冬が座っていた席につく。そして、箸を取りながら、軽く肩をすくめた。
「もう諦めた方がいいよ。あの子猫ちゃんは、ひとに懐いたりしないって」
「……」
「ましてや、あたしたちが信クンや詩音ちゃんたちと友達だってわかっちゃったんだから……そりゃ、気まずいよ」
「うん……そうなんだけど……ね」
四カ月前のあの事件。小さな、けれど当事者たちにとってはあまりに大きな波紋をもたらしたあの出来事について、小夜美と静流は智也たちから簡単に聞いていた。だから、真冬の名前を聞かされたとき、つい反応してしまったのだ。
結果、彼女たちと信や智也との関係も、真冬に知られることになってしまった。小夜美の云うとおり、真冬が彼女たちを避けるのも無理からぬことだったろう。
「でも……なんだか、放っておけないのよ。何をしてあげられるってわけじゃないのは……わかってるんだけど」
「……」
小夜美はしばし沈黙して、じっと静流の憂い顔を見つめた。そしてふとため息をつくと、運んできたラーメンに箸をつけた。
「……それは、彼女があの雪の日に会った女の子だから?」
「小夜美……どうして?」
小さく息を飲む静流。小夜美はラーメンをすすりながら、やや行儀悪く肩をすくめた。
「静流の態度見てればわかるよ。前、話してくれた、雪の中で出会った女の子……それが、彼女、藤村真冬なんでしょ?」
「……うん……」
「だから、どうしても気がかりでほっとけないと……でもね、静流」
小夜美は食事の手を休めずに話し続ける。それはなぜか静流と目を合わせないようにするためのようであった。
「だからこそ、あの子は静流を避けてるんだと思うよ」
「……」
静流の面に浮かぶ憂いが、いっそう濃くなる。小夜美はやはり静流の方を見ようとせず、箸を動かしながら喋った。
「静流だって、ほんとはわかってるんでしょ? あの子は、他人に弱みを見せるのを嫌う。それなのに、静流には初対面でいきなり自分のいちばん弱いとこ見られちゃったんだから。他の人と接するとき以上に、静流には頑なになってると思うよ」
「……」
「もう……あの子には、関わらない方がいいよ」
そうでないと、静流が傷つくよ……最後の一言を、小夜美は飲み込んだ。
静流は無言でフォークを取り、パスタに手をつけた。だが、口に運ぶでもなく、フォークにくるくるとパスタを巻き付けてもてあそんでいる。
しばらく、会話のない時間が続いた。やがて、ようやく静流がフォークを持ち上げてパスタを食べる。そして、微笑んだ。
「ありがと、小夜美」
「どういたしまして」
スープまで飲み干して、小夜美も笑みを返した。それだけで、場の空気が柔らかいものになったようだった。
「……そうだ、小夜美、今日これから、空いてる?」
「これから? 無理無理、今日はゼミだよ」
「あ、そっか……」
「どしたの? なんか用事?」
「うん……ちょっと、つきあってほしかったんだけど……しょうがないわね」
そう云って、静流は少し困ったように微笑んだ。その笑みに、さっきまでの憂いとはまた違う翳りを感じ取って、小夜美は眉をひそめた。
「なに? なんか嫌なことあったの?」
「あ、ううん、そうじゃないのよ。ただね、これから妹と会う約束をしていて……」
「ほたるちゃんと? それがなんで……あ……」
静流には、ほたるという妹がいる。とても仲のよい姉妹で、弟を事故で亡くしている小夜美には、羨ましくもあった。
当然、姉妹二人で出かけることも多いだろう。それなのに、なぜわざわざ一緒に来てほしいだなんて云うのか――そう疑問を言葉にしかけて、小夜美はあることに気づいて口ごもった。
静流はやはり、困ったような笑みを浮かべている。
「もしかして……?」
「うん……そういうこと」
「そっか……。うん、じゃ、いいよ、あたし、ゼミ休むから。つきあうよ」
「ダメよ、そんなの。小夜美のゼミ、厳しいんでしょ?」
思い切りのいい小夜美の申し出に、慌てて静流は首を振った。翳りを振り払うように、笑顔を浮かべる。
「でも……」
「いいのいいの。ごめんね、変な心配させちゃって。大丈夫よ。……それに」
「それに?」
「こういうのにも……慣れなくちゃね」
「静流……」
「……あはは、ほんっとごめん! さ、もう行こう。ゼミ始まっちゃうでしょ? わたしも、待たせると、ほたる、すぐ怒るから。自分はよく遅れてくるくせにねえ」
精一杯の笑顔を作ろうとする親友に対して、小夜美がしてやれることは、それ以上は何も聞かずに、頷き返すことだけだった。
「わかった。……あとで、電話するね?」
「……うん」
微笑んで、静流はありがとう、と呟いた。
2
軽く深呼吸をしてから、真冬は病室のドアをノックした。答えを確認すると、自然と笑みがこぼれる。そのままゆっくりとドアを開けて、真冬は病室に入った。
「真冬。今日も来てくれたの」
「……うん。どう、調子は?」
「ありがとう。大丈夫よ」
そう云って、いつものように穏やかに微笑む母・千尋に、真冬もいつもどおり、ニッと唇の端だけで笑って見せた。
千尋はベッドに腰掛けている。真冬はそのそばに置いてあった椅子に座り、手にしていたバスケットを掲げた。
「果物買ってきたの。食べられる?」
「ええ。じゃあ、リンゴもらおうかしら」
「うん」
頷いて、真冬はリンゴを取り出した。千尋から果物ナイフを借りて、器用に皮をむいていく。千尋はその様子を、じっと見守っていた。
「はい、お待たせ。……どうしたの?」
一口サイズに切り分けたリンゴに楊枝を刺し、真冬は千尋に差し出した。そこでようやく、真冬は千尋が自分を見る瞳に、翳りが差していることに気づいた。
「ありがとう。……うん、おいしい」
真冬から受け取ったリンゴを、千尋は一口かじって微笑んだ。けれど、真冬は千尋が浮かべた憂いの理由がわからず、戸惑い気味に見つめ返すだけだった。
「……ねえ、真冬」
「……なあに?」
思わず身を固くする真冬。まるで叱られるのを恐れる、小さな子供のように。
「こうして毎日お見舞いに来てくれるのって、私はとっても嬉しい。でもね、真冬には真冬の生活があるでしょう? 大学に入ったばっかりで、色々大変でしょうし……。もっと自分の時間を大切にしてほしいわ」
「お母さん……」
「これまでだって、ずいぶん無理をさせてきたし……。大学も、真冬なら本当はもっと違うところも狙えたんでしょう? 私を気遣って、近くの大学にしてくれたのよね」
「……それは……」
確かに、千尋の云うとおりだった。真冬の学力なら、選択肢はいくらでもあった。
しかし、真冬は高校に浜咲を選んだのと同様、なるべく母のいるこの街から離れたくなかったのだ。
言い淀む真冬をじっと見つめる千尋の目に、涙がにじんできていた。
「真冬がいてくれて、私は本当に幸せだし、心強い。――でも、これ以上、私のせいで、あなたの――」
「やめて」
母に対しては珍しいくらい強い調子で、真冬は千尋の言葉を遮った。
千尋を見つめ返す瞳にも、涙が浮かんでくる。真冬は思わず千尋の手を取っていた。
「そんな云い方しないで。私が……そうしたくて、そうしてるんだから」
「真冬……」
「私が、お母さんのそばにいたいの。いいでしょう? そばに……いさせてよ……」
もうほかには、どこにも居場所はないのだから――そう口走りそうになり、真冬は唇を噛んでうつむいた。
千尋はわずかに眉をひそめると、細い腕を伸ばして、真冬の体を抱き寄せた。
「ごめんね。変なこと云って」
「……」
母の腕の中で、真冬は激しく頭を振った。千尋は娘への愛しさを込めて、優しくその黒髪を撫でていた。
3
街を歩きながら、真冬はもう何度目かわからないため息をついた。
母にだけは心配をかけたくない。ずっとそう思ってきたのに。
そんな虚勢は、母にはすべて見透かされていたのだろうか。
千尋は最後に、こう云ったのだ。
(冬以来、真冬、元気なかったみたいだから……気になってたの)
真冬はまたひとつ、大きなため息をつく。なんて無様なことだろう、と。
「――あ、藤村さん!」
「……え?」
不意に声をかけられて、真冬は思わず周囲を見回した。
ちょうどオープンカフェの前を通りかかったところだった。奥の方の席から立ち上がって手を振るその姿に気づき、真冬は傍目にもわかるほど眉をひそめた。
声の主は、静流だったからだ。
どうしてこの人は、こんなときにばかり現れるのか――! 真冬は軽く頭を下げて、足早に立ち去ろうとした。
しかし、静流は相席していた一組の男女に挨拶をして、席を立ってしまった。すでに歩き始めていた真冬はよく見なかったが、女の子の方は、長い髪を二つに分けて縛った髪型が印象的だった。
「あ、待ってよ、藤村さん」
小走りに駆けてきて、静流が真冬の隣に並ぶ。真冬は静流を見ようともせず、軽くため息をついた。
「人をだしに使うのはやめてください」
「……え……」
「そうでしょう? わざわざ人と会っているときに、その人を放り出して私のところへ来るような用事があるとは思えません。私たちは、親しい間柄でもありませんし」
後半の台詞に特に力を込めて云い、真冬は静流を横目で睨んだ。
静流は困惑に表情を曇らせたが、足を止めると、深々と頭を下げた。そのまま無視するわけにもいかず、真冬も足を止める。
「ごめんなさい。だしに使うとか、そんなつもりじゃなかったんだけど……あそこから離れる理由がほしかったのは、確かだから。……同じことね。本当にごめんなさい」
顔を上げた静流は、悲しげな瞳でじっと真冬を見つめながら、そう云った。
真冬は乱暴に目をそらしてしまう。どこか印象が母に似ているのが、真冬が静流を苦手とする理由のひとつでもあった。
「もういいです。――言い過ぎました。私の方こそ、申し訳ありません」
「ううん、そんなことない。わたしがどうかしてたわ。妹にも、あとで謝っておかなくちゃ」
「妹さん……?」
意外な言葉に、真冬は首を傾げた。
苦手な相手に捕まってしまったから、どうにか逃げ出す口実がほしかったのだろう、と単純に真冬は考えていた。しかし、それが妹とは。
真冬の呟きの意味に気づき、静流は慌てて首を振った。
「あ、勘違いしないでね。妹と仲が悪いとか、そういうんじゃないのよ」
「……」
「ただね、最近、出かけるときはいつも彼を連れてくるのよ。仲がいいのはいいんだけど……あんまり見せつけられると、独り身としてはつらいじゃない?」
「……」
「気を遣ってあげないと、彼にも悪いし……。あはは、おばさんくさいかな、こういう発想って」
「……」
不自然なほど明るい笑顔で、訊かれてもいないことまで喋る静流を、真冬は目を細めてじっと見ていた。その視線に、静流が居心地悪げに口をつぐむ。
……どうして、このとき、ただ「そうですか」と頷いてすませてしまわなかったのか。真冬は自分でも不思議だったが、気づいたときには、その言葉が口をついて出ていた。
「……好きなんですか? その彼のこと」
「……っ……」
見る見る静流の表情が青ざめていった。真冬はまるで断罪するかのように、冷たい視線でその姿を見ていた。
「何を……そんな……」
「好きなのに、黙って見ているの? どうして?」
静流の言い訳など、真冬は聞いていなかった。真っ直ぐ、斬りつけるような視線で静流を見据えたまま、言葉を叩きつけた。
静流はただ蒼白になった面を逸らし、うつむいた。
「……しょうがないじゃない……」
「だから、どうして? 妹の恋人だから?」
「……残酷なことを、聞くのね……」
唇を噛みしめ、瞳にうっすらと涙をためて、静流は真冬を見返した。
それでも真冬はかけらほどの同情も見せることなく、ただキツい眼差しを静流に向けて立っていた。
「どうして、そんな理由で諦められるの? 私には信じられない」
「……」
そんな理由。なんて言い草だろう。誰もがそう考えるに違いない。なんて傲慢な言葉だろうと。
けれど、静流はわずかに息を飲んだあと。小さく、微笑んでいた。
儚く、穏やかに。
その笑顔は、何より真冬を苛立たせた。
「諦めるのは、慣れてるの」
「嘘よ……! 愛しているのに……かけがえのない、たったひとつのものなのに……どうして諦めることができるの! 何を犠牲にしたって……誰を傷つけたって……私は……!」
「……」
静流はもう答えなかった。ただやはり悲しげに微笑んだまま、激情に燃える真冬の黒い瞳を、じっと見つめていた。
「そんなの……私は絶対認めないから……絶対……!」
吐き捨てると、真冬は静流に背を向けて歩き出した。ほとんど駆け足に近いほど、足早に。
静流はその後ろ姿を見送りながら、眉を寄せてため息をついた。そこには、これまでよりいっそう深い憂いがあった。
「……わたしだって……」
4
あの冬の日のように、激しい感情に突き動かされて、真冬は歩いていた。
そうだ、決して諦めない。諦めることなんてできない。
だって、今でもこんなに愛しているのに……!
あの日、雪の中で死に絶えたと真冬自身も考えていた想い。それが再び炎となって、真冬の胸で燃えていた。
――しかし。
古ぼけたアパートの前で、真冬は足を止めた。
表札には「朝凪荘」とある。
真冬がただ一人愛した男・稲穂信が住んでいる場所。
そして。
彼が誰を選んだか、己のその目で確認した場所。
「――――――」
激情がたちまち冷えていくのが、自分でもわかった。
そうだ、諦めたくはない。この想いを捨てることなんてできない。
――だけど、だったらどうすればいいのだろう。
諦められないなら、奪うしかないのか。
そのために、もう一度、信を……彼の大切な人達を、傷つけるのか。
「……う……」
足元から崩れ落ちそうになり、真冬は門に手をついて体を支えた。
押さえようのない嗚咽は、やがて激しい慟哭に変わる。
何をなくしても、誰を傷つけてもいい。
だけど、信は。最愛のひとさえ傷つけて、それで何を得られるのだろう。
そんなことに、二度と耐えられるはずがなかった。
「……信……どうして……」
三年前、真冬は本当に大切なものに気づきながら、どうすることもできず、ただ泣き崩れるのみだった。
そして今も。その胸に変わらぬ真実を抱きながら、やはり同じように、為す術はなく。
だから、真冬は。
ただ泣き崩れるしか、できなかった。
2002.4.10