彼と彼女と卵とツユダク

 正午に近い頃合い。真冬は大学への道のりを歩いていた。
 珍しく、寝過ごしてしまった。昨日買った本が久々に当たりで、ついつい読みふけってしまったのだ。
 幸い、午前の授業はたいして重要なものはなかったが、さらにうかつだったのは、食材を切らしていたことだ。
 授業があるときの昼食を除いて、真冬が外食することは滅多にない。基本的に、自分が食べるものは自分で作っている。
 だが、一人暮らしでは、ムダが出ないよう効率的に食材を用意するのは難しい。それでも真冬は長年の経験で、いつもうまく切り回していたのだが、今回はちょっと失敗してしまったようだ。
 ――金銭的に、真冬はまったく不自由していなかったのだけれど。それでも経済的だの効率的だの考えてしまうのは、やはり性格の問題だっただろうか。
 とにかく、真冬は起きてから珈琲を一杯飲んだだけで、空きっ腹を抱えて歩いていた。
 しょうがない、大学のカフェで食べるか……そう、考えたとき。

「あ……」

 とある店の看板が、目に入った。
 それはどこにでもある、牛丼屋の大手チェーン店だった。
 激安!の文字が躍るポスターを眺めながら、真冬の表情には、とても優しい笑みが浮かんでいた。

「……やだ、懐かしい」

     *

「今日は俺が飯おごるよ!」

 突然、隣を歩いていた男が、そんなことを云い出した。
 真冬は黒髪を揺らしつつ、不審そうに自分より少し背の高い少年を見上げた。

「何を急に云ってるの、稲穂くん」

「打ち上げだよ、打ち上げ! 三年間、お疲れ様!ってね」

 そう云って、彼――稲穂信は、顔中を笑顔にする。何がそんなに嬉しいのか、不思議なぐらいのその笑顔は、いつになっても真冬を戸惑わせた。

「……だから、何を云っているのよ。打ち上げは、たった今、終わったところでしょう?」

 ほう、と呆れたようにため息をつく真冬。
 今は夏の終わりの季節。中学三年生の真冬は、本日を以て、部長を務めていた陸上部を引退した。そして、部室でささやかな打ち上げを後輩たちに開いてもらい、それが終わって帰るところだったのだ。
 しかし、信はもちろん、真冬のそんな態度にめげるはずがなかった。

「あれは、部としてのイベントだろ。俺が、先輩の打ち上げをしたいんだよ。お疲れ様ってね」

「……」

 云われているほうが、恥ずかしい。そう思ったけれど、やはり嬉しいのは、悔しいぐらい事実だった。
 真冬はつい口元が緩むのを苦笑で誤魔化して、信に頷いた。

「わかったわ。……それで、どこへ連れていってくれるの?」

「まかしといてよ! ……えーっとね……」

 提案したものの、具体的にどうするかは、考えていなかったようだ。
 相変わらずだ、と今度は本当に苦笑して、真冬は信の答えを待った。だが、信ははっと何かに気づいたように青くなると、慌てて鞄から財布を取り出した。

「稲穂くん?」

「……」

 財布の中身を覗き込んで、信が心底落ち込んだ顔になる。
 その姿に、呆れるよりむしろ微笑ましい気持ちになってしまったことが、真冬には我ながら不思議だった。

「いいのよ、無理しなくて」

「――いいや! 俺も男だ! 一度口にしたことは守る!」

「……じゃあ、どこへ連れていってくれるのよ?」

「……」

     *

「……ふーん……」

 物珍しそうに、真冬は店内を軽く見回していた。
 一方、信は面目なさげに、うなだれている。

「私、こういうとこ、はじめて」

「……ごめん」

「どうして?」

「だって……やっぱ、女の子連れてくるところじゃないよなあ」

 そんな二人がいるのは、大手チェーン店の牛丼屋だった。
 確かに、女性客は全然いない。ただでさえ目立つ真冬という少女は、ここでは浮きまくっていた。

「やっぱ、普通のファーストフードとかにしときゃよかったか」

「……嫌よ。ファーストフードの珈琲なんて、飲めたもんじゃないわ」

「そう云うと思ったから、なんだけど……」

「……私は、嬉しいわよ?」

 最初は面白がっていたのだが、さすがに信の落ち込みぶりが可哀想に思えてきて。
 そして、彼が自分のために何かをしようとしてくれたことが嬉しかった、それは本当のことだったから。
 真冬は信の目を見ずに、小さく呟いた。

「――ほんとっ!?」

「……ええ。一人じゃ、入れないしね、こういうとこ」

 気恥ずかしいと、つい口調がぶっきらぼうになってしまう。それでも信は先ほどまでの落ち込みぶりはどこへ行ったのか、いつもどおり満面の笑顔を浮かべていた。

「そっか、そうだよね。でもさ、うまいんだよ、ほんとに。――あ、俺、大盛りに卵、つゆだくね」

 店員に向かって、信が慣れた様子で注文する。真冬には、最後の言葉の意味がわからなかった。

「ツユダクって……なに?」

 壁に貼られたメニューを見てみるが、そんな言葉は書いていない。
 困惑顔の真冬に、信はまた破顔した。

「「つゆ」が「たく」さんってことだよ」

「……ふうん」

 シンプルな説明だが、とりあえず意味がわかったので、真冬は納得することにする。

「うまいんだよ。先輩もそうする?」

「……ううん、はじめてだから、普通のでいいわ」

「そっか。でも、卵はつけるといいよ。並と卵ねー!」

 真冬の返事も待たず、信は真冬の分も注文した。
 待つほどもなく、大盛りと並、二つの牛丼がやってくる。それと、卵が二つ。
 真冬は信の手順を真似ながら卵をとき、牛丼にかけて、一口ほおばった。

「どう?」

「……うん、おいしい」

「でしょ? たまにはさ、いいよね、こういうのも」

 云いながら、信はがつがつとすごい勢いで牛丼をかっ込んでいる。
 真冬は軽く眉をひそめて、注意した。

「ちょっと。もう少し落ち着いて食べなさいよ」

「あー、ごめんごめん、うまいからさ」

「もう……そんなに好きなの?」

 確かに思ったよりずっとおいしいけどね、と考えつつ、真冬は苦笑した。
 それに対して、信は箸を止めて水を飲むと、やはり笑顔で頷いた。

「うん。でも、今日はいつもよりうまい気がする。やっぱ、先輩と一緒だからかな」

「……」

 かすかに目を丸くした真冬は、ニッと唇の端だけで笑って見せた。
 そして、何も答えず、自分も食事を再開した。
 そう、こんななんでもないものが、こんなにおいしく感じられるのは。
 こんななんでもない時間が、こんなに心地よく思えるのは。
 ただこのひとが、こうしてそばで笑ってくれているから。

     *

 ――そんな当たり前のことに、あのとき、気づいていられれば、ね。
 ふと辿り着きそうになった、そんな苦い想いを振り切るように、真冬は軽く息を吐き出した。
 そうして、そのまま牛丼屋のドアを開けた。

「いらっしゃいませ……」

 店員の声の後半が、少し尻すぼみになる。店の中にいた客たちも、意外そうに真冬に目を向けていた。
 あのときと同じく――いや、むしろそれ以上に、真冬はその場から浮いていた。
 けれど、真冬は気にした素振りもなく、カウンターに腰を下ろし、店員に注文をした。

「並と卵」

 ニッと、唇の端だけで笑う。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。

「ツユダクでね」


end



2002.9.28


あとがき

ここのところ、重い話ばかり書いていた、あーんど、仕事がめっちゃ忙しいので、二重の意味で息抜きのため書きました。休日出勤中の職場で書いています(^^ゞ。
今回、テーマはありません(^^ゞ。牛丼食べてて、「真冬はこういうとこ似合わんだろうなあ」とか考えたのがきっかけです。
たまには、真冬でも明るい話書いてあげなきゃね。どうしても「想い出話」になっちゃうのが、悲しいところですが(T_T)。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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