冬の薔薇

 病院の屋上で、真冬は風に吹かれていた。
 唇を噛みしめた、その表情は硬く。
 去年の冬から切れずにいる艶やかな黒髪は、背の半ばを越そうとしていた。
 ――あの別れから、もうじき一年が経つ。
 憎いと思おうとした。
 裏切りを責め続けることで、胸の痛みをそらそうとした。
 けれど、そんなことで心に空いた暗闇が埋まるはずもなく。
 その闇を見つめ続ける内、真冬は、自分が後悔していることに、ようやく気づいた。
 だから、今の彼女には、ため息しか出てこない。
 なんて無様なことだろう、と。

「……あ……あの……っ」

「……え?」

 思いがけず呼びかけられて、真冬は不審そうに振り向いた。
 そこには、とても小柄な少女がいた。長い栗色の髪をツインテールにしているのが愛らしい。白いスケッチブックを、大事そうに両手で抱えていた。

「あの……すみません、その……」

「なあに?」

 肩にかける髪をかき上げながら、真冬は軽く首を傾げて尋ねた。
 その仕草に、少女がびくっと身を震わせる。怖がらせてしまっただろうか、と思ったが、愛想笑いができる性格ではなかった。そもそも、そちらが用があるから、声をかけたのではないのか。

「何か用?」

 真冬にしては辛抱強く、もう一度尋ねてみる。これで答えが返ってこなければ、もう無視して立ち去るつもりだった。
 少女は唇を噛むと、キッと顔を上げて真冬を正面から見つめた。
 何か責められるようなことがあっただろうか、と真冬が考えた、そのとき。

「モデルになってください!」

 少女は小さい体に精一杯の勇気をみなぎらせて、そう叫んでいた。

「……モデル……?」

「はい! わたし、絵を描いてるんです。いつもここで、風景とか描いてるんですけど、今日来たら、お姉さんがいて」

「……」

「すごく綺麗で……素敵なひとだなって……だから……あ、あの……!」

 少女の一所懸命な言葉を聞きながら、真冬はもう歩き出していた。慌てて少女が追いかけてくる。その顔を見ずに、真冬は独り言のように呟いた。

「遠慮しておくわ。そういうの、好きじゃないから」

「そ、そんなこと云わないでください……! お願いします!」

 少女は真冬の前に立ち、手を取るばかりの勢いで懇願した。
 はじめは気の小さい女の子だと思ったのに、意外とねばり強い……真冬はわずかに興味を持って、足を止めた。
 すると、少女は本当に嬉しそうに、満面の笑顔を浮かべた。華奢で儚げな風情があるのに、そうして笑うと、太陽のように明るく朗らかな印象になった。
 ――そして、そんな風な笑顔は、真冬の苦手とするものだった。
 再び硬い表情で、真冬は少女から目をそらす。少女は瞬間、不思議そうに首を傾げたものの、すぐにまた笑顔で真冬に話しかけた。

「本当は、ずっと前から、お願いしたかったんです」

「……」

「よく、屋上にいらっしゃってますよね。わたしも、ここで絵を描いてることが多いから、何度かお見かけしてて、ああ、素敵なひとだなあって」

「……」

「今日こそは声をかけよう、今日ダメだったら、明日こそは……そう思ってて。えへへ」

「……」

 真冬の表情は変わらない。懸命に笑顔で言葉を続けていた少女も、だんだん不安げに表情を曇らせ、やがて泣き出しそうになってしまった。

「ご、ごめんなさい、やっぱり、ご迷惑でしたよね……」

「……」

 ほう、と真冬はため息をついた。
 煩わしい、というのが、正直な気持ちだった。しかし、このまま無視して去ってしまうのは、いかにも後味が悪い。それに、母のいる病院で、どんな些細なことであれ、問題を起こしたくはなかった。

「ごめんね、今日はどうしても、時間がないから」

 そう云えば、少女も諦めてくれるだろうと思った。けれど、彼女はぱっと顔を明るくして、こう答えたのだった。

「じゃあ、明日なら、大丈夫ですか?」

「……えっと……」

「明後日とか? ううん、いつでもいいんです。わたし、毎日ここに来ますから。お姉さんの都合のいいときだけ、来てくれれば!」

「……約束は、できないわ」

「構いません! わたしの、勝手なお願いですから。それじゃあ、今日は失礼します。ほんとにごめんなさい、忙しいのに、引き留めちゃって」

 ぴょこん、と少女は頭を下げた。栗色の髪が、動作に合わせて大きく揺れる。

「わたし、伊吹みなもです! またお会いできるの、楽しみにしてますね!」

 最後まで笑顔でそう云うと、少女――みなもは、真冬に背を向けて屋上から降りていった。
 真冬は言葉もなくその姿を見送っていたが、ふと吐息を漏らして、空を見上げた。
 その口元に笑みが浮かんでいることに、真冬自身は気づいていなかった。

     *

「約束でもあるの、真冬?」

「え……どうして?」

 翌日。
 今日も学校帰りに母・千尋の病室に寄った真冬は、不意に千尋に尋ねられて、不思議なぐらい慌てていた。

「さっきから、時計を気にしているみたい」

「そんなことは……ないけど」

 口ごもりつつも、真冬は反射的にまた時計を見てしまった。
 五時を少し回ったぐらいだ。冬の日は短く、すでに外は薄暗くなりつつある。
 少し困ったように眉をひそめる娘に、千尋は穏やかな笑顔を向けた。

「私のことなら、気にしなくていいのよ」

「ううん、ほんとになんでもないの」

「……そう」

 頷きながらも、千尋は悲しげに表情を曇らせていた。
 真冬は唇を噛んで、うつむくばかりだ。
 母によけいな心配をかけたくない。子供の頃から、ずっとそう考えてきたけれど、どうしても母には見抜かれてしまう。そして、それでも意地を張ろうとすると、母はとても悲しそうな顔をするのだ。
 その表情を見るのがつらくて、真冬は面をそらすしかない。
 そうだ、そういえば、彼もこんな目で私を見つめていた――。

「……暗くなるから、そろそろ帰るね」

「……うん、気をつけて。ありがとう」

 別れの挨拶を告げて立ち上がると、千尋は穏やかに微笑んでくれた。
 その笑顔に心底安堵しながら、真冬は軽く手を振った。

「ううん。また明日も、来るから」

「無理しないでね」

「大丈夫。じゃあ……」

 病室から出て、ドアを閉めてから、ため息をつく。
 わずかな逡巡のあと、真冬は階段を下りて、病院を出た。
 数歩歩いたところで、振り向いて病院の屋上を見上げる。そこに人影があるかどうかは、ここからはわからなかった。

「……」

 無様だ。私は。本当に。
 瞬間、拳を握りしめて、真冬はたった今、抜けたばかりの病院のドアを再びくぐった。

     *

 少し駆け足で階段を上り、屋上へ続くドアを開けた。
 ――いなければいい、と思った。
 あのときも、私は彼がいないことを確かめるために、公園に行ったはずだった。それなのに――。
 そして、今度も。真冬の考えは、裏切られることになった。
 ドアを開けたそこには、ツインテールの少女がベンチに腰掛けて、黄昏の薄闇を見つめていたのだった。

「あ……お姉さん! 来てくれたんですね!」

 ドアが閉まる音に気づいて振り向いたみなもが、笑顔で立ち上がって手を振った。
 真冬はどんな態度を返せばいいのかわからず、困惑に視線をさまよわせながら、みなもに近づいた。

「……ずっと、待ってたの?」

「約束ですから」

「約束はしてないわ」

「自分との約束です」

「……」

 真冬はますます困惑を深め、苛立ちを抱えてさえいた。
 本当に苦手なのだ。こんな風に笑顔を向けられることも、ずっと待っていられることも。
 ……忘れていたいことを。思い出させる。

「こんな寒いところで……いつから待ってたの? 昼間は学校があるから来られないって、わかってたでしょう?」

「あははっ、そうですね。わたし、頭悪いから」

 屈託なく笑うみなもをじっと見つめて、真冬はあることに気づいた。みなもの頬が、妙に赤い。

「あなた……?」

 手を伸ばして、みなもの頬に触れる。

「え、な、なんですか?」

「やっぱり……! 熱があるじゃないの! それなのに、こんなに体を冷やして……!」

 みなもの細い腕を掴むと、体は熱を持っているのに、服は冷たく冷え切っていた。こんなところで長い時間風にさらされていては、当然の結果だ。
 そこでやっと、真冬はみなもの着ているものに気づいた。パジャマ姿にカーディガン。昨日もこんな格好をしていたように思う。そして、最後にみなもが云った言葉。

(わたし、毎日ここに来ますから)

 何気なく聞き流してしまった、その言葉の意味は――。

「あなた、ここに入院してるんでしょう?」

「……」

「それなのに、どうして、こんな無茶を……! もう、とりあえず、病室に戻るわよ」

 真冬はみなもの腕を掴んだまま、引きずるように歩き出そうとした。しかし、みなもは真冬の手を振り払おうとした。

「待ってください……絵……描かないと……」

「そんなこと云ってる場合じゃないでしょう!」

「だって……」

「……わかったわ。モデルでも何でもやってあげるから、今日はもう帰りましょう。必ず明日も来るから」

「本当ですか……!?」

 目に涙を浮かべて、真剣な表情で、みなもは真冬の顔を覗き込んだ。そして、真冬が頷くと、満面の笑顔で立ち上がった。

「ありがとうございます! 約束ですよ?」

「……」

 答える代わりに、真冬は大きなため息をついた。

     *

「……それじゃあ、明日、五時ぐらいには来られると思うから」

 ベッドに横たわるみなもに、真冬は硬い表情で呟いた。
 みなもを病室に連れ戻したとき、あいにく、伊吹家の人はいなかった。真冬はやむなくナースコールをし、診察が終わるまで何となく立ち去りがたく、見守っていたのだった。
 みなもはまだ熱で赤い顔のまま、それでも朗らかに笑って頷いた。

「はい! ありがとうございます! ……あ、でも、部活とか大丈夫ですか? 本当、お姉さんの都合のいいときだけで――」

「……平気よ」

 ぶっきらぼうに、真冬はみなもの言葉を遮った。
 昔は、高校に入っても陸上を続けるつもりだった。だけど、今はとてもそんな気になれない。誰かと深く関わりたくもない。
 どうして、この子は思い出したくないことばかり、考えさせるのだろう――。
 睨むようでさえある真冬の視線に、みなもは怯んで口をつぐんだが、すぐにまた笑顔で言葉を続けた。

「その制服、浜咲のですよね」

「……ええ」

 学校帰りに寄ったので、真冬は当然制服姿だった。

「いいなあ。可愛いですよね、浜咲の制服って」

「私は、好きじゃないわ」

「え、どうしてですか?」

「スカート、短いから」

「……」

 みなもはその答えに目を丸くすると、我慢できず、笑い出した。真冬が不機嫌そうに眉をひそめる。

「……何がおかしいの」

「ご、ごめんなさい。でも、見た目通りって云うか……かっこいいなあって思って」

「……」

「――あ、ごめんなさい、失礼なこと云っちゃって。気分悪くしちゃいましたか?」

「……別に」

 云いながら、真冬は立ち上がった。そのまま病室のドアの方へ歩いていく。

「それじゃ」

「はい、ほんとにありがとうございました! おやすみなさい、お姉さん」

「……」

 ドアノブに手をかけたところで、真冬は足を止めた。振り返って、小首を傾げるみなもを見つめる。

「藤村真冬」

「……え?」

「名前よ。『お姉さん』はやめて」

「あ、はい! 真冬さん……ですね。とっても綺麗で、素敵なお名前です!」

「……」

(俺は、真冬って名前、好きだな)

 本当に、どうして、この子は――。
 真冬は気づかれぬように拳を握りしめると、何も云わず、ドアを開けて出て行った。
 残されたみなもは、きょとんとしている。
 閉ざしたドアにもたれて、真冬は今度も深い深いため息をついた。

     *

 それから、真冬はみなもの病室を訪れ、モデルを務めることになった。
 みなもは屋上で描きたがったのだが、真冬がそれは許さなかった。寒さはどんどん厳しくなるばかりなのだ。
 モデルといっても、特別ポーズをとる必要もないし、じっとしていることもない。みなもがそう云ったので、真冬は椅子に腰掛けて、ただ本を読んでいるのがほとんどだった。
 時折、みなもが話しかけても、真冬は適当に相づちを打つだけ。それでも、みなもはいつも嬉しそうに笑っていた。
 今日もみなもは、友達の女の子とその幼馴染みの男の子の話をして、笑い転げていた。どうやら相当個性的な二人であるらしい。
 つられて苦笑しながら、真冬はふと手にしていた本を閉じた。そして、その黒い瞳で、じっとみなもを見つめた。

「え……どうかしましたか?」

「……ううん」

 軽く首を振って、目をそらす真冬。
 どうして、この子はこんな風に笑えるんだろう。
 本当は、そう訊いてみたかった。
 私なんかといて、楽しいとは思えない。こうして入院を余儀なくされて、不安なこともあるだろうに。
 真冬はみなも本人から、彼女が生まれつき体が弱く、入退院を繰り返していることも聞いていた。そのことを話してくれたときも、みなもは悲しげではあったけれど、絶望は欠片も感じさせなかったのだ。
 少し硬い表情でうつむいた真冬を見て、みなもは慌てて別の話題を探した。つまらない話をしてしまっただろうか、と考えたようだった。

「えっと、真冬さんは高校一年生なんですよね」

「……ええ」

「わたしが今、中二だから、二つ違いか……。真冬さん、大人っぽいから、もっと年上だと思ってました」

「……」

「わたしもあと二年したら、真冬さんみたいな素敵な女の人になれるのかなあ。……絶対無理そう……」

 はあ、と深いため息をついて、みなもは肩を落とした。
 本人にしてみれば大まじめな悩みなのかもしれないが、端から見ているととても可愛らしく、真冬はつい笑ってしまった。

「あー、ひどーい! 真冬さんも、やっぱりそう思ってるんですね」

「……そんなことないわよ」

 慌てて口元を引き締め、真冬は首を振った。

「伊吹さんならきっと、私なんかよりずっと可愛い女の子になるわ」

 そう云った真冬の目は、自分自身気づいていなかったけれど、とても優しい色をしていた。みなもは少し頬を赤くして、満面の笑顔で頷いた。

「ありがとうございます! お世辞でも、そう云ってもらえると嬉しいな。えへへ」

「……お世辞なんかじゃ、ないわよ」

 そう、きっとこんな子だったら。彼の笑顔を、正面から受け止めることが、できるのだろう――。

「……真冬さん?」

「――!」

 我知らず暗い想いに囚われそうになった真冬は、はっと顔を上げると、大きく頭を振った。そして、心配そうに自分を見つめるみなもに、ニッと唇の端だけで笑って見せた。

「なんでもないの。ごめんなさい」

「真冬さん……」

「――そうだ、一つだけ訊いてもいいかな」

 今度は真冬の方が話題を変えようとした。みなもは一瞬、戸惑いの表情を見せたものの、すぐに笑顔で頷いた。

「はい、なんでしょう」

「どうして、私をモデルに……って、あんなにこだわったの? 綺麗な人は、いくらでもいるでしょう?」

 そう、それも不思議だった。みなもは遠目に何度か真冬を見ていた、とは云ったけれど、ああまで熱心に頼む理由がわからない。
 みなもは首を傾げて、少しの間考えた。

「それは、やっぱり、絵心が刺激されたからです」

「……それじゃわからないわ」

「えへへ、ごめんなさい。でも、わたしにもうまく説明できなくて。何度かお見かけして、素敵なひとだなあって思ってたのは本当です。だけど、あの日、屋上で風に吹かれている真冬さんを見たとき……なんだろう、それまでとは全然違う衝撃があって……」

「……」

「正しい表現なのかどうかわからないけど……やっぱり、感動したんだと思います、わたし」

「……感動……?」

 思いがけない言葉に、真冬はすっと瞳を細めた。
 あのときの自分は、ただ過去を悔い、己を責めていただけだ。無様で、みっともない姿。それなのに。

「はい。とても凛として……美しくて、強くて、だけど、儚くて……。そう、まるで――」

「――やめて」

 きつい口調で、真冬はみなもの言葉を遮った。はっと口をつぐむみなもに、束の間、厳しい視線を注いだものの、再びいつものように、ニッと唇の端だけで笑った。

「買いかぶりもいいところよ。私はそんなご立派なものじゃない」

「真冬さん……」

「今日はもう帰るわね。また明日来るから」

 云いながら、真冬はもう立ち上がっていた。歩き出し、そして、ドアに手をかけたとき。

「真冬さん!」

 強い調子で呼びかけられ、真冬は足を止めた。けれど、振り返らなかった。これ以上、彼女の笑顔を見ていると、自分が何を云い出すかわからなくて。

「真冬さんは、素敵です」

「……」

「わたしが、そう思ってるんですから。それは、真冬さんが決めることじゃありません。――ごめんなさい、生意気なこと云って」

「……」

 何も答えず、真冬はドアノブを回して、病室を出て行った。

     *

 翌日、いつも通りの時間に病室を訪れた真冬を見て、みなもは涙を流して喜んだ。
 もう来てくれないかと思った、というみなもの言葉に対し、真冬は「約束だからね」と素っ気なく答えた。
 約束だから、途中で反故にできない――そんなことは言い訳だと、真冬自身気づいていたけれど。
 みなもの笑顔や言葉に激しく心を揺さぶられながらも、真冬はみなものそばにいることを選んだ。学校で友達らしい友達を作ろうともせず、家と学校と病院を行き来するだけの日々だった真冬にとって、みなもと過ごす時間はいつしか貴重なものになっていたのかもしれない。本人は決して認めないにしても。
 けれど、そんな新しい日常にも、唐突に終わりがやってくるのだった。

「退院……? 決まったの?」

「はい、もう来週には……」

 そう真冬がみなもから聞かされたのは、金曜日の夕方だった。
 本来、喜ぶべき話題であるのに、二人ともわずかに表情を曇らせたのは、やはりこの日々が終わることを悲しんだからだろうか。
 もちろん真冬はそんな気持ちを言葉にするはずもなく、すぐいつものように、ニッと唇の端だけで笑って見せた。

「そう。おめでとう。よかったわね」

「……はい、ありがとうございます」

 礼を述べながらも、みなもの表情はまだ幾分暗い。真冬はあえてそのことには触れず、キャンバスの前に立った。

「絵ももうほとんど完成してるし。モデルがいなくても、大丈夫よね」

「そうですけど……でも……まだ、何か足りないんです」

「何かって……?」

「ごめんなさい、それがわからなくて……もう少しでつかめそうな気がするんですけど……」

 そう呟いたみなもは、顔を上げて、振り向いた真冬を真っ直ぐに見つめた。

「また……会えますよね?」

「……そうね」

 答えつつも、それはないだろうと真冬は考えていた。母がいる病院だからこそ、毎日通うことができた。場所が離れ、環境も変われば、会う機会もないだろう。
 だから、みなもが笑顔で頷いたときは、少し胸が痛んだ。嘘をついたような気がして。

「……学校にも、すぐ戻れるの?」

 視線をさりげなくそらして、真冬は話題を変えた。みなもは真冬の意図に気づかず、ただ嬉しそうに笑っている。

「はい、少し自宅療養になりますけど……すぐ通学できると思います」

「そう」

「頑張って勉強しなきゃ。来年は受験だし。わたし、こんなだから勉強いつも遅れちゃって」

「……」

「難しいのはわかってるんですけど、わたし、澄空に行きたいんです。友達がそこ目指してて、それと……」

 何かを口にしかけて、みなもはふと云い淀んだ。彼女にしては珍しく、暗い表情をしている。

「どうしたの?」

「あ、いえ、なんでもありません。――高校生活って、どうですか? やっぱり、楽しいですか?」

「……別に、どうということはないわ」

 不意に問いかけられて、真冬は狼狽した。学校での生活を楽しむだなんて、この一年、考えたこともなかった。ただ抜け殻のように、生きているだけの日々……。

「ええ、そうなんですかぁ? わたしは楽しみです! 元気になって、学校に行って……やっぱり、絵を描きたいですね。美術部に入って、それで……」

「……」

 当たり前のことを楽しそうに話すみなもの姿に、真冬は少し自己嫌悪した。
 こうして入院している少女に、当たり前の生活を「どうということはない」だなんて。無神経な言葉だった。
 少しつらいけれど、中学の頃、部活に打ち込んでいた話をしてみようか、真冬はそう考えたのだったが――。

「そう、それと、やっぱり……恋が、したいです」

「……恋……」

 頬を染めて、はにかんで、夢見る瞳で、みなもは呟いた。
 そしてその言葉に、真冬は蒼白になり、唇を噛んで、瞳を翳らせた。

「わたし、まだ男の人を好きになったことってなくって。だから、それがどんな気持ちなのか……友達や……従姉の子に聞いただけなんですけど……」

「……」

「でも、きっととっても素敵なことだ思うんです……。わたしも、そうやって想える人に、早く出逢えたらなって……」

「……出逢わなければ、よかった」

「――え?」

 小さな呟きに、はっとみなもは我に返って、真冬の方を見た。
 一方、真冬は、何も見ていなかった。
 見開かれた黒瞳には、何も映っていない。ただ、過去という傷みを除いて。

「出逢わなければよかった……そう、思うかも知れない」

「真冬さん……?」

「恋なんて、知らなければよかった。……そう、思うかも知れないわ」

 瞳が徐々に焦点を結んでいき、やがて真冬は、みなもの目を正面から見つめた。
 涙はなく、その表情に、悲壮なものもない。けれど、その内に狂おしいほどの、激しい想いを秘めて。
 それこそが、あの日の屋上で、みなもが真冬に見たものだった。
 みなもは言葉もなく真冬の瞳を見つめ返していたが、やがて、穏やかに微笑んだ。真冬はその笑顔に今度は戸惑うこともなく、ただ真っ直ぐに見つめていた。

「それでも、わたし……恋がしたいです」

「……」

「どんな想いをするのか……わからないけど……それでも、わたし、恋がしたいです。そして、そのときはじめて、この絵は完成するって、そう思います」

「……そう」

 小さく頷いて、真冬はもう一度キャンバスに目を向けた。そこに描かれた自分の横顔を、沈黙したまま、長い長い時間、見つめていた。

   ◇ ◇ ◇

 そして、今も。真冬はそこに描かれた自分の横顔を見つめていた。
 あれからずっと切れずにいた髪は、今ではすでに腰まで及ぶほど長い。
 相変わらずキツい印象を与える面差しだが、最近は穏やかに微笑んでいることの方が多い。今は照れくさくて、苦笑を浮かべていたけれど。
 大学一年生になった真冬は、展覧会会場にいた。金賞の絵の前で、しばし、立ち止まっている。
 美しい絵だと思う。けれど、そこに描かれているのが自分だと思うと、気恥ずかしさの方が先に立つ。他の観覧者が、絵と自分を見比べてひそひそと話をしていては、なおさらだ。
 ここで待ち合わせなんて、あの子も意外と人が悪い――そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。

「お待たせしました、真冬さん。来てくれて嬉しいです」

 振り向くと、澄空学園の制服に身を包んだみなもが、あの頃と変わらない笑顔で佇んでいた。
 その笑顔に眩しそうに目を細めながら、真冬は微笑んだ。

「お久しぶり。金賞入選、おめでとう、みなもちゃん」

「えへへ、ありがとうございます! でも、モデルがいいからですよ、やっぱり」

「そんなことないわ。あの頃の私は、こんな――」

「あの頃も今も、真冬さんはとっても素敵です」

「……ありがと」

 唇の端だけで、真冬はニッと笑う。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
 そのまましばらくの間、二人は黙ってその絵を見つめていた。
 絵の中の真冬は、風に面を向けて立ち、清冽なその横顔には、静かな、しかし激しい想いが浮かんでいた。
 タイトルは「冬の薔薇」。
 真冬は思う。あの頃の私は本当に無様で、思い出したくもないけれど、だけど――。

「……ねえ、真冬さん」

「なあに?」

「わたし、恋を、しました。……叶わなかったけど」

「……そう」

「つらくて、苦しくて……、眠れない夜も、ありました」

「……」

「だけど、それでもわたし、恋をしてよかったです」

「……そうね」

 真冬が絵を見つめたままで微笑む。咲き誇る薔薇のように、艶やかに。

「私も、そう思うわ」

「……はい!」

 強く頷きながら。今度はこの笑顔を描こう、みなもはそう考えた。


end



2002.10.18


あとがき

息抜き第二弾……のつもりで書き始めたんですが、思いの外、長くなりました。結構時間かかってるし。
実は「Can You Keep A Secret ?」以降の一連のシリーズの中で、みなもだけは未登場だったんですよね。彼女って意外と絡めにくいポジションにいるので。それで、一度みなもと真冬で書いてみたかったんです。
しかし、今回、起承転結もなく、書きたいシーンをつらつら並べただけって感じですな。ダメダメです(+_+)。
鷹乃にも会う前で、真冬がいちばん荒んでる頃の話なので、なかなか筆が進みませんでした。ほんとはちゃんと構成立てれば、全四話ぐらいの連作ものにできる素材かも、と思ったりしますが……真冬はこの頃の話するの、嫌なようです。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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