朝凪荘。
今時珍しいぐらい、古びた木造のそのアパートには、不相応に広い庭と、アーチを模したような門がある。建設当時は、それなりにモダンな建物だったのかも知れない。
その門の前で、彼と彼女はばったり鉢合わせをした。
「……っ」
「お、久しぶりじゃん。はっぴーにゅーいやー」
「……」
「真冬?」
いつものように屈託なく笑いかけた稲穂信は、黒い瞳を大きく見開いて自分を見つめる藤村真冬に、首を傾げて見せた。
彼女がこんなに驚く姿は、そうそう見られるものではない。文字通り言葉もなくしていた真冬は、やがて怒ったように眉をひそめて、信を睨んだ。
「……なんで」
「へ?」
「なんで、いるのよ」
「なんでって……ここ、俺んち」
苦笑しながら、信は朝凪荘の屋根を指した。
自分の家に帰ってきたところを、なぜ他人の家から出てきた真冬に咎められなければならないのだろう。
「そういうことじゃないわよ」
「うん?」
「だって、今日は……」
「?」
「……もういい」
短く吐き捨てると、真冬は信の横を過ぎて、足早に歩き始めた。
ほとんど茫然とその後ろ姿を見送りながら、信はどうにか声をかけた。
「おーい、どうしたんだよ? 俺になんか用があったんじゃないの?」
「あんたに用なんかないわ」
真冬は振り返りもせず、相変わらず怒っているような口調で答える。
信は訳もわからず、ため息をつくばかりだった。
「だったら、なんでこんなとこ……」
「散歩よ」
「散歩って……お前、朝凪荘から出てきたじゃないか」
「どこを歩こうと、私の勝手でしょ」
常の彼女からは想像できない、子供のような捨て台詞を残して、真冬は歩き去った。
信はもう一度大きなため息をつくと、踵を返して朝凪荘へ入った。
そして、一階の自分の部屋の前で、今度は信が驚きに目を丸くすることになった。
「……あいつ」
*
まったく、どうして、あんなタイミングで帰ってくるのかしら。
真冬は未だ一人毒づきながら、足を踏みならす勢いで歩いていた。
今日は絶対、双海さんと一緒だと思ったのに。
もしかしたら、部屋に二人でいるかも……とは考えたけど、こんな早い時間に、一人で帰ってくるなんて。そりゃあ、双海さんもお正月ぐらい、滅多に会えないお父さんと水入らずに過ごしているのかも知れないけれど、それにしたって、今日は特別だろう。いったい何をやっているのかしら、あの男は。甲斐性なし! 根性なし!! ヘタレ!!!
「……」
心の内でそこまで吐き出して、真冬は立ち止まり、大きく深いため息をついた。
何がそんなに腹立たしいのか。そもそも、本当に怒っているのかどうかは、真冬自身、よくわかっていなかった。
ただ、頬が熱くなってしょうがないこの感覚を、どうにかして「怒り」でごまかしてしまいたかったのだった。
どうかしてる。……そもそも、今日、あんな行動をしたことが。
自己嫌悪に唇を噛んだとき、背後から、その葛藤にさらに拍車をかける大声が聞こえてきた。
「おーい、まーふーゆー!!」
「………………」
瞬間、拳を握りしめて、振り返る。
満面の笑顔で手を振っていた信は、その射すくめるような視線に怯み、思わず足を止めた。
一方、真冬も信が身につけているものに気づいて、決まり悪げにすぐ目をそらした。
「……なんで」
「へ?」
「なんで、追いかけてくるのよ」
「なんでって……これ」
云いながら、信は再び顔中を笑顔にして、首に巻いたマフラーの端を掲げた。
真冬はやはり不機嫌そうにうつむいたままだ。
「サンキューな。これ、持ってきてくれたんだろ? ……俺の、誕生日だから」
「……そんなんじゃないわ」
「え?」
「年始の挨拶よ」
何を云っているんだろう、バカバカしい――真冬は自分自身、そう考えた。けれど、それでも、信は嬉しげに笑ってくれるのだった。
「そっか、なんにしても、サンキュ」
「……」
何度かためらったあと。真冬はおずおずと顔を上げて、その笑顔を正面から見つめた。
「うん?」
「……なんでもない」
そう答えて、真冬もまた小さく微笑んだ。
三年間、失意と後悔で、無為に過ごした。
再会は、最悪だった。
たくさんの人を傷つけて、一度は何もかも捨てようとして。
そして今ようやく、このひとの笑顔をまっすぐ受け止めることができる。
そのことに感謝したくて、柄にもないことをしてしまったけれど――。
「これ、もしかして、手編み?」
「……彼女がいる男に手編みの贈り物をするほど、無神経でもないし、執念深くもないわ」
肩をすくめてそう答えると、信は少し不思議そうに、マフラーの端をもてあそびながら首を傾げた。
「ふうん? そういうもん?」
「そうよ。……それでも、双海さんはいい気はしないかもね。彼女と逢うときは、外しておきなさい」
「そういうのは、好きじゃないなぁ」
眉をひそめる信。
本当、変わらないんだから。
真冬はそれが嬉しいのか、悔しいのか、腹立たしいのか、やはりよくわからないまま、ため息をついた。
「嘘も方便、よ。誰も幸せにならない真実なんか、いらない」
「詩音ちゃんにも、同じこと云われたよ、昔」
「……そう」
やっぱり無神経だ、この男。
だけど。
「でも、俺はやっぱ、嘘は誰かを傷つけるものじゃないかって思う。だから……嫌だな」
――本当に。変わらない。
そしてそのことが、やはり私は嬉しいのだと思う。
真冬はそう考えて、とても穏やかな微笑みと共に、とても辛辣な感想を述べた。
「……バカなのね」
「そうかもな」
「好きにしなさい」
踵を返し、真冬は歩き始める。
信もそれ以上は追いかけようとせず、その後姿を見送っていたが、ふと何かに気づいたように真冬が足を止め、振り向いた。
「一言だけ、云っとく」
「なに?」
目を丸くする信に対して、ニッと、真冬が唇の端だけで微笑む。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
「今年もよろしくね」
end
2003.1.4
あとがき
謹賀新年m(__)m。
真冬で「萌え」っていうと、これが精一杯ですー。……って、別に「萌え」がテーマじゃないんですが(^^ゞ。
「想君」で信の誕生日が1月4日だと知ってから、ずっと書いてみたかったのでした。
シリーズの時間軸的には、「やまない雨」直前です。だから、まだ「双海さん」なんですね。
しかし、これだけいちゃついてたら、そりゃあ詩音もキレますよね(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。