彼女と彼女の猫

 玄関の鍵を回そうとしたところで、真冬はその鳴き声に気づいた。
 軽く眉をひそめて周りを見回すと、門柱の影にうずくまる小さな姿があった。
 瞬間、真冬は息を飲む。
 茫然と立ち尽くす彼女の足下に、やがてその影はゆっくりと歩み寄ってきた。
 黒い子猫だった。みゃあ、とか細い声でもう一度鳴き、その猫は真冬の足に体をすりつけた。

「……」

 真冬は大きなため息をつくと、かがみ込んで、猫の顎をなでた。気持ちよさそうに喉を鳴らす子猫に、真冬は苦笑を浮かべて呟いた。

「どうしたの? 迷子?」

 みゃあ、と猫は答える。もちろん何が云いたいのか、真冬にわかるはずがないし、返事をしたわけでもないだろうけれど。

「もう暗いわよ。早くお帰りなさい」

 そう云って、真冬は立ち上がった。猫は相変わらず足下にすり寄っている。
 真冬はあえてその愛らしい仕草を見ないよう、顔を背けた。

「ダメよ。うちでは飼えないから」

 みゃあ。

「生き物は飼わないって決めてるの。特に猫はダメ。絶対に」

 自分自身に言い聞かせるように、呟く。
 あの雨の日。信の腕の中で、冷たくなっていた子猫。
 あんな想いは二度としたくなかった。

「じゃあね。気をつけてお帰りなさい」

 ドアを開けて、家に入ろうとする真冬。ところが、それより早くドアの隙間から、猫が入り込んでしまった。

「――こら、ダメだって云ってるでしょ」

 慌てて真冬も入り、猫を抱き上げる。
 そのとき、ようやく真冬はその猫の体が冷たく冷え切っていることに気づいた。
 季節は冬。日も暮れて、寒風が吹き荒んでいる。
 すぐに帰る場所があるならいいけど、もしそうでなければ、こんな状況で追い出したりしたら――。
 真冬は再び大きなため息をつく。
 鼻先に猫を持ち上げると、きつい視線で言い聞かせた。

「今晩だけだからね」

 しかし、なぜかその声は、自分自身に言い訳をしているような響きがあった。

     *

「……まったくもう……」

 指先にバンドエイドを貼りながら、真冬はじろっと子猫を睨んだ。猫はそんな視線に気づくこともなく、ヒーターの前で幸せそうに丸くなっている。
 野良猫であった場合を考えて、まず体を綺麗にさせておかないと、と真冬はその猫を風呂に入れた。そのとき、散々いやがられて、手をあちこちひっかかれたのだ。
 真冬は猫の世話の仕方など知らなかったから、風呂の入れ方に問題があったことも確かだったろうが。
 とりあえず温かい寝床と食事が用意されて、猫はもう真冬にすり寄ってくることもない。そういう現金な態度も腹立たしかった。

「やっぱり入れるんじゃなかったかしら」

 猫の横に座り、顎をなでてやる。猫は今度も気持ちよさそうに喉を鳴らした。
 そういう姿を見ると、やはり真冬でも微笑んでしまう。ずるい生き物だ、と思った瞬間、とある男の顔が浮かんだ。

「自分勝手なところとかそっくり……私より、ずっとあんたの方が猫っぽいわよ」

 苦笑して、真冬は立ち上がった。猫相手に、自分は何を愚痴っているのだろう。
 聞きかじった知識で猫のトイレを用意して――これを使う習慣がこの猫に身に付いていなかったら、そう想像すると真冬は暗い気持ちになった――、真冬は自分も寝ることにした。

「おやすみ。明日は家に帰りなさいよ」

 ヒーターを消し、毛布で猫の寝床を作ってやる。そうして、真冬は自室へと足を向けた。
 ところが、真冬が自分の部屋のドアを開けた瞬間、いつの間にかついてきていた猫が、またしてもするっと真冬の足下を抜けて、部屋へ入ってしまった。

「……あ、こら」

 やはり猫は真冬の制止など聞かない。ひょい、とベッドに上がり、布団に潜り込んでしまった。そうして、あきれる真冬の方を見て、みゃあ、とあくび混じりに鳴いた。

「……ほんとに、甘えたいときだけ甘えるのね」

 本当は寝る前に少し本を読むのが習慣なのだが、今日はそんな気分にならない。それに、早く寝ないと邪魔をされそうな気がする。
 三度目のため息をついて真冬はパジャマに着替え、布団に入った。猫が真ん中で寝ていたので、理不尽に思いつつも、少し端に寄って。

「……図々しいとこもそっくり」

 そっと手を伸ばして、猫の背中をなでる。特に嫌がる素振りもなかったので、真冬はそのまま抱き寄せてみた。
 命あるものだけが持つ暖かさに、真冬は今更ながら驚いた。
 腕の中にぬくもりを抱いて眠る機会なんて、ずっとなかった。
 そのことにまず戸惑いを覚える自分が少し悲しいと思ったとき、すでに眠っているとばかり思っていた猫が不意に首を伸ばして、真冬の頬をなめた。

「……きゃっ」

 猫はすぐ何事もなかったように目を閉じて、眠りに戻る。
 真冬は苦笑しつつ、その背をなでた。できるだけ優しく。

「ありがと」

 もちろん、返事はない。
 気まぐれな優しさまで似ている気がする。
 ――いや、本当は気まぐれなんかじゃなくて、自分が気づくことができなかっただけだ。そんなことはもうわかっていた。だから。
 胸を満たすぬくもりと切なさの中で、真冬はゆるやかに眠りに落ちた。あの日の夢も、今夜だけは涙を伴わずにすむような気がした。

     *

「よ、いらっしゃい」

 ドアが開くと、いつもと同じく満面の笑顔が現れた。
 真冬はつい癖のように、一瞬、その笑みから目をそらしてしまう。そうして、腕組みをしたままで軽く頷いて挨拶をした。

「悪いわね、急に」

「気にすんなって。どうぞ」

「……お邪魔します」

 やはり腕組みをしたまま、真冬は信の後に続いて部屋に入った。その体勢の不自然さに、信は少し首を傾げつつ、手を差し出した。

「コート、かけとくか」

「あ……うん、ありがと」

 云いながらも、真冬はそのままの姿勢で腰を下ろした。そして、ゆっくり腕をほどいて、コートのボタンを外していくと――。

「おお?」

 信が目を丸くして、覗き込んでくる。そこからは黒い子猫が顔をひょこっと出していた。
 信と目を合わせると、猫は、みゃあ、と一声鳴いた。

「……うらやましいなあ、お前」

 真冬の胸に抱かれてきた猫に対して、信は思わずそう呟いた。が、真冬の黒瞳にじろっと睨まれて、慌ててわざとらしく咳払いをした。

「どうしたんだよ、この猫?」

「うん……相談ってのは、このこと」

 コートのボタンを全部外すと、猫はひょいと飛び降りて、信の部屋を探索し始めた。
 信は真冬のコートを預かってハンガーに掛けた。

「ふうん? ま、お茶でも飲みながら聞こうか」

「あ、私がやるわ」

「いいよ。座ってて」

 信は台所に向かい、お湯を沸かし始めた。
 真冬はその背をしばらくぼんやり見ていたが、やがて所在なげに視線をさまよわせた。
 信の部屋に入ったのは、何もこれが初めてではない。
 しかし、いつも妙に落ち着かないというか、居心地の悪さを感じるのは、信ともうひとりの誰かの生活を感じるせいだろうか。
 そんなことを考えて、真冬が小さくため息をついたとき、信が両手に珈琲カップを持って戻ってきた。

「はいよ、お待たせ」

「ん、ありがと」

「それで、どうしたって?」

 卓袱台を挟んで真冬の向かいに座り、信が訊いてきた。
 真冬は昨晩、猫が迷い込んできた話を説明した。
 結局、翌日になっても、真冬はその猫を放り出すことができなかったのだ。だからといって飼い続けるわけにもいかず、とりあえず真冬は信に相談することにした。

「飼ってやればいいんじゃないの?」

「……そうはいかないわよ」

「なんで?」

「生き物は……苦手」

 目を伏せて、小さく真冬は呟いた。
 その事情を誰より知っている信もまた、自分のうかつな発言に気まずげに目をそらした。

「それに……この子、きっと飼い猫よ。人に馴れてるもの」

「そっか。じゃあ、探してやらないとな」

「ええ。それで、見つかるまで私が預かるのはいいんだけど、私、猫なんて飼ったことないし」

「それで俺に? でも、俺だって猫飼ったことなんかないぜ?」

「実体験はなくても、ムダな知識は色々持ってるでしょ」

「ムダって……ひでえなあ」

 翳りを隠して、普段通りちょっと意地悪そうに笑ってみせる真冬。そんな彼女の不器用な信頼に、信も苦笑を返した。

「まあ、トイレのしつけができてるんなら、あとは食べ物だけ気をつければいいと思うんだけど。問題は飼い主捜しか……」

 話していると、丁度猫が信のそばに歩み寄ってきた。信が抱え上げても嫌がりもせず、猫はおとなしくしている。

「ほんと、馴れてるのな」

「うん」

「名前は?」

「……え?」

 虚をつかれて、真冬は絶句する。猫をかまっていた信は、その様子には気づかなかったが。その隙に、真冬は平静を取り戻した。

「……名前なんて、わかるわけないじゃない」

「そうじゃなくって、とりあえず名前つけてやらなかったの? 名前ないと、不便じゃん」

「私が飼ってるわけじゃないし……。勝手に違う名前で呼ばれる癖つけても、飼い主に迷惑でしょ」

「まあ、そりゃそうかもしれないけど……」

 云いかけて、ふと何かに気づいたように、信は言葉を切った。眉をひそめるその姿に、真冬は首を傾げた。

「どうしたの?」

「あれ、この猫、もしかして……」

「……え……?」

     *

 そうして、迷子の猫の飼い主は、あっさり見つかってしまった。
 信のアパート、朝凪荘の近くで飼われていた猫だったのだ。数日前からいなくなっていたらしく、子供が手描きで作った迷い猫の張り紙を信が見ていた。
 どうしようか、と気遣わしげな視線を向けた信に、真冬はきっぱりと、すぐに電話してあげて、と云った。

「いいのか?」

「当たり前じゃない」

「……」

「待ってる人がいるんだから。帰らなきゃダメよ」

 云い聞かせるような口調で、真冬はそう云った。
 飼い主の少女は、母親に連れられてすぐやって来た。
 朝凪荘の玄関で、真冬が抱いていた猫を渡すと、少女は瞳を涙でいっぱいにして、嬉しげに笑顔を浮かべた。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

「ううん。よかったね」

 真冬も微笑んで、頷いた。そして、飼い主に甘える猫の首を指先で撫でて、

「あんたも。もう迷子にならないようにね」

 優しく、囁いた。
 信はその傍らに立ち、ずっと複雑そうな顔をしていた。
 何度も礼を云って、親子は立ち去った。その後ろ姿を見送っていると、あの猫が少女の肩越しに顔を出して、真冬のほうを見た。――少なくとも、信にはそう思えた。
 そうして、一言、みゃあ、と鳴いた。
 真冬は微笑んで、小さく手を振った。同時に何かを口にしたのだが、その声は小さすぎて、信には聞き取れなかった。別れを口にしたようにも思えたし、何かの名前を呼んだような気もした。
 信は真冬の顔を見ないようにしながら、呟いた。

「胸、貸そっか?」

「……バカ」

 小さな声でそう答えると、真冬は信の肩に頭をもたれさせた。
 冬の陽を受けて、涙が一雫、その頬を伝った。


end



2004.1.23
2005.1.23改訂


あとがき

一年放置してしまいました。
まあ、放置って云うか、前半だけでそれなりにまとまってる気がしてしまったんで、なんか続きが蛇足に思えてしまったというのがあったのですが。
でも、未完のまま放り出している気分で気になってはいたので、再び真冬の誕生日記念で完結させてみました。
……やっぱ蛇足だったかなあ。うーむ。
しかし、本編進めないと、いい加減、番外編も書きにくくなってきたな。時間軸の縛りが……。自業自得ですが……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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