ataraxia

 クラスメイトの少女が、笑っていた。
 名を、今坂唯笑という。
 その名に込められた願いのまま、満面の笑顔で。それは少し前まで見られた、無理に浮かび上げた笑みではなく、本当に心からの笑顔だとわかった。まるで真夏のひまわりのようだ。
 その笑顔の先には、三上智也がいる。智也もまた、唯笑をからかいながらも、その目をまっすぐ見つめていた。もう誰かを捜すように視線をさまよわせることも、唯笑と誰かを重ねて見ることを怖れて目をそらすこともない。
 そんな二人の様子を見つめて、信はなぜか、小さなため息をこぼした。
 これ以上ないくらい、うまくいった結果だった。まさに自分が望んだ通りの姿ではないか。――いや。

「……稲穂さん」

 低い、小さな呟きに我に返り、振り返る。隣の席の美しい少女が、ほんの少し眉をひそめて、その少し不思議な色の瞳で信を見つめていた。
 わかってる、というように、信はわずかに顎を引いて頷く。詩音は数瞬、目を伏せると、席を立って教室を出て行った。この昼休みもまた図書室に向かうのだろう。
 信はその背を見つめながら、つい先日、この教室で彼女に云われた言葉を思い出していた。

(もしあなたが本当にそれを自分の罪だと思っているのなら、一生、自分の胸だけにしまって、それを背負って生きていくべきです。それがあなたにできる唯一の償いなのではないのですか)

 ――その通りだった。
 智也と唯笑は、二人で過去を乗り越えた。信はそんな二人の背中をほんの少し押してやれたかもしれないが、だからといって、それでこれまで抱えていた想いがすべて晴れるはずもなかった。それどころか、むしろ無力感を募らせてさえいた。
 ――俺は、裁かれていない。
 その重さに耐えられず、いっそ自ら智也にすべてを打ち明けようとして。
 そして、それがまた逃避に過ぎなかったことを、思いがけず詩音から思い知らされた。
 それなら、この三年はなんだったのだろう。すべてを捨てて、大切なひとをどうしようもないほど傷つけてまで選んだことは。
 自分の中の虚ろな深淵が、さらに大きく口を開けて自分自身を飲み込もうとしているように、信は感じていた。
 そして、同時に。
 空っぽで何もないはずの自分の中に、あの放課後からほのかに灯る光があることも。

(私は、もう彼らに傷ついてほしくないだけです)

 小さく微笑んで、彼女はそう云った。その悲しい優しさに、俺は――。

「だあああああああああああっ!!」

「うわっ、ど、どうしたの、信くん?」

「なんだ、ついに完全にイっちまったか?」

 突然奇声を発した信に、唯笑が驚いて目を瞠り、智也はあきれ果てた様子で肩をすくめる。信はそんな二人を威嚇するように歯をむき出して見せた。

「叫びたくもなるっつの。毎日毎日、人前でいちゃつきやがって、このバカップルが!」

「えー、バカップルだって。どうしよう、智ちゃん」

 信の叫びに、さすがに智也はばつが悪そうに頬をかいたが、唯笑はむしろ嬉しげに頬を染めていた。信はもはやがっくりと肩を落とすしかない。
 そんな様子を見かねて、もう一人のクラスメイトが口を挟んできた。

「まあ、今度ばっかりは稲穂クンの云う通りかな。独り者には目の毒だよ、ほんと」

「ええー、音羽さんまでぇ。そんなことないよねー、智ちゃん」

「……ごめん、とりあえず謝っとけばいいか?」

「……もういいよ、行こ、稲穂クン」

「……だね。どうせ、こいつらはラブラブお弁当なんだから。俺らは淋しくパンでも買ってこよう」

「あ、信、購買行くんなら牛乳買ってきてくれ」

「なんで俺がお前のパシリやらなきゃならねえんだよ!」

 醜く智也と罵り合いながら、信は教室を出た。かおるがため息と共に頭を振りながらその後に続き、唯笑は笑顔で「行ってらっしゃーい」と手を振っていた。

     *

「サンキュ」

「ん?」

 不意に呟かれた信の言葉に、かおるは卵焼きを口に頬張ったまま、不思議そうに首を傾げた。
 二人は屋上に来ていた。信は云ったとおり購買でパンを買い、かおるは弁当を持ってきた。
 いつもは智也たちと四人で昼食を食べている。勢いで飛び出してきた信に自分がつきあってあげている、と信が考えたのだろうと解釈したかおるは、

「なんで? 立場は一緒じゃない」

 屈託なく笑って、卵焼きを飲み込んだ。信は薄く笑って、軽く首を振る。

「じゃなくて」

「どういうこと?」

「なんとなく、フォローしてもらった気がした」

「……」

 かおるは答えず、また小さく微笑んで肩をすくめた。
 こうして屋上で食事をするには、もうだいぶ風が冷たくなっている。そろそろ別の避難場所も探しておかないと――と考えたところで、なぜか図書室が浮かんでしまって、信は大きく頭を振った。

「どうしたの?」

「……いや、何でもない」

「変なの」

 やはり屈託なく、かおるは笑う。だが、食べ終えた弁当箱を片づけると、かおるは少し表情を硬くして、信に面を向けた。

「ねえ、稲穂クン」

「ん? なに?」

「実はね、お願いしたいことがあったの。それで、二人で話せる機会を狙ってたんだ。だから、フォローしてもらった、なんて云われると困っちゃう」

「……それはそれ、だろ。お願いって何?」

 変に堅いわけではないのだが、筋は通さずにはいられないかおるの生真面目さに、信は苦笑しつつ続きを促した。かおるもつられて、小さく微笑む。

「うん。……あのね、今日は稲穂クンに第二講習をお願いしたいと思って」

「第二講習……? ――って」

 何のことかと一瞬考えたものの、信はすぐに思い出した。先日、この場所でかおるが初めて授業をサボるきっかけを作ったのだ。もちろん信が勧めたわけではなく、むしろ止めたのだったが……。

「ええと、午後は授業に出る気がしないから、つきあえってこと?」

「惜しい。弟子はもっと高みを目指しているのですよ、先生」

「高みって……え、まさか」

 おどけてみせていたかおるが、表情を引き締める。そして信をまっすぐに見つめて、頷いた。

「そう。学校を抜け出したいの」

「……」

 軽く眉をひそめて、信はかおるの目を見つめ返した。かおるもまた目をそらさず、唇を噛みしめる。そのあまりに真剣な表情に、信は――。

「ぷっ……くはははははっ」

 つい、吹き出した。

「なっ……」

 無論、かおるの機嫌は猛烈な勢いで斜めになる。呼吸も忘れるほど真剣だったのに。

「なによ、もう、笑うとこじゃないでしょ!?」

「ごめんごめん。……いや、だってさ、サボって学校抜け出すぐらいのことで、そんな思い詰めた顔してるからさ」

「抜け出すぐらいって……普通は大事だよ」

 確かに少し大袈裟だったかもしれない、と考えて、かおるは頬を赤らめつつも憮然として口を尖らせた。信は笑いながら――今日もまたことさら軽薄そうな表情を作りながら、言葉を続けた。

「遊びに行きたいから、抜け出すの手伝ってって軽く云えばいいのに。そんなんじゃ、深い事情がありますって自分で宣言してるようなものだよ」

「……あ……」

 かおるがはっと息を飲む。信はその様子を横目で窺い、薄く笑ったままで腰を上げた。

「そんじゃ行こっか。昼休みの混雑に紛れたほうが出やすいよ」

 そう云って、屋上から出るドアまで歩いていく。かおるも弁当箱を片づけて立ち上がったものの、すぐ後を追わず、うつむいて立ち尽くしていた。信はそれに気づき、振り返って首を傾げた。

「ん? どうしたの?」

「……」

「もしかして、ビビってんの? ほんと、たいしたことじゃないから――」

「……事情、聞かないの?」

 信の軽口など耳に入らない様子で、かおるは硬い声で呟いた。信は少し困惑気味に眉をひそめ、そしてまた、薄く笑った。

「プライバシーには、踏み込まないよ」

「……」

 かおるは顔を上げて、信の笑顔をじっと見つめた。そうして、しばしの沈黙の後、どこか淋しげにも見える笑みを浮かべた。

「稲穂クンは、優しいのか冷たいのか、よくわからないね」

「俺? 俺は――」

 その言葉への答えを信は苦笑で誤魔化そうとしたのだが、不意にまた黒髪の彼女のことを思い出してしまい、失敗した。憂いと自嘲を湛えて、呟く。

「……俺は、臆病なだけだよ」

 ある意味、予想通りだった答えに、かおるは肩をすくめる。

「相変わらず自虐的なのね」

「ごめん、ヘタレで」

 もう一度、二人は顔を見合わせて苦笑した。

     *

 一時間後、信とかおるは藤川駅前の繁華街にいた。かおるは心細げに周りをきょろきょろと見回している。信はさりげなく、その耳元で囁いた。

「音羽さん、それじゃかえって怪しいって。堂々としてないと」

「う、うん、そうだね、ごめん」

「まあ、制服ってのがネックではあるけどね」

「補導員、とかいるよね……。ごめんね、稲穂クン、こんなとこまでつきあわせて」

 本当に申し訳なさそうに、かおるが信に頭を下げる。だから、そんなに蒼白な顔してちゃ不審に思われるんだけどな、と内心苦笑しながら、信は朗らかに首を振った。

「気にするなって。どうせ暇だから。で、どこに行きたいの?」

「うん、ありがと。映画館なんだけど……」

「こりゃまた目立つところに」

「……ごめん」

「だーかーらー、もう謝るのナシ。ね? せっかくなんだから、デート気分で歩こうぜ」

 雰囲気を変えようと、信は勢いでそんなことまで云ってしまった。かおるが目を丸くしてじっと見つめてくる。

「……あ、ごめん、調子に乗りすぎた」

 行こっか、とばつが悪そうに頬をかきながら、信は歩き出した。すると、かおるは小走りに信の横に並び、すっとその肘に腕を絡めてきた。

「……っ」

 不意打ちに、信は思わず息を飲んで、かおるを振り返る。かおるはいたずらっぽく微笑んで見せていた。

「デート気分、なんでしょ?」

「う、うん」

「つきあってもらってるんだから、これぐらいはお礼しないとね」

「……お釣りが出るぐらいの役得だよ」

 ようやくかおるらしい朗らかさを取り戻してくれたことに安堵し、信は笑い返して歩き出した。肩に掛かるかおるの髪の香りと、腕に触れる柔らかい感触に鼻の下を伸ばしていてはちっとも様にならなかったが。
 そんな信にとっては残念なことに、映画館は少し歩くとすぐ到着してしまった。かおるが信から腕を放して、少し足早に歩いていく。信は名残惜しそうにその背を眺めつつ、声をかけた。

「映画が見たかったの?」

 そういえばかおるは映画が好きだという話は聞いたことがある気がしたが、それにしてもわざわざ学校を抜け出してまで見に来るものだろうか。ファンにしてみれば「映画館で見ること」が重要なのだろうが、上映予定の映画を見たところ、今日この時間でなければ見られないものがあるわけではなさそうだった。

「ううん、そうじゃないの。……よかった、まだ出てきてないみたい」

 辺りを見回して、かおるは安心したようにため息をついた。そして、信を促して、そばにあったベンチに座った。

「まだ出てきてないって……待ち合わせってこと?」

「うん、正確に云うと……待ち伏せ、かな」

「……それはまた不穏だね」

 思いがけない言葉に、信が眉をひそめる。かおるは小さく笑って頷いた後、驚くほど真剣な表情を浮かべて言葉を続けた。

「知り合いがね、今やってる映画に関係してるの。この時間に挨拶に来てるはずなんだ」

「……ふーん……」

 かおるが待ち伏せをしてまでその人物に会いたい理由はなんなのか。やはり信は自分から尋ねようとはしなかったが、かおるもまた信の言葉を待たず、話し続けた。

「知り合いっていうのは……つまりまあ、昔の恋人なんだけど」

「……元カレ、ですか」

「うん」

 頷いて、一度言葉を切ったかおるは、ためらいがちな視線を信に向けた。信もおどけてみせることはせず、ただ軽く首を傾げて続きを促した。

「話、聞いてもらってもいい? 相談とかじゃなくて、聞いてくれるだけでいいの」

「……ああ、いいよ」

 信が頷くと、かおるはありがとう、と答えたものの、しばらくの間、言葉を探すように沈黙していた。
 信はその横顔を、ついじっと見つめてしまう。別れた恋人に逢いに行くこと。それはこの三年間、信にはけしてできなかったことだ。そしてこれからも、二度とないと思っていた。逢ってはいけないのだ、と。
 けれど、それは――。

「……はじめに連絡をくれたのはね、彼のほうからだった」

 うつむいたままで漏らされた、かおるの小さな呟きに、信は思考を中断した。ただ黙って、その続きを待った。

「呼び出されて、会って……やり直したいって、云われたの」

「……」

「びっくりしたよ。正直……少し、嬉しかった。嫌いになって別れたわけじゃなかったし……。彼が映画の仕事を始めて、どんどん忙しくなっちゃって、すれ違いが多くなって、それで……。やり直せるものならって、私だって何度も考えた。それは本当。だけど……」

 そう、やり直せるものなら。
 何度考えただろう。信は我知らず、強く唇を噛む。
 もしやり直すことができるなら、誰も傷つけない道を選べたかもしれない。しかし、起こった出来事は変えられない。傷を繕うことはできても、その痕を消すことはできない。
 その傷痕を、ずっと「罪」と呼んできた。だから――。

「……やり直すことなんて、できない」

 思わず、信は声に出して呟いていた。かおるがはっと驚いて顔を上げる。だが、すぐにまたうつむいて頷いた。

「うん……そうだね。もう、終わったことなんだから」

「……」

「もう一度始めよう、そう云ってほしかった」

「……え?」

 己の中にある深淵にまたしても囚われ、深い闇に思考を埋没させていた信は、その思いがけない言葉に驚いて面を上げた。
 そこには、きっぱりと空を見上げ、強い決意に表情を輝かせたかおるがいた。
 信はかおるの心境にどこか似たものがあるように感じ、共感しているつもりになっていたが、それがただの自己憐憫に過ぎなかったのだと、今この瞬間、思い知らされていた。

「一度終わってしまっても、また新しく始められるよ。やり直すんじゃない。また最初から始めることは、きっとできる。私はそう信じてる」

「……」

「でも……彼と話してて、わかっちゃったんだ。彼が見てるのは、昔の私なの。幸せだった頃を、懐かしんでるだけ。それじゃ、何も始められないよ」

「……」

「そのことを、はっきり彼に伝えたかった。今日を逃すと、彼とはまたしばらく会えなくなるから。電話とかじゃなくて、ちゃんと会って伝えなくちゃいけないと思って」

「……」

「でも、先に連絡して、放課後に時間を取ってもらって……なんて段取りをつける勇気はさすがになくってさ。こうして勢いで飛び出して来ちゃった。あはは、ほんと、迷惑かけてごめんね、稲穂クン」

「……」

「……稲穂クン? おーい、聞いてる〜?」

「あ……ああ、いや、聞いてる、ごめん」

 ほとんど茫然自失、という状態だった信は、かおるの呼びかけでようやく我に返った。かおるは不思議そうにその姿を見つめていたが、やがて申し訳なさそうに頭を下げた。

「こっちこそごめん。こんな話、いきなりされても困っちゃうよね」

「い、いや、そうじゃない! そうじゃなくて!」

「……?」

「いや、なんて云うか……その……俺ってヘタレだよなあ、やっぱ」

 そう云って、頭をかきながら信は笑った。その笑顔は信が時折見せる自嘲混じりの苦いものではなく、子供のように素直で――泣き出しそうにさえ、見えた。

「ど、どうしたの、稲穂クン?」

「いや、なんでもない、ごめん、忘れて、ホントに」

 信の様子はまったく支離滅裂だった。自分の話が信を混乱させたのだとかおるにもわかっていたが、どうやら謝るべき筋合いでもないようだと理解して、かおるは肩をすくめるだけですませた。

「変なの。……それと、自虐的なのはもうやめなよ、ほんとに」

「……はは、面目ない」

「私がこんな風に考えられるようになったのも、稲穂クンが話し相手になってくれたからだと思うし」

「そりゃ買いかぶりだよ」

「智也と今坂さんだって、稲穂クンがいなかったらどうなってたか」

「……」

 その名前を出されると、信の表情は再び陰ってしまう。かおるはその事情をどこまで知っているのか、ただ笑顔を浮かべていたが、映画館から出てくる人波にはっと顔をこわばらせた。信もそれに気づき、そちらに視線を向ける。かおるが探している人が誰なのかは、わかるはずもないが。

「……いたの?」

 かおるが黙って頷く。そして、拳を握りしめて、立ち上がった。

「行ってくる。今日はほんと、ありがと」

「……待ってよっか?」

「ううん。……泣いちゃうかもしれないからね、見られたくない」

「そっか。……健闘を祈る」

「任して」

 おどけた仕草で拳を交わし、かおるは歩き出した。そして、信も立ち上がって背を向けたとき。

「稲穂クン」

「――ん?」

「私も、健闘を祈ってるよ」

「……おう」

 なんのこと、とは訊けなかった。ヘタレてばかりはいられない。
 かおるが自分に発破をかけるためにわざとさっきのような話をしたのだとは、信は考えていなかった。かおる自身も、誰かに話をすることで気持ちを整理したかったのだろう。
 その「誰か」に信が選ばれたのは、やはりかおるも信に対して、どこか共感を持っていたから。そして、自分が乗り越えられると信じたものを、同じように信じてほしいと想ったから。
 だったら、たまには見栄を張らないと。
 信の足は、わざわざ抜け出した学校へ向かっていた。

     *

 放課後の喧噪に紛れて、信は何食わぬ顔で校内に戻った。まっすぐ図書室に向かい、ドアを開けると、校舎内外のざわめきとは無縁の静けさが広がっている。今日も人影はほとんどない。
 信はためらいがちにゆっくりと、貸し出しカウンターのほうに歩いていく。そこにはいつも通り、銀がかった薄茶色の髪に、少し不思議な色の瞳をした美しい少女が座っている。
 それもいつも通り、熱心に本を読んでいた少女――詩音は、信が正面に立ったのに気づいて顔を上げた。向かい合った信の笑顔は、いつになくぎこちない。それでも詩音の表情は揺らぐことなく、硬い声を紡ぎ出した。

「こんにちは」

「……こ、こんちは」

「お帰りなさい、というべきでしょうか」

「……は?」

「午後、いらっしゃいませんでしたよね?」

「……ばれてたんだ」

「いくら私でも、隣の席が空いていれば気がつきます」

 そこまで――彼女にしては珍しく長く――話したところで、詩音は視線を本の上に戻した。次の会話の糸口を信がどうにか探し出そうとしていると、意外なことに、詩音のほうがぽつりと漏らした。

「……音羽さんもいらっしゃらなかったようですが」

「そ、そうなの? どこ行ってたんだろうね」

 とっさにとぼけたのは、本能の為せる技か。
 詩音は一瞬、不審そうな目をちらりと信に向けたが、すぐにまた面を伏せてしまった。

「お友達に心配をかけるのは、あまり感心しません」

「心配……? 友達って?」

「昼の騒ぎの後で姿をくらましては、喧嘩が原因で気分を損ねたようではありませんか。今坂さんも智……三上さんも気にしていましたよ」

「ああ……そっか」

「……もっとも、あのお二人の態度にも問題はあると思いますけど」

「……え?」

 思いがけない台詞に信は詩音の表情を覗き込もうとしたが、詩音は頑ななまでに面を伏せている。本を読んでいるにしてはさっきからページをめくっていないし、そもそも詩音のほうからこれだけ話をしてくれること自体が珍しい。
 ここにいたってようやく、信は詩音が自分を気遣ってくれているらしい、と気がついた。思わず顔がほころんでしまうのを止めようがない。ついつい声も大きくなった。

「だよね! 詩音ちゃんもやっぱそう思うでしょ!?」

「……!」

「あいつらはまったく、人前で平気でべたべたしやがって……って、あれ?」

 突然、詩音が弾かれたように顔を上げていた。驚きに目を丸くし、頬が赤く染まっている。

「ごめん、声大きかった?」

「そ、それもありますけど……」

「ん? どうしたの、詩音ちゃん?」

「その……私は男の方に、そのように呼ばれるのは、ちょっと……」

「え? ……あ、ああ、ごめん、つい……」

 気づかないうちに名前で呼んでしまっていたことを自覚して、信も顔を赤くした。
 ――『詩音』
 聞こえないよう、口の中だけでもう一度その名を呟いてみる。
 綺麗な名前だと思った。口にするだけで、気持ちが浮き立つような気がする。
 そして、同時に。思い出してもいた。

(『真冬』なんて、寒そうな名前でしょ?)

(俺は……『真冬』って名前、好きだな)

 その記憶は未だ鋭い痛みをもたらす。けれど、ただ苦いだけではない。後悔だけが、彼女のくれたものではないはず。すべてを「罪」という大義名分にすり替えて、何も見ないよう、考えないようにしてきた。苦しんでいる振りをしてきただけだ。今ならそれがわかる。そんなのは、きっと――。

(幸せだった頃を、懐かしんでるだけ。それじゃ、何も始められないよ)

 そして、今ここにある想いは。

「稲穂さん……? どうかしましたか?」

「いや……やっぱいい名前だよ、詩音ちゃん」

「だから……っ」

 頬をさらに赤くして、詩音が睨んでくる。銀の髪が揺れ、金の瞳が瞬く。
 どこか似ているから、気になったのかもしれない。
 やり直したいから、面影を探していたのかもしれない。
 けれど、詩音は詩音だ。今、惹かれてやまないのは、今、ここにいる詩音なのだ。
 そう認めてしまうことが許されるのかどうか、今はまだわからない。
 それでも、今、この場所から新しく始められるのだと、強く信じたい。
 信は祈るような想いで、詩音の顔を見つめ続けた。

「――稲穂さん? 人の話を聞いていますか!?」


Memories Off EX
Scenario for Shin Inaho
"hollow ataraxia"
end



2006.4.17


あとがき

やっちゃったタイトル後編です。またずいぶん間を開けてしまいました。申し訳ありません。
1月、2月はもう忙しすぎて物理的に時間がありませんでした。3月は……反動で遊んでましたね……4月ももう下旬だし……す、すみません……。
閑話休題。
「ataraxia」ってのは哲学用語で、「乱されない心の状態」を指すそうです。幸福の必須条件だとか。
今さら説明するまでもないと思いますが、このタイトルはゲーム「Fate / hollow ataraxia」からいただいております。恥ずかしながら、私は「hollow ataraxia」って意味が最初わからなかったんで、辞書引きました。そのとき、なぜか「俺は空っぽなんだよ」という信の台詞が浮かびまして、そこから「自分を空っぽだと自覚しながら無力感にさいなまれていた信が、詩音への想いを認めることで自分自身も空っぽの淵から抜け出すことができる」……という本作のテーマが生まれたわけです。
もっとも、信のこの時点での境地は「ataraxia」からはほど遠くて、真冬本人に再会しただけでパニック起こして失踪しちゃう程度のものだったということは、シリーズを読んでくださっている方にはすでにおわかりのことだと思いますが(^^ゞ。それでも信が自分の気持ちに一区切りつけるところを書けて、自分としてはよかったと思います。
あと、かおるが信に惚れてるような描写はしないよう心がけてたんですが、大丈夫だったでしょうか(^^ゞ。信とかおるは「共犯者」というか、普段はどっちも表に出さないダークサイドが共感し合ってるイメージで書きました。
ああ、またあとがきが長い……。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。

トップページへ戻る