海の見える公園。長いキスのあと、瞳を見つめると、詩音は恥ずかしげにうつむいた。
その姿がとても愛しく、智也は詩音を胸に抱きしめる。詩音も穏やかに微笑みながら、智也の胸に頬を寄せた。
幸せな時間は、けれど、あっという間に過ぎ去ってしまう。公園の時計をふと見ると、9時を指そうというところだった。
「そろそろ……帰らなきゃ、かな」
「……」
詩音の顔色がさっと曇った。寂しさのせいだろう、と智也は彼女の肩を抱きながら、歩き出そうとした。
「送っていくからさ。……さ」
「……」
しかし、詩音は動こうとしない。智也がその顔を覗き込もうとすると、再び智也の胸に顔を埋めた。
「……詩音?」
「今夜は……帰りたくありません……」
「えっ……」
智也はその言葉に硬直した。
それって……つまり……そういうこと?
ええっ……でも……それは……。
困惑と動揺と焦燥と……そして期待とで、智也は何も云うことができなかった。我ながら情けない、とは思うのだが、思考がぐるぐると空回りし、詩音の肩を抱いたまま、指一本動かすことができない。
そんな智也の異常に気づいた様子もなく、詩音が言葉を続けた。
「今日は……父が帰ってくるんです」
「あ……そうなんだ」
反射的に答えたことで、金縛りに近い状態が解けた。
しかし、その意味をよく考えると、疑問がどんどん膨らんでくる。
お父さんが帰ってくるなら、外泊なんてなおさらやばいじゃない? ……じゃなくて!
「どうして……? 前は、お父さんが帰ってくるの、あんなに楽しみにしてたじゃないか」
そう、それは智也が初めて詩音の笑顔がこぼれるのを見たときだったかもしれない。久しぶりに帰ってくる父のために手料理を作りたい、そう云って小走りに帰っていった彼女。
それなのに?
智也の疑問に、詩音は間接的に答えた。声がかすれて、風にかき消されそうになる。
「父は……女の人を、連れてくるそうです」
……そういうことか。智也は安堵と失望が半ばするため息をつくと、詩音をベンチに促した。詩音の肩を抱いたまま、並んで腰掛ける。詩音はやはり心細げに、智也に寄り添っていた。
「以前、話してくれた人だね? お父さんと同じ研究所にいたっていう……」
「そうです」
詩音を残して海外に去ったあと、詩音の父は交際中の女性がいることを詩音に告白した。その女性を連れてくるということは……いよいよ再婚に踏み切ることになった、ということだろう。
「詩音……」
「わかっているんです」
智也の言葉を遮り、詩音は叫ぶように云った。
智也を見つめるわけでもなく、蒼白な面持ちで、闇を見据えている。
「理屈では……わかっているんです。父は、男手ひとつで私をここまで育ててくれました。もう一度、幸せになる権利があります。だけど……だけど……!」
嗚咽で、声が震える。
智也はもう一方の手を前から回し、詩音の体を抱きしめた。詩音は震える手で、智也の体にすがりついてくる。
「だけど……私の母は……ひとりだけです……! 私に紅茶を教えてくれて……、髪を、いつも手入れしてくれた……たったひとりの……」
それ以上は言葉にならず、詩音は小鳥のように智也の腕の中で震えつづけた。
智也は彼女の髪を、体を優しく撫でながら、囁いた。
「詩音の気持ちはすごくわかるよ……。自分と、お父さんだけは、お母さんのことをずっと覚えていてあげたい……そう、思うんだろ?」
小さく、詩音が頷く。智也は抱きしめる腕の力を強めた。
「わかる……。俺も……そう、考えていたから……」
「……!」
はっと詩音が顔を上げる。涙に濡れた目で智也を見上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、私……」
智也は黙って首を横に振る。そして詩音の頬の涙を指でぬぐってやりながら、言葉を続けた。
「彩花を失くした痛みを忘れること……それは罪だと思ってた。でも、そうじゃない。そうじゃないんだ……」
「智也さん……」
「そのことを、詩音が教えてくれた。だから今度は、俺が教えるよ。お母さんは、詩音の、そしてお父さんの心の中にいる。忘れたり、失くしてしまったりするものじゃない……。ずっと、いるんだ……」
「私の……中に……」
「そう……」
詩音はまた静かに、智也の腕の中に体を預けてきた。智也もまた強く抱きしめる。まるでひとつの彫像のように、ふたりはその姿勢のまま強く互いを抱いていた。
やがて、瞳を閉じて、詩音が呟いた。
「人が亡くなるというのは……不思議なものですね……」
「……」
「母が亡くなったとき、私は何が起こっているのか、わかりませんでした。葬儀を終え、埋葬を終えても、みんな何してるんだろうって……そんな感覚しかなくて。涙さえ、流さなかったかもしれません」
感情のこもらない声で、詩音は淡々と続ける。智也もただじっと耳を傾けていた。
「だけど……日常の暮らしが戻ってきて……いつものお茶の時間に、私、云ったんです。『お母さん、お茶にしましょう』って」
「……」
「でも、答えはなくて……。そのとき、初めてわかったんです。ああ、お母さんはもういないんだ、って……」
静かに、詩音の瞳から涙が流れる。智也がいくらぬぐっても、その涙は静かに流れ続けた。
「つらくて……つらくて……、形見の品や、思い出を、大事にしました。母はもういないから、だから、大事にしなきゃいけないと。……でも」
自分の胸をそっと押さえて、詩音は微笑む。
「ここに……いるんですね」
「……そうだ」
その微笑を、守りたい。詩音を抱きしめる手にその想いを込めて、智也は云った。
彼もまた、泣いていたかもしれない。
「何も失うものなんてないのさ。たとえ遠くに離れたって、詩音の心には、俺が……」
そこまで云ったとき、詩音がふいに智也の腕を振り払った。驚く智也を、詩音は涙でいっぱいの瞳で強く見つめる。
「嫌です……!」
「詩音……?」
「私は嫌です! そんな……あなただけは……嫌です……! ずっと……ずっと……、そばにいてください……」
「詩音……」
智也は腕を伸ばして、詩音をもう一度抱きしめた。
愛しさが、胸に広がっていく。
そうだ、この笑顔を守るために、俺は……。
「ずっと……そばにいるよ……」
耳元で囁く。詩音は智也がそこにいることを確かめるように、背中に回した手に力を込める。
「約束……ですよ……?」
「ああ……約束だ」
かつて果たせなかった約束を、智也はもう一度口にした。彼女と前へ、歩いていくために。握ったこの手を、離さないで。
「約束だ……」
繰り返し呟いて、智也は詩音に口づけをした。
*
気がつくと、時計は10時を回っていた。
智也は詩音を促して立ち上がらせる。
「さ……帰ろ」
「はい……」
立ち上がったものの、詩音はまだ動けない。うつむいて、智也の服のすそを握っていた。
「一緒に……行ってもらえませんか?」
「え……?」
「そうしたら……きっと、勇気が出せるから……」
うつむいたまま、か細い声で続ける詩音。智也は笑顔で、詩音の手を取った。
「……わかった。じゃあ、一緒に行こう」
「――はい!」
とたんに、詩音は顔を上げて満面の笑顔を見せた。
その笑顔を見つめ返し――、ようやく、智也は自分のやろうとしていることに気づいた。
「え……っと、でも、それって、お父さんに挨拶するってことだよね……?」
それだけではない。近い将来、詩音の母になる人とも。
急に緊張して冷や汗をかいた智也を、詩音は相変わらず笑顔で見上げている。
「はい、そのとおりです」
……はめられたかな? 思わず一歩後ずさりする智也。けれど、その手はしっかり詩音に握られている。
「約束ですよ?」
いたずらっぽく詩音は微笑む。詩音のこんな表情が見られたのならいいか。智也はそう考えて、覚悟を決めて歩き出した。もちろん、詩音と手をつないだままで。
「そうだな、約束だ」
詩音が喜びに頬を染めて寄り添ってくる。
ふたりは手をつないで、前へ歩き出す。これからも、ずっと。
あとがき
詩音シナリオ中盤では、彼女が母親を亡くしていることが、智也との接点なのかな?と思っていました。ところがシナリオが進むにつれてそんな話は全然出てこなくなって、伏線でさえなかったって感じで終わってしまいました。前半、「母の形見」にあれだけこだわっていたのはなんなんだろう?と、正直、思いましたね。
という引っかかりが、この話を作るきっかけでした。
しかし、俺の本命は小夜美ねーさんなんだー!……と云っても、全く信用されない状況になりつつあるような気がする今日この頃(^^ゞ。この暴走はまだ続きます(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。