暖炉の火がぱちぱちとはぜていた。
額にひんやりとした感覚を覚え、智也はうっすらと目を開けた。
誰かが額に乗せたタオルを交換してくれたのだ。
そのひとの長い髪が頬に触れ、くすぐったい感じがする。懐かしい、柑橘系の香り。
「……あや……か……?」
しかし、答えはきっぱりとした、冷ややかな声だった。
「違います」
「あ……」
ようやく意識がはっきりしてくる。智也の前にいるのは、いつも教室で見るときと同じように、硬い表情をした詩音だった。
「ごめん……ここは……?」
上体を起こそうとしたが、力が入らない。智也は首だけを左右に動かしてみた。
見たことのない部屋だった。暖炉のある、洋館風の作りのようだ。
「私の家です」
「え……?」
「三上くんが倒れてしまったので、やむなくここに運びました。三上くんのお家を、私は存じませんから」
智也もやっと思い出した。雨の中、詩音に会い、そこで意識を失ったこと。
同時に、唯笑の言葉、小夜美の涙も思い出す。
智也は暗い物思いを振り払うため頭を振ろうとしたが、激しい頭痛に見舞われて頭を抱えた。
「つっ……」
「すごい熱でした。まだ安静にしているべきです」
頭からずれて落ちたタオルを拾い、もう一度智也の額に当てながら、詩音は云った。
相変わらず表情はなく、口調も淡々としていたが、智也はその手つきにいたわりを感じた。
「すまない……。とんだ迷惑をかけたな……」
「いいえ」
詩音は小さく微笑んだようだった。一瞬、別人のように柔らかい表情になった詩音をもう一度見ようと、智也は首を動かしたが、そのときには詩音は立ち上がって電話のほうに歩いていた。
「ご自宅に、ご連絡しておかないといけませんね」
「……いいんだ、どうせ誰もいない」
「そうなのですか……。では……」
詩音は珍しく、少しためらった様子を見せた。
「今坂さんや……き……霧島さんに……」
彼女らの名を口にすることに、どうして詩音が動揺するのか、智也にはわからなかった。それどころか、そんなことを疑問に思う余裕すらなかった。
智也は目を閉じて、息を吐いた。
「いいんだ」
「でも……」
「いいんだ……誰にも……連絡しないでほしい。頼む……」
「……わかりました」
詩音はそれ以上は理由も聞かず、智也のそばに戻ってきて、椅子に腰掛けた。
智也は目を閉じたままで呟いた。
「もう少し……眠ってもいいか……?」
「そのほうがいいと思います。……おやすみなさい」
詩音の静かな声が、智也の今の心には、たとえようもなく心地よかった。
*
深夜、左手の辺りに重みを感じて、智也は目を覚ました。
視線をそちらに向けると、詩音が椅子に座ったまま、ベッドにもたれて眠っていた。
智也を看病しつつ、そのまま寝てしまったのだろう。
なぜそうまでしてくれるのか疑問に思いながら、智也は詩音を起こさないようにそっと体を起こし、その肩にシーツを掛けた。
再び横になり、暗い天井を見上げる。
静かな夜だった。
雨はかなり小雨になったようで、ほとんど音も聞こえない。
このまま、こうして闇の中でひとり眠り続ければ、もう誰も傷つけることはない……。
そんなことを考えているうちに、智也の意識はまた闇に呑まれていった。
*
雨は夜の間にやみ、翌朝には再び陽光が戻ってきた。
智也は残念そうに目を開ける。
必ず夜は明けて、時は刻まれるのだ。
(歩いていかなきゃ、ダメなんだよ)
唯笑の言葉を思い出して、智也は深いため息をつく。
そこへ、紅茶の香りが近づいてきた。
「お目覚めになりましたか?」
智也が目を向けると、詩音がティーポットとカップをふたつトレイに乗せて、歩いてくるところだった。微笑んで智也を見つめている。その笑顔に、智也は胸が高鳴るのがわかった。
「あ……双海……、おはよう」
「おはようございます。……今度は、間違えませんでしたね」
その言葉の意味に智也は息を呑んだが、詩音はいたずらっぽい笑みを浮かべるだけだった。ベッドの脇の机にトレイを置き、椅子の上のシーツを取る。
「三上くんが、かけてくださったんですね。ありがとうございます」
「いや……俺のほうこそ……」
詩音は椅子に座り、カップに紅茶を注いだ。芳香が部屋中に広がっていく。微笑みつつ、智也のほうにカップを差し出した。
「どうぞ。……起きられますか?」
「あ……ああ、ありがとう」
智也は上半身を起こしながら、カップを受け取った。少し体がだるいが、頭痛もないし、寒気もしない。熱は下がったようだ。
智也はカップに口をつけて一口すすり、目が点になった。
「……うまい」
こんな紅茶は今まで飲んだことがなかった。自分が知っていた紅茶は、いったいなんだったんだろう?
「ありがとうございます」
微笑んで答えつつ、詩音もカップを手に取った。
こんな風に笑顔を絶やさない詩音もまた、智也の知らないことだった。
智也は胸の動悸を押さえながら、詩音に頭を下げた。
「その……ほんとにすまなかった……迷惑かけて」
「いいえ」
「それに……その……失礼なことも……」
「……」
詩音はカップを置くと、智也のほうに向き直った。先ほどまでの笑顔を消し、真剣な眼差しを注いでくる。
「あやかさん……でしたか。その方は、そんなに私に似ているのですか?」
「それは……」
曖昧にごまかすことも、目をそらしてしまうことも、智也にはできなかった。やや気圧されたように、詩音の瞳を見つめ返しながら答えた。
「いや……そんなことはない。ただ、髪の長さと……その……香りが……」
「香り……そうですか」
詩音は暗い面持ちでうつむき、ほう、と深いため息をついた。
「そのあやかさんと……何か、あったのですか?」
「……」
「……ごめんなさい。余計な詮索でしたね」
「いや……そうじゃない……」
智也は視線を窓の外に転じた。眩しい青空が広がっている。彩花は……あの空の向こうにいるのだろうか?
「彩花は……もう……いないんだ」
「え……?」
「いないんだよ……」
初めて自身でその言葉を口にした。智也は詩音の前だというのに、涙を抑えることができなかった。
「俺のせいで……いなくなってしまった……。だから、俺は……動けないんだ……あのときの、あの場所から……ずっと……」
膝を抱えて嗚咽する智也を、詩音はじっと見つめていた。
そうして、一言、呟いた。
「……可哀想なひと……」
「え……?」
涙に濡れた顔を上げて、智也は詩音を見た。
同情されているのかと思った。
しかし、そうではなかった。詩音は険しい顔つきで、智也のことを見据えていた。
「あやかさんが、可哀想です。あなたの弱さを、自分のせいにされて」
「……!」
それは、唯笑に云われた言葉と同じだった。
(意気地がないのを、彩ちゃんのせいにしないでよ!)
償いをしなければいけない。智也はずっとそう思ってきた。
けれど、それは言い訳だったのか。傷つくことを、失うことを恐れるあまり。
そしてそれが小夜美を傷つけ、唯笑を傷つけた。
そのことがはっきりと、智也にもわかった。
――しかし。
たとえ言い訳であっても、彩花を忘れたくない、その想いもまた真実なのだ。そんな気持ちを抱えたまま、誰かを愛することができるのだろうか?
涙さえ涸らし、虚ろに空を見つめる智也。その手を、詩音の手がそっと包んだ。
振り向くと、詩音が目に涙を浮かべていた。
「そばにいる人を……大切にしてください」
「双海……」
「霧島さんも……今坂さんも……、音羽さん、稲穂さん、伊吹さん、……私だって……、みんな、あなたを大切に想っているんです。どうか……そのことを忘れないで……」
「……」
智也の頬を、もう一度涙が伝った。
本当に大切なものがなんなのか。このとき、智也はようやくわかったような気がした。
けれどそれは……遅すぎたのかもしれない……。
*
「ねえ、もういっぺん乗ろうよ、もういっぺん」
「ええっ……もう3回も乗ったじゃないか……」
「小夜美、もういっぺん乗りたいの! 乗る乗る!」
渋る智也の腕を取って、小夜美はジェットコースターの順番待ちの列に四度並んだ。
並んでいる間も、ずっと小夜美は笑顔のままでしゃべり続けていた。ちょっと珍しいぐらい大はしゃぎしている。
そんな様子の小夜美に、智也はなかなか云うべきことを云い出せなかった。
詩音の家を出て自宅に帰ると、小夜美が玄関に座り込んでいた。
智也が茫然としていると、小夜美は憔悴した顔を上げて、微笑んだ。
「あ、お帰り」
「お帰りって……どうしたんだよ、小夜美?」
立ち上がろうとする小夜美に手を貸す。その体は、冷たく冷え切っていた。昨日、大学で見たときと同じ服を着ている。
「えへへ。こんなところで座り込んでたら、みっともないね。ごめんごめん」
「まさか……夕べから……?」
智也の問いかけに、小夜美は目をそらして答えなかった。伸びをして、体をほぐすようなポーズを取る。
「とにかく、中に入れよ。体、あっためなきゃ」
「ううん、いいの。それよりさ、遊園地行かない?」
「……遊園地?」
「そ。最初のデートで行ったマリンパーク。また行きたくなっちゃったんだ。いいでしょ?」
「いいけど……あ、でも、今日は……」
月曜日。平日だった。
「一日ぐらい学校サボっても平気だよ。今日はおねーさんが許可してあげる」
その強引さにはとても逆らえそうになかった。智也自身も、小夜美と早く色々なことを話したいと思っていたので、その誘いに乗ることにした。
そして、今、ふたりはマリンパークに来ている。平日で人手が少ないのを幸い、アトラクションを次々やっつけていく小夜美。智也は落ち着いて話す時間がとれないことに苛立つ反面、久しぶりのふたりきりの時間に自ら水を差すようなことはしたくない、という想いも感じていた。
もしかしたら、このまま何事もなかったように、またうまくやっていけるのではないか……そんな都合のいい想像をしてしまうほどに。
結局、夕日が西の空を焦がすのを眺めながらマリンパークを出るときまで、智也は大切なことは何も云えなかった。
「すっごい楽しかったね」
小夜美が変わらず笑顔のままで、智也に話しかける。
智也も笑顔で頷いた。
「そうだな」
微笑むと、小夜美は少し早足になって智也の前へ出た。
その後ろ姿が、なぜだか急に、智也には淋しげに見えた。
「……小夜美?」
「楽しかったあ……」
茜色の空を見上げて、小夜美がもう一度呟いた。
智也は意を決して、話し始めた。
「小夜美……夕べは……」
しかし。
「いいの」
「え……?」
「もう……いいんだよ」
智也に背を向けたままで、小夜美は静かに云った。
その声の響きに、智也は思わず足を止めてしまった。小夜美はそのまま数歩歩き、軽く振り向いた。
「これが……最後のデートだね」
かすかに微笑んでそう云った彼女の瞳には、涙の雫が浮かんでいるように見えた。
智也は、何かを云おうとした。云わなければならなかった。
しかし、実際には石と化したように動くことも、話すこともできなかった。
小夜美は二度と振り返らず、ゆっくりと歩いていった。
その姿が人波に飲まれて消えてしまったとき、ようやく智也の呪縛は解けた。
走り出そうとして、足がもつれて倒れてしまう。
地面にはいつくばったまま、智也は声を放って泣いた。
色も、音も、世界からすべての意味が消え失せていった。