5
「退院……?」
医師から聞かされたその思いがけない言葉に、智也はつい怪訝そうな表情を作ってしまった。
本来、喜ぶべき話題のはずだ。しかしそれを正直に受け取るには、みなもの担当医の様子はあまりに沈痛だったし、毎日そばにいる智也の目から見ても、まだみなもが病院から出られる状態だとは思えなかった。
「どういう……ことなんですか?」
答えを予想して、智也の背を冷たいものが走った。
病院の入り口で彼と会い、話がある、と呼ばれたときから、嫌な予感がしていたのだ。
医師は軽く頭を振りつつ、重いため息をついた。
「もう、病院で苦しい思いをする必要はない……そういうことだよ」
「だから、それはどういう……!」
思わず立ち上がり、声を荒げてしまう智也。だが静かに見つめ返され、力無く椅子に座り直した。
「……すみません」
「いや……謝らなければいけないのは、こちらのほうだ。本当に申し訳ない」
「……」
「しかし……もう、これ以上は……」
唇を噛んで、医師は沈黙した。
智也は目の前が急に暗くなっていくのを感じた。
いつの間に廊下に出たのかも、覚えていなかった。一歩歩くことに、信じられないほど力が必要になる。智也はよろめいて、壁に手をついた。
「どうして……こんな……!」
泣き崩れそうになる。けれど、智也は耐えた。
みなもの気持ちを考えれば、二度と、こんなところでくじけてはいられなかった。
(彼女と生きていくためでしょう?)
小夜美の言葉を思い出す。
そう、何があっても諦めないみなものために、智也ができること、それは――。
智也は頷くと、公衆電話を探した。
*
智也が病室に戻ったとき、みなもはベッドで上体を起こしていた。智也のほうに振り向き、いつもと同じ笑顔を向ける。けれど目がほんの少し、赤かった
「智也さん! わたし、退院できるんだって」
「――ああ、俺も聞いたよ。よかったな、みなも」
「うん!」
みなも自身、その意味はわかっていたはずだった。しかしそれでもみなもは笑顔を崩さなかったし、智也も穏やかに笑顔を返した。
「すぐには学校には行けないけど、お家なら、智也さんともっともっと一緒にいられるよね。そうだ、家に泊まれるよう、お母さんにお願いしてみる! それでね、……」
「――みなも」
はしゃいだ風にしゃべり続けるみなもを、智也は静かに遮った。そして、優しく微笑みながら、云った。
「旅行、行こうか」
「……え……」
驚き、戸惑い、不安、様々な感情が一瞬のうちにみなもの表情を駆け抜けた。しかし、最後はやはり、喜びに満ちた笑顔だった。
「ほんと? ほんとに智也さん、連れてってくれるの?」
「ああ」
「いつ?」
「今すぐだ」
「今……すぐ……?」
「そうだ」
云いながら、智也はみなもを抱き上げた。驚くみなもに笑顔で言葉を続ける。
「嫌だと云っても、さらっていく」
「智也さん……」
見開いたみなもの目から、涙があふれた。智也の首に腕を回し、みなもはきつく抱きしめた。
「うん……行こう、智也さん。連れてって……一緒に……」
「ああ……ずっと……一緒だ……」
6
カーテンを開けると、蒼い海が広がっていた。西に傾いた太陽の光を受け、海面がきらきらと光っている。もうしばらくすれば、夕焼けの色に染まるはずだった。
「わぁ……海だ、海が見えるよ、智也さん」
みなもは智也に振り返り、満面の笑みを浮かべた。
智也も笑顔でみなもの隣に立ち、その肩を抱いた。
「いいとこだろ?」
「うんっ! 智也さん、すごいね。こんな素敵なペンション、知ってるなんて」
「みなもと一緒に行こうと思って調べたからな」
「……」
すでに喜びを表現する言葉もないように、みなもは黙って智也の胸に寄り添った。智也はみなもの体をそっと抱きしめた。
ふたりは海の近くのペンションにいた。
シーズンオフなので、ほかに宿泊客はいない。そもそも冬は営業していなかったのだが、智也が頼み込んで泊めてもらった。いかにも訳ありそうなふたりを見て、しかし初老のオーナーは何も云わずに部屋を用意してくれた。
「今日はもう冷えてきたから……明日、海に行ってみようか」
「うん」
みなもが頷いたとき、部屋のドアがノックされた。智也が返事をすると、ドアを開けてオーナーが顔を出した。
「食事は7時でいいかね」
「え……」
無理を云って開けてもらったので、泊めてくれるだけで構わないと云っておいたはずだった。それに、みなもはもう十分食事を取ることもできない状態だった。
「いえ、食事は……」
「せっかくそんな可愛い子と旅行に来て、食事がコンビニ弁当では台無しじゃろ」
オーナーが人のいい笑顔を見せる。その言葉にみなもも小さく微笑んだ。
「ここに来てくれた人には、いい思い出だけを持って帰ってほしい。遠慮せんでええ」
「……智也さん」
みなもが智也の顔を見上げる。智也も笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。いただきます」
オーナーは何度も頷きながらドアを閉めた。
みなもはもう涙ぐんでいた。
「……いい人だね」
「そうだな」
「みんな……みんな、みなもによくしてくれる……なのに……」
「え?」
「……ううん、何でもない。ご飯、楽しみだね」
笑顔の一瞬前に浮かべた憂い。それに気づいていたが、智也は無理に聞き出そうとはしなかった。
「飯の時間まで、絵、描いててもいいかな? もう少しで完成なんだ」
「ほんと? 楽しみっ」
みなもがベッドに腰掛ける。智也はキャンバスを取り出し、みなもを見つめながら絵を描き始めた。
窓から差し込む光が、みなもの髪を金色に縁取った。
*
夕食はフランス料理を中心としたコースだった。
みなもは小食ではあったが、ここ最近ではなかったぐらい食が進んだ。智也はオーナーに「今日は特別だ」とワインを勧められ、赤い顔をしていた。
終始、誰もが笑顔のままで、時は過ぎた。
部屋に戻ると、智也はベッドに体を投げ出して大きく息を吐いた。
「はーっ、食った食った」
「智也さん、食べ過ぎ。みなもの分まで食べちゃうんだもん」
「だって、すごいうまかったじゃん」
「それはそうだけど」
笑いながら、みなもはまた窓のそばに立った。月光を照り返す、暗い海を見つめる。
「……夜の海だよ、智也さん」
「……うん?」
静かな物言いにふと不安を感じ、智也は起きあがった。みなものそばまで歩き、昼と同じように肩を抱く。みなもも同じように寄り添ってきた。
「夜の海。また一緒に、見られたね」
「そうだな……」
あの夜のことを思い出すと、智也は胸が激しく痛んだ。
あんな無茶をさせなければ、みなもの容態は悪くならなかったかもしれない。
繰り言だと、わかっていたけれど。
智也は背中からみなもを抱きしめた。壊れないように優しく。どこにも行かないように強く。
みなもは静かに目を閉じた。
「お母さんたち、心配してるかな」
「そうだな……」
手紙は、残してきていた。「智也さんと一緒に行きます」そう一言だけ。
「だけど、きっとわかってくれるよ」
みなもは目を開いて、智也を見上げた。智也は微笑みつつ、少し悲しげな顔をした。
「ああ……。だけど俺は……ひどい奴だな……」
「どうして……?」
不安を面に出して、みなもが智也にすがりつく。智也は安心させるように、みなもの頬を手で包んだ。
「みなものお父さんもお母さんも……唯笑たちも……みなもを愛しているすべての人たちから、俺はみなもを奪ってきた……。俺が、片時も……みなもと離れたくなかったから……」
「智也さん……」
みなもの瞳から流れた涙が、智也の指を濡らした。
みなもは大きくかぶりを振った。
「違うよ、智也さん。わたしが望んだの。智也さんと一緒にいたいって。智也さんは、わたしの願いを叶えてくれただけ」
「みなも……」
「嬉しかったよ。幸せだった。こんなに幸せで……なのに……」
「みなも……?」
みなもは泣き崩れていた。
これまで、みなもは嬉しいときにだけ泣いた。どんなに悲しいときでもつらいときでも笑顔を見せた。
けれど今夜だけは、あふれる想いを止められなかった。
「みなもは……何も残せない……! 智也さんも……お父さんもお母さんも……唯笑ちゃんたちも……みんなみんな、とっても優しくしてくれるのに……、みなもを……幸せにしてくれるのに……。みなもは……智也さんたちの心に、悲しみを残していくだけ……。そんなの……そんなのって……」
智也の胸に、涙のしみが広がった。
智也はみなもの髪を慈しむように何度も何度も撫でながら、囁いた。
「みなも……云ってくれたよな。俺といた1カ月が、いちばん幸せだったって……」
「うん……」
「俺も……同じだ」
みなもがゆっくりと面を上げた。瞳からは、涙がこぼれ続ける。
智也はその涙をぬぐい、髪を撫で続けた。俺は、ここにいる。そのことを伝えようとするように。
「みなもがくれたのは、笑顔と幸せだ。それだけだ」
「智也さん……」
みなもの涙は止まらなかった。けれど、そこにあるのは笑顔だけだった。
智也がみなもに口づける。長く、優しく。
誓いのキスだった。
7
目蓋を開けると、智也と目が合った。
微笑んで見つめているその視線に、幸せと、そしてやはり恥ずかしさを覚えて、みなもは布団で顔を隠した。
「おはよ」
「……おはよう、智也さん。見てたの?」
「ああ」
「起こしてくれればよかったのに」
「あんまり寝顔が可愛かったからな」
「もう……意地悪」
すっかり布団の中に潜ってしまったみなも。智也は笑いながら、布団ごとみなもを抱きしめた。
「今日もいい天気だよ。飯食ったら、海に行こうか」
「……うん!」
布団から顔を出して、みなもは頷いた。
窓から差し込む日差しと同じぐらい、暖かな笑顔だった。
*
海岸線を、ふたりはゆっくりと歩いていた。
時折吹き抜ける北風からみなもを守るように、智也はその肩を抱いていた。みなももぴったりと智也に寄り添っていた。
「寒くないか?」
「うん……平気」
そんなやりとりのあと、ふたりはまた黙って歩く。ただふたりでいられればよかった。
キャンバスの入った大きなバッグを、智也は肩に提げていた。もう少しで絵は完成する。その仕上げをこの海でするつもりだった。
「この辺でいいかな」
「うん」
「疲れるなら、座っててもいいよ」
「ううん……平気だよ」
惜しそうに智也はみなもの肩から手を外し、数歩下がった場所に座った。キャンバスを取り出し、絵の準備を始める。みなもは微笑みながらその様子を見ていた。
やがて智也が顔を上げ、絵を描き始めた。
みなもは笑顔のまま、モデルを務め続ける。
冬の海を背景に立つその姿はとても愛らしく――、夢のように、美しかった。
時々、とりとめのない会話を交わす。みなもは波打ち際に入って水の冷たさに歓声を上げたり、砂で子供のように山を作ったりしていた。
ただ笑顔だけが、ふたりの間にあった。
やがて陽が西に沈みかけた頃。砂浜に腰掛けて、赤い夕日をじっと見つめていたみなもの横顔に、智也が声をかけた。
「……できたよ」
「ほんと?」
みなもは弾かれたように立ち上がり、智也のもとへ駆け寄ってきた。これまでずっと秘密にされていた絵だ。完成の時をみなもは心待ちにしていた。
智也の隣に座り、みなもはキャンバスを覗き込んだ。そして――小さく、息を飲んだ。
そこには、笑顔のみなもがいた。太陽のように暖かく、優しく、愛しいひとを包み込む笑顔で。
みなもの瞳から、涙がこぼれた。
「これが……わたし……?」
「ああ」
「わたし……こんな風に笑ってた……? 智也さんの前で……こんな風に……笑えてた……?」
「ああ。いつもみなもは、こうして笑ってくれてた。どんなときも……」
「智也さん……」
みなもは智也の肩に頭を乗せ、泣き続けた。その面はやはり、笑顔のままで。
「嬉しい……ありがとう、智也さん……」
「……」
「智也さん……わたし……智也さんに逢えて……よかった……。智也さんに逢えて……ほんとにほんとに……幸せだったよ……」
「……ああ」
「ほんとに……しあわせ……」
「ああ。俺だってそうさ。みなもに逢えて……みなもを愛して……よかった……」
「……ありがと……」
みなもの目がゆっくりと閉じられてゆく。
智也はみなもの肩に手を回して、その体を支えた。
「……眠ったのかい、みなも?」
「……」
智也の頬にも、涙が一雫、伝った。
epilogue
智也は自分の部屋のベッドに腰掛け、壁にかけた絵を見ていた。
智也とみなもが、微笑んでいる。
みなもが描いてくれた智也の絵と、智也が描いたみなもの絵。そのふたつが並んでかけられていた。
その笑顔はどうやっても悲しみとは結びつかなかった。だから智也は、小さく笑みを浮かべたままその絵を見つめていた。
そのとき、ノックの音に続いて、ドアが開いた。
「どうしたの?」
「ああ、悪い。……すぐ行くよ」
智也は立ち上がって、ドアへ向かった。
部屋を出る前に、もう一度振り返って絵に笑いかける。
そして、静かにドアを閉めた。
あとがき
「Eternity」じゃなくて「Eternally」です。ヒッキーですね。
タイトルから、彩花ものを想像された方、ごめんなさいm(__)m。
みなもシナリオの不満点を上げるとすれば、やはり智也が不甲斐ないことでしょう。もちろん、気持ちはわかります。自分が同じ状況になったら、たぶん壊れると思う。
だけどそれでも、あれじゃみなもが可哀想だと思うのです。やっぱ智也にはみなもを迎えに行ってほしかった。というのが、このお話を作った発端です。
しかし、今度もまた自分の力不足を思い知る結果となりました(T_T)。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。