1
その電話が鳴ったのは、かおるがちょうど帰宅したときだった。
土曜日の夕方。智也とのデートのあとで、かおるは今日も上機嫌だった。
「あ、私、出るよ」
キッチンから振り返った母にそう答えて、かおるは受話器を取った。
「はい、音羽です。……はい、かおるは私ですけど……、……え……」
聞き覚えのあるその声に、かおるは絶句した。ほんの少し、顔が青ざめる。
「どうしたの? ……え、明日? 明日は……」
明日も、午後から智也とデートの約束をしていた。かおるは唇を噛んで少し考えたあと、頷いた。
「午前中、少しなら時間あるけど……でも、どうして? ……うん、わかった。じゃあ10時に……はい……」
受話器を下ろして、かおるは小さくため息をついた。母が再びキッチンから振り返る。
「なんだったの?」
「あ、ううん、友達」
「そう」
「うん。……着替えてくるね」
笑顔を作り、かおるは鞄を取って自分の部屋に向かった。
机の上に鞄を置き、制服のままベッドに横になる。ぼんやりと天井を見上げた。
電話の相手は、結城大介。かおるの昔の恋人だった。
「話って……なんだろ」
やっぱり行かないと答えるべきだっただろうか。もう話したいことはすべて話したはずだ。
かおるは首を横に向けた。電話の子機が、目に入った。
ベッドに横になったまま手を伸ばし、子機を取る。智也の家の電話番号を途中まで押して、やめた。
子機を胸に抱いて、かおるはまたため息をついた。
智也に知らせておくべきだろうか。それとも……。
「ご飯よー」
母の呼ぶ声が、かおるの思考を中断させた。かおるは頭を振りつつ立ち上がった。
「はーい」
手早く着替えをすませ、部屋を出ようとする。ベッドの上に置かれたままの子機を振り返りつつ、ドアを閉めた。
2
待ち合わせた喫茶店に、すでに大介は来ていた。かおるの姿を見つけて、笑顔で手を振る。かおるは少し戸惑い気味に笑顔を返しながら、大介の向かいの席に座った。
「久しぶり」
「……お久しぶり」
ぎこちない挨拶を交わす。オーダーを伝え、それぞれの珈琲が運ばれてくるまで、特に会話らしい会話はなかった。
かおるが珈琲に口をつけるのを待って、大介は話し始めた。
「すまなかったな。急に呼び出したりして」
「ううん。……でも、なんなの、話って?」
大介はためらいがちに一瞬視線を泳がせたが、すぐにまっすぐかおるを見つめた。
その瞳の真剣さに、かおるはどきっとした。
「僕たち……やり直せないかな」
「な……っ」
かおるは目を見開いて、言葉を失った。
大介は真剣な眼差しをじっと注いでいる。思わずかおるのほうから目をそらしてしまった。
「何云ってるの? 私たち、ちゃんと納得して別れたじゃない」
「人と別れるのに、納得なんかできるのかい? ましてや愛してる人と……」
「――やめて」
目を閉じて、ついきつい口調でかおるは云ってしまった。
珈琲で喉を湿らせようとしたが、手が震えてうまくカップが持てない。やむを得ずかおるは両手を膝の上に下ろし、激しくもみ合わせた。
「それに、今の私には……」
「わかってる」
かおるの言葉を、大介が遮った。かおるが顔を上げると、大介は変わらず真剣な眼差しを向けていた。
「それでも、僕はかおるとやり直したい。僕にはかおるが必要なんだ」
「大介さん……」
途方に暮れて、かおるは小さくため息をついた。
そのかおるの姿に、大介は悲しげに目を伏せた。
「今更、こんなことを云って迷惑なのはわかってる。すまない」
「……」
「だけど、今更……本当に今更だけど、気づいたんだ。僕は、かおるをかけがえのないものだと思っていることに。今度こそ、つまらない意地や言い訳で、自分の気持ちをごまかしたくない」
「大介……さん……」
このひとにこんな情熱的なところがあったのだろうか。かおるは半ば茫然としながら、大介の言葉を聞いていた。
「かおるが僕から去ったあと……僕にはもう夢しかないと思っていた。だから、必死で打ち込んできた。だけど……違ったんだ」
「違った……?」
「そう……僕だけの夢じゃない……かおると見た夢だから、僕は走ってこれた……。それが僕とかおるをつなぐ絆だって……そう思えたから……」
「……絆……」
その言葉に、なぜかひどくかおるは動揺した。
ふいにうなだれたかおるを気遣って大介が声をかけてくるが、それはもう彼女の耳には届いていなかった。ただ「絆」という言葉だけが、かおるの心でリフレインしていた。
3
結局、はっきりした答えを告げられないまま、かおるは大介と別れた。
そんな自分が、かおるは心底嫌いだった。
智也を想う気持ちに嘘があるはずがない。冷たい云い方もしれないけれど、大介とよりを戻す気はまるでなかった。
そう、はっきり云うべきだったのだ。
それなのに。
絆。
その一言が、かおるの心に不安の影を広げていた。
「悪い悪い、また遅れちまった」
その声に顔を上げると、走ってきたのだろう、息を切らして立つ智也がいた。
かおるは迷子が親に会ったときのように、一瞬泣き出しそうな笑顔を浮かべたが、すぐにふくれっ面を無理矢理作った。
「もうっ、また遅刻? こっちはお腹ぺこぺこなんだからね」
「……へっ? 飯、食ってこなかったの?」
「……あ……」
そう、智也との待ち合わせは1時だった。食事はすませてから来ると考えても不思議ではない。
「あの……用事があって、朝から出かけてたから」
「ふーん、そっか。ちょうどいいや。俺も朝から何も食ってないんだ」
「どうせ、ついさっき起きたんでしょ?」
「細かいことは気にしない。何食おっか」
かおるの云った「用事」をさほど気に止めた様子もなく、智也は笑いながら云った。
かおるは密かに胸をなで下ろしていた。
すっかりけじめをつけたつもりでいた昔の恋人にあんなことを云われ、変に動揺してしまっただけなのだろう。今夜にでも電話してちゃんと断らなきゃ。
そう考えて、かおるは正体のわからない不安を、気のせいで片づけようとしたのだが――。
「あ、ちょっと本屋寄っていいかな」
「うん、いいよ」
本屋の前を通りがかったとき、智也が思い出したように云った。
かおるも軽い気持ちで頷き、智也のあとに続いて本屋に入った。しかし、新刊コミックコーナーに智也が立ち、あるコミックの新刊を手に取ったとき、心臓が大きく、跳ねた。
「それ……まだ読んでたんだ」
「ああ……やっぱりどうしても続きが気になってな」
照れ笑いを浮かべる智也。それは以前、智也がかおるに買うところを見られた少女コミックの続刊だった。
智也はまたかおるに冷やかされることを予想していたが、かおるにはそんな余裕はなかった。青ざめた顔で、智也の手元を見つめている。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「……う、ううん、なんでもない」
笑顔を作り、かおるは首を振った。智也は不審そうにかおるの顔を覗き込んだが、またすぐに屈託のない笑顔を浮かべて、かおるにその本を差し出した。
「……え?」
「悪い。買ってきてくれないか?」
「私……が……?」
「やっぱ恥ずかしいからさ。頼むよ」
「……うん、わかった……」
智也からコミックを受け取り、かおるはレジに並んだ。
勘定をすませたとき、智也はもう店の外に出ていた。入り口の前で立っていた智也に、かおるは包装されたコミックを渡した。
「サンキュ。お礼に昼飯はおごるよ。何がいい?」
「……」
「かおる?」
沈黙しているかおるの顔を、再び智也が背をかがめて覗き込んだ。智也の息づかいを身近に感じて、かおるは思わず半歩後ずさった。
「……あ、ご、ごめん。なんの話だっけ」
「だから飯食おうって。……やっぱり具合悪いのか? 変だぞ?」
智也が真剣な顔になって、首を傾げた。
本気で自分を案じてくれているのがわかったから、かおるは嬉しかった。だから――もう、笑顔を作れそうになかった。
「……うん、なんか調子悪いみたい。今日は、帰るね。ごめん」
「そっか。しょうがないな。じゃあ、送ってくよ」
「ううん、平気平気。ひとりで帰れるよ」
云いながら、かおるは智也に背を向けた。
涙が出そうだった。
このまま一緒にいれば、このわけのわからない不安を智也にぶつけてしまいそうで、怖かった。
「……かおる?」
智也がかおるの肩にそっと手を置く。
かおるはびくっと体を震わせると、
「……ごめんね」
一言呟いて、走り去った。
智也は茫然とその後ろ姿を見送った。
4
自分の部屋に帰ると、かおるはベッドに体を投げ出した。
天井を見つめていると、涙があふれてくる。
あのとき。智也にコミックを渡したとき。
どうしようもなく、悲しく、惨めな気分に襲われた。
昔、同じような光景があったはずだ。
照れる智也に、少女コミックを渡す少女。
その誰かの代わりを演じているようで、かおるは悲しかった。
錯覚だと、わかっていたけれど。
智也の気持ちを、疑いはしなかったけれど。
それでも胸の痛みは去らず、かおるは涙を流し続けた。
*
智也はかおると待ち合わせた場所まで戻り、かおるが座っていたベンチにぼんやりと腰掛けていた。
かおるの体調が本当に悪かったのだ、とはさすがに智也も考えていない。何か悩んでいたのだろうとは思う。しかしその原因がどこにあるのかは、全く想像できなかった。
頬杖をついて智也はため息をつく。そこへ、偶然、唯笑が通りかかった。
「あれえ、智ちゃん?」
「……唯笑」
「どうしたの、こんなとこにひとりで?」
ずっと見慣れてきた笑顔を、唯笑は浮かべる。
かおるとつきあい始めたことで、唯笑との関係も変化していくことを智也は覚悟した。しかし実際には、唯笑の態度は以前と何も変わらなかった。
「待ち合わせ?」
「いや……置いていかれたところだ」
「置いていかれたぁ? なぁに、それ。ケンカでもしたの?」
半ばあきれ顔、半ば心配顔で、唯笑は智也の隣に腰を下ろした。
智也はまた小さくため息をついた。
「ケンカは……してないと思うんだけどな」
「ほえ?」
「よくわからないんだよ。唯笑はどう思う?
智也は今日、かおるに逢ってからの短い出来事を唯笑に話して聞かせた。
唯笑はやや硬い表情でその話を聞いていたが、智也が話し終わると、人差し指をびしっと智也の顔に突きつけた。
「智ちゃんが悪いね」
「……な、なにが?」
「もう、鈍感なのもそこまで行くと、無神経だよ? 音羽さん、かわいそ」
「だから、なにが……」
目を白黒させるだけの智也に対して、唯笑は大げさにため息をついた。智也に向き直り、やや怒気を含ませた声で続けた。
「そのマンガ読み始めたの、彩ちゃんに借りたのがきっかけなんでしょ?」
「……あ……」
「そのことは、音羽さんも知ってるんだよね? それなのに、買ってきてくれ、だなんて……」
「……」
智也は茫然と、手に持ったコミックを見つめた。
以前聞いた、かおるの言葉を思い出す。
(どこにいても、その人は智也とつながってるんだもん)
(私には……そんなものないから……)
「……わかった?」
唯笑が智也の横顔を窺いながら訊いた。智也は頷きつつも、やや要領を得ない顔をしていた。
「わかるけど……でも、俺はなにもそんな……。ぶっちゃけた云い方をすれば、単に俺が読みたくて買ってるだけなんだけどな……」
かおるがそんなことを気にしていたなんて、智也には正直、意外だった。
唯笑は再びあきれた様子でため息をついた。
「音羽さんは女の子だもん。気にしなかったら嘘だよ」
「そういうもんか……」
天を仰いで、智也は嘆息した。とてつもなく難解な問題のように、智也には思えた。
「だったら、どうすればいいんだろう? もう、読むのをやめればいいのかな?」
「そういうことじゃなくって」
「違うのか?」
「……もう。智ちゃんらしいと云えばらしいんだけどね」
唯笑は小さく微笑んだ。なぜだかそれはひどく寂しげだった。
「優しくしてあげなよってこと」
「……?」
「女の子だもん。ちょっとしたことで、ものすごーく不安になったりするときもあるんだよ。そういうときこそ、好きなひとが支えてあげなくちゃ。ね」
「……」
智也は神妙な顔つきで頷いて、考え込んだ。
その様子を微笑んだまま見つめていた唯笑は、小さな声で呟いた。
「ついでに云っちゃうと、そういう話を唯笑に相談するのも、無神経だよね」
「……え?」
「唯笑だって……女の子だもん」
その小さなつぶやきに胸を突かれ、智也は唯笑を見つめた。
唯笑は穏やかに、はかなげに微笑んでいた。
その笑顔を、智也は知っていた。彩花のことを振りきって、かおるを選ぼうとしたとき、智也の背を押してくれた笑顔。
「あ……ごめ……」
傷つけた、と今度は智也にもわかった。智也は狼狽しつつ謝ろうとしたが、唯笑はすぐいつもと同じ笑顔を浮かべてくれた。
「うそうそ。今のは、唯笑が訊いたんだもんね。ずるい云い方しちゃった」
「唯笑……」
「それに智ちゃんとは、なんでも話せる友達でいたいよ。いちばんの親友……せめて……」
「……唯笑……」
「えへへ。――あ、いっけない、唯笑、みなもちゃんと約束してたんだったっ。どうしよう、大遅刻だよぉ」
慌てて立ち上がると同時に、唯笑はもう走り出していた。
「じゃあね、智ちゃん」
「……あ、唯笑」
「ほえ? なに?」
立ち止まり、振り返る唯笑。
智也は言葉を探したが、ほかに適当なものが見つからなかった。
「その……ありがとな」
唯笑は満面の笑みを浮かべる。智也に大きく手を振った。
「ううん。頑張ってね、智ちゃん」
「ああ」
唯笑に手を振り返しながら、智也は考えた。
唯笑にさえ、――物心ついたときからずっとそばにいた唯笑にさえ、智也の知らない痛みがある。
そしてそれは、かおるも同じはずだった。
人の心は、知ることができない。どんな痛みも、本当に理解することはできない。だから。
(優しくしてあげなよ……か)
智也は空を見上げ、最後にもう一度、深く息を吐いた。
5
翌日。校舎の屋上へとつながる扉を、智也は押し開いた。
そこにはやはり、フェンス越しに遠くを見つめるかおるがいた。
「……かおる」
「……あ、智也。昨日はごめんね。今朝も。ちょっとまだ調子悪くて」
初めて逢った頃のような笑顔を、かおるは浮かべた。
かおるは朝、駅にいなかった。唯笑とぎりぎりまで待っていたが現れず、やむを得ず学校に行っても来ていなかった。
結局、ホームルームが始まる直前に駆け込んできたかおると、智也は今、昼休みになるまで、ほとんど話す機会がなかったのだ。
「……」
智也は黙って、かおるの隣に座った。
かおるは智也の横顔をちらっと見たあと、またフェンスの向こうに視線を泳がせた。
智也とつきあいだしてから、かおるがそんな風に遠くを見ることはなくなっていた。そのことに気づいて、智也は理由もなく苛立ちを覚えた。
「その……かおる……」
「え……なに?」
「昨日は……その……ごめん」
「……」
一瞬、かおるの顔が歪む。しかし、すぐにまた笑顔を作った。
「な、なに? いきなり謝ったりして。悪いのは私でしょ?」
「違うだろ」
真剣な表情で見つめられ、かおるの演技は脆くも破綻した。
かろうじて涙はこらえ、唇を噛んでうつむく。小さく震える肩を、痛ましそうに智也は見ていた。
「違わないよ……。やっぱり……私が悪いの……」
絞り出すような声。できるだけ智也は優しく囁くよう努めた。
「どうして……?」
「だって……変でしょ、そんなつまんないことにこだわって……。そこまで智也を縛る権利は、私にはないよ……」
「……よせよ、そういう云い方」
「ごめん……。ほんと、変だね、私。なにがこんなに不安なのか……自分でもわからないんだ……」
「……」
「ごめんね……」
小さな声で詫びの言葉を繰り返すかおる。その手を、智也はそっと握った。
正直なところ、かおるの不安の正体は智也にもわかっていなかった。しかし、自分自身がかおるを不安にさせているのだ、ということだけはわかった。
その不安を取り除くためなら、どんなことでもしたかった。
かおるが面を上げて智也を見る。その瞳はこらえていた涙でいっぱいだった。
「そばにいるじゃないか」
「……」
「俺が……そばにいるよ」
かおるは微笑んだ。本当に、嬉しかった。
しかし、智也が笑い返そうとしたときには、その表情はよりいっそう深い悲嘆に彩られていた。
智也の言葉が、かおるの不安の理由を、明らかにした。
「じゃあ……離れ離れになってしまったら……どうなるの……?」
「え……?」
「双海さんほどじゃないけど、うちの親も転勤多いんだよ。この町に来たのだって、突然の話だったし……。ずっとここにいられる保証なんて……ないの……」
「……」
「そばにいなくなったら……やっぱり……忘れていくの……?」
「そんなこと……!」
思わず智也は立ち上がっていた。
そんなこと、あるわけがない。本心から、そう思った。
けれど、かおるは……そうは思わないのだろうか? どうして?
そのとき、智也はかおるの言葉を再度思い出した。
(私には……そんなものないから……)
ふたりを結びつける絆。どこにいても心がつながっている証。
かおるがほしがっていたのは、そんなものだったのだろうか?
だったら俺は……なにをかおるにあげられるだろう?
そう考えたが、智也にはうまい答えが見つけられなかった。ただ奇妙な違和感が、しこりのようにあった。
6
その夜。智也は自室のベッドで寝転がっていた。
ふと机のほうに手を伸ばし、そこに置いてあった例の少女コミックを取る。ぱらぱらとページをめくり、ふうとため息をついて開いたまま顔に乗せた。
「絆……か」
なぜかおるがそんなにこだわるのか、ようやく智也にもわかりかけていた。
転校が多かったかおるは、誰とでもすぐ仲良くなる術を身につけた。けれど、それはどうしても浅いつきあいになりがちだ。恋人さえ、誤解を解くこともできないまま気持ちが離れてしまった。
だから、何か形として信じられるものがほしい。そう思うのだろう。
だけど――、と、智也は考える。
かおるがほしいのは、本当にそんなことなんだろうか?
*
同じ頃。かおるもまた自分の部屋のベッドで横になっていた。
後悔と自己嫌悪で、食事も喉を通らない。もう涙も出なかった。
「こんなの……私らしくないよ」
呟いて、目を閉じる。
智也は精一杯優しくしてくれたのに。それさえ素直に受け入れることができなかった。
こんなことで智也を失ってしまうなんて、考えたくもなかった。
もう、やめよう。明日からは、何事もなかったように笑おう。意味のない不安で、今日を壊してしまいたくない。
だけど――と、かおるは考えてしまう。
何事もなかったように笑顔を作る……それは、本当に私らしいことなんだろうか?
7
翌朝、少し早めにかおるは家を出た。今日は、駅で智也を待つつもりだった。
いつもと同じように笑えるかどうかは、まだ自信がなかった。
けれどそばにいれば、きっと元通りのふたりになれる。そう信じたかった。
足早にかおるは駅への道を急ぐ。しかし、駅で待っていたのは、彼のほうだった。
「……智也?」
「よ。おはよ」
「おはよ……って、どうして?」
あくびをかみ殺しながら挨拶する智也を、かおるは目を丸くして見つめた。
智也とかおる、それぞれの最寄り駅は3駅ほど離れている。そのため、かおるはいつも早起きして智也の乗る駅まで行っていた。そのかおるより早く来ているということは、よほど早くに家を出ているはずだった。
「寝らんなくてさ。それで、たまには驚かせてやろうと思って」
照れたような笑顔で、智也は頬をかいた。
だがかおるは、智也のその言葉にまた表情を暗くしてしまった。
「寝られなかったって……私のせい……?」
智也は肩をすくめると、かおるの額を指で軽く突いた。
優しい笑顔の智也を、かおるは茫然と見ていた。
「せい、とか云うなよ」
「あ……ごめん……」
「かおるのため、さ」
「智也……」
智也は赤面して、目をそらした。そして空を見上げ、そのままで言葉を続けた。
かおるもなんとなく智也と同じ空を見上げながら、話を聞いていた。
同じものを探しているような気が、した。
「夕べさ、考えたんだ。かおるの云う絆ってなんなのか。俺たちには……まだないものなのか」
「……」
「それでさ、やっぱり思った。かおるは、勘違いしてるんじゃないかって」
「勘違い……?」
「そうさ」
かおるは小首を傾げる。智也は相変わらず照れくさそうにしながらも、視線を空から下ろしてかおるを見つめた。まっすぐで、穏やかな視線。
「かおるが云ってるのは、思い出のことだと思うんだよ」
「思い出?」
「うん。離れても……逢えなくなっても、そのひとのことを偲ぶことができる、思い出。それは大切なものだけど……絆とは、違うと思う」
「……」
「今の俺たちには……必要ないものだよ」
「必要……ない……?」
「ああ」
かおるの瞳をまっすぐに見つめて、智也が頷く。
かおるの本当にほしかったものが、そこにあるような気がした。
けれど、かおるにはまだそれがはっきりとわからなくて、確かに掴むことができなくて――、それこそが、かおるを不安にさせていたのだった。
またしても暗い表情でうつむいたかおるの心情を知っているのか、智也はいたわるような笑みを浮かべていた。
「俺たちはこうしてそばにいる。――たとえ離れ離れになっても、そんなこと関係ない。どこにいたって、逢いに行けるし……そもそも、そんなこと関係ないだろう?」
「どうして……? どうして、関係ないって云えるの……?」
「それは、思い出になんかならないからさ」
智也が手を伸ばし、そっとかおるの頬に触れた。
その温かさに驚いて、かおるは顔を上げた。
智也と正面から瞳が合う。そこにある、信じられるもの。
「思い出になんかならない。だって、俺は、かおるを……愛してるからな」
「智也……」
霧が晴れていくような気持ちだった。
たった一言。ただそれだけがほしかったのかもしれない。
知っていたけど。わかりきっていた想いだったけれど。
それでも、ただ一言、言葉にして伝えてほしかった。
「だからさ、変なこと考えんなよ。――さ、行こうぜ」
気恥ずかしさが限界を超えて、智也はかおるに背中を向けた。
そのまま駅の改札に向かって歩き出そうとしたとき、上着の裾を掴んで、引き留められた。
「……ねえ、もう1回云ってよ」
「バカ。あんなこと何度も云えるか」
「お願い」
裾を握る力が強くなる。智也は空を仰いで、大きく息を吐いた。
「……愛してるよ」
「……うん……」
かおるは智也の背中に額を当て、瞳を閉じた。
しばらくそうしていたかった。
*
昼休みに、かおるは学校の公衆電話から大介に電話をかけた。
「うん……ごめんなさい……。嬉しかったよ、だけど……うん……ありがとう……。それじゃ……」
受話器を置いて、ため息をつく。
思い出がひとつ、増えた。そして。
「かおる、ここにいたのか」
呼びかけられて振り向くと、智也がパンを片手に立っていた。今日はまともなパンが買えたらしく、満足そうな顔をしている。
「飯、まだだろ? 屋上で食う?」
「そうだね」
自然とこぼれる笑顔で、かおるは智也のもとへ走った。
こうして笑えること。それだけがただ、嬉しかった。
あとがき
カオラーのじみぃさんに捧げます。いらないって云われたらどうしよう(^^ゞ。
私的には、かおるって実はかなり繊細で、ほんとは気が小さいとこもあるんじゃないの?と思っています。「私とつきあう気ある?」とか云って智也をリードしちゃうのも、智也の言葉を待っているのが怖いからなんじゃないか、と。
だけどやっぱり女の子なんだから不安になることもあるし、そんなときは彼に安心させてほしい。肝心なときに照れたりせず肝心なことをちゃんと云えること、これってかなり重要。そういうのを表現したくて書きました。
あと、かおるシナリオの智也は全シナリオを通じていちばん男らしいと私は思っているので、今回はうだうだ悩まないタイプになっています。
こんなんかおるじゃないーと云われそうな気もしますが……まあひとつの解釈ということで……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。