「明日から購買に出る!? なーに、バカなこと云ってるのよ、お母さん?」
見舞いに持ってきた花を窓辺の花瓶に挿していたところで、霧島小夜美は振り向きながらそう云った。ここが病院だということも忘れて、思わず大きな声になってしまった。
ベッドの上の母・淑子は、憮然とした表情で天井を見据えている。
「まだ退院できるような状態じゃないって、自分でいちばんよくわかってるでしょ? 医者だって、許してくれるわけないよ、そんなの」
「だって、お前、ずっと購買を閉めてるわけにはいかないじゃないか。生徒さんたちも、きっと不便に思ってるよ」
「それはそうだけどさ……」
ベッドの傍らの椅子に腰を下ろしつつ、小夜美はため息をついた。
淑子は小夜美の母校でもある澄空学園で、購買部を管理している。一日中座りっぱなしの上、重いものを運ぶことも多く、とうとう腰を痛めて入院を余儀なくされてしまった。ほかに従業員もいないので、淑子が休んでいる間、購買は休業状態になっている。
母が仕事と学生たちに愛着を持っていることは、小夜美にもよくわかっていることなのだが。
「誰か、臨時で雇うってことはできないの?」
「そんな余裕ありゃしないよ。それに、普通のお店じゃないんだ。学校の中だからね。学校にとっても、あたしにとっても信用できる人間じゃなきゃ、任せられやしないよ」
「……うーん、そっか……」
思案顔で首を傾げる小夜美。
本当は、すでに代案は用意していた。けれど、それはあまりに自分にとってリスクが大きすぎる。ただでさえ忙しい毎日だし、それに――。
でも、やっぱりほかに手はなさそう。小夜美は強いて明るく、いたずらっぽい笑顔を淑子に向けた。
「じゃあ、あたしなら、どうかな」
「……え……?」
「あたしなら卒業生だし、信用してもらえるんじゃない? お母さんも、娘のことは信用してるよね? ……まあ、ちょーっと計算は苦手だけどさ」
「小夜美……」
茫然と自分を見つめている母に、小夜美は照れたような笑みを返した。
淑子は安堵と不安が入り乱れるような複雑な表情で、小さく息を漏らした。
「そりゃ、お前が代わりに入ってくれれば、いちばん助かるけど……でも……いいのかい?」
「……何が?」
「何がって、大学、忙しいんだろ? それに、お前……」
「平気だよ。長くても、二週間ぐらいでしょ? なんとかなるって」
母の後半の台詞をわざと遮るように、小夜美は明るい声を出した。
淑子もそれ以上、言及することはできない。わざわざ娘の傷に触れるようなことは。
「そうかい? じゃあ……悪いけど、頼むよ」
「任しといて。それじゃ、簡単な仕事の手順と、注意しなきゃいけないこと、教えてよ」
鞄から手帳を取り出し、小夜美は母の話を聞きながら、メモを取っていった。
基本的には「店番」であって、そんなに面倒な仕事はない。出納に気をつけていれば十分だろう。……それが一番のネックだったかも知れないが。
「まだちゃんとしたレジとか置いてないの?」
「別に必要ないし」
「もう……保守的だなあ。レジがあれば、計算間違いもしないのにね」
「ふうん。スーパーでバイトしたときは、どうだったかねえ」
「……やなこと覚えてるのね。――うん、だいたいわかった。あとは学校行って、先生たちに聞いてみるわ」
自分が振った話題でありながら、旗色が悪くなりそうだったので、小夜美はパンと手帳を閉じて、話を打ち切った。
淑子はやれやれ、という風情で軽く首を振りながらため息をつき、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「頼んだよ。……ああ、それから……」
「え? まだ何かあるの?」
「たいしたことじゃないんだけど……三上智也くんっていう、生徒さんがいてね」
「三上……智也? なになに、札付きの悪だから、要注意だとか?」
眉をひそめて、小夜美が身を乗り出してくる。澄空は一応進学校の部類に入るし、穏やかな校風もあって、その手の生徒はほとんどいなかったのだが、三年も経てば雰囲気も変わっているのかも知れない、と考えた。
その様子に、淑子は慌てて手を振って否定した。
「違う違う、面白い子だよ。その子にね、いつもパンの取り置きをしてあげてるんだよ。それを期待してると思うからさ」
「ふーん、そういうことね。でも、特定の生徒を贔屓するのって、よくないんじゃないの?」
「うん、それはわかってるんだけどね」
「――ん? なあに?」
首を傾げて小夜美が訪ねると、淑子は小さく微笑んだ。
奇妙に優しげで、同じくらい寂しそうなその笑顔が、小夜美には少し引っかかった。
「お母さん?」
「……似てる、かなって」
「……え……?」
「克也にね、ちょっと似てる気がするんだよ」
「……」
母が口にしたその名前に、小夜美は動揺したりはしなかった。
ただ軽く唇を噛み、少し厳しい光を瞳に宿した。
母がはっと気づき、小夜美の表情を窺ってくる。
「小夜美?」
「――克也は、克也だけだよ。誰にも似てないし……誰も、克也に似てる人なんていない」
その口調は、責めるようではなく。ただ自分に云い聞かせようとするような、静かで淡々とした呟きだった。
「あ……ご、ごめんよ、小夜美」
無論、淑子にも娘の気持ちはわかっている。自身の不用意な発言に狼狽する母に対して、小夜美はもういつもと同じ、明るい笑顔を向けていた。
「ううん。とりあえず、名前は覚えておくけど、あたしは取り置きとかしないよ。不公平だもんね」
「それは任せるよ。……本当、すまないね。よろしく頼むよ」
「だぁいじょうぶ、このビューリホー女子大生の小夜美さんが引き受けたからには、大船に乗ったつもりでいてちょうだい!」
「……そういうところが、いちばん心配なんだよねえ……」
その言葉に、失礼ね、と怒って見せながら、小夜美はこれからのことを考えていた。
澄空学園。卒業以来、一度も訪れたことのない母校に、こんな形で戻ることになるなんて。
いっそいい機会なのかも知れない。あの頃は、ただつらいだけ、悲しいだけだと思っていたけれど。もう一度、あのときの自分に向き合ってみるのも。
そして。
(克也に似てる男の子……か)
その彼との出会いは、あたしに何かをもたらすだろうか。
消えることのない罪を思い知らされるのか。それとも――。
小夜美は母に気づかれないよう、そっとため息をついた。
*
「はい、ありがとう。230円のおつりね」
「ちがうよ、330円だってば」
「あ……そうだ。いやほら、サービスよサービス。やあねえ」
冷や汗を引きつった笑顔で隠しつつ、おつりを渡す。その間も、あれをくれだの、こっちはまだかだの、人の波は一向に衰える気配を見せない。
こんなに忙しいだなんて、聞いてないよ、お母さん!
小夜美は叫び出したい気分だった。もちろん、普段の昼休み以上のその混雑の理由が自分にあるとは、全く気づいていない。
想い出の母校に帰る感傷や覚悟に浸る暇もあればこそ。そんなものをすべて吹き飛ばす多忙さに、小夜美はとにかく目の前の仕事を片づけることに集中した。
そうして、ようやく人垣が消えて、ほっと一息をついたとき。
「おばちゃーん、いつものあるー?」
と、失礼な呼びかけがあった。たちまち小夜美の眉が跳ね上がる。そりゃあたしももう二十歳だけど、いきなりおばさん呼ばわりっ!? ちょっと若いからって、図に乗ってるんじゃないわよ、高校生!!
「だーれがおばちゃんですってえ?」
「なんでもいいから、いつものおくれ」
そう云った少年は、バツが悪そうにしながらも謝らず、ぶっきらぼうに答えるだけだった。
可愛くないなあ……と考えたところで、不意にどくんと、小夜美の心臓が跳ねた。
そうだ、昔はこんなやりとりが毎日のようにあった。かわいげのない弟と、飽きもせず繰り返される口喧嘩。ずっとずっと同じ日々が続いていくと、ただ当たり前に信じていた頃。
「いつものって何? あたし、今日からヘルプで入ってるから、わかんないのよね」
内心の動揺を隠し、小夜美はわざとつっけんどんな調子で云ってやった。本当は、このときからすでに予感はあったのだが。
少年は小夜美があのおばちゃんの娘であることに驚きつつ――これには小夜美も悪い気はしなかった――、いつもパンを確保してもらっているということを説明した。
やっぱりそうか。全然似てないじゃない、お母さん。強いて云うなら……可愛くないところかな。
そんなことを考えながらも、小夜美の面にはついつい笑顔が浮かんでしまっていた。
「ああ、あなたが智也クンかあ」
「は、はい」
思いがけず名前を呼ばれたことで、少年――智也は、緊張気味に頷いた。
そういう風にしてれば、少しは可愛いじゃん。そう思うと同時に、小夜美は少し意地悪をしてやることに決めた。
「あたしのときは、パンのお取り置きは、やってないの。不公平じゃない? 明日からちゃあんと並んで買ってね♪」
「え……ってことは、あの、オレの昼メシは……」
「好きなの選んでいいよぉ」
傍目にもはっきりわかるほど落胆している智也に、小夜美はのどを鳴らして笑った。
*
現金を金庫に納め、シャッターを下ろして、鍵を閉める。
「はーっ、終わった……」
思わず深いため息が出てしまった。
ようやく、第一日目が終了。こんな仕事を毎日続けていれば、そりゃ腰も痛めようってものだ。改めて、小夜美は母の労苦に感謝する思いだった。
校庭に出ると、部活で走り回っている少年たちが目に入る。
知らず知らずの内に、誰かを目で捜している自分に気づき、小夜美は苦笑した。
(いないか……。部活してるタイプじゃなかったもんね)
母が気にしていたように、自分もこんな風に少し話しただけの彼を気にかけているのは、やはり弟に似ているところがあるのだろうか。
――だけど、似ているとして、だから何だと云うのだろう。弟に似た彼のために何かをしてあげたら、それが償いになるとでも?
そんなことは、所詮、自己欺瞞に過ぎない。
喪ったものは、永遠に還らない。人の命も、人の想いも。
ここであたしがなくしてしまったもの、そのすべてが。
けれど。
苦い物思いに沈みながらも、小夜美の口元には笑みが浮かんでいた。
悔恨しか残っていないと思っていたこの場所で、あの少年に出会えたことが、なぜだか小夜美にはとても嬉しく思えたのだ。
「さーて、明日はどんなパンを食べさせてやろっかなー♪」
あとがき
メモオフデュエット、小夜美シナリオクリア記念です。
ほんとはこの一連のシーンは、小夜美ねーさんの澄空時代編のエピローグとして考えていたものだったんですが。ちょいと諸般の事情でそちらの実現が難しくなり、お蔵入りになっていたので、ラストだけ引っ張り出してきた感じです。
ゲーム中、小夜美ねーさんの心情が語られることはほとんどないのですが、だからこそ、その韜晦の裏に秘められた想いってものを、色々想像してしまいますね。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。