失ったものの重みに足を取られて動けないなんて、バカげたことだと思う。
そんなことはわかりきっているのに、あたしは今日も、ここに向かう足を止めることができなかった。
苦笑を貼りつけた口元に煙草をくわえ、火をつける。軽く吸い込んだあと、嫌がらせのように――実際そのつもりだった――紫煙を墓石に吹きつけた。
昔は、あんたが隠れて吸ってたのを、あたしがよく取り上げたものだったのにね。どう? 悔しい?
そんな風にバカなことを考えて、あたしはもう一度苦笑と共に煙草を吸い込んだ。
女が吸うには、かなりきつい煙草だった。初めてくわえたときは盛大にむせたのを覚えている。
「――それが今では、立派なチェーンスモーカーよ」
どうしてくれるのよ、とあたしは八つ当たりの声を向ける。誰かに聞かれたら、恥ずかしいったらない。幸い、こんな早朝から墓地を訪れるような人は、誰もいなかったけれど。
そろそろ行かないと遅刻だ。あたしは吸いかけの煙草を線香代わりに墓石の前に置き、立ち上がった。親にバレたらまた怒られるだろうけど、これも供養のようなものだ。うん。
そうして、ひとり納得して、あたしは墓石に背を向けて歩き始めた。晩秋の柔らかい日差しに、少しだけ眼を細めた。
*
「ありがとうございましたぁ」
にこやかに、もうめいっぱいにこやかに、人当たりのいい爽やかなおねーさん風笑顔で手を振る。売れ残りのパンを少し不服そうに買っていた男子生徒は、途端に赤くなって頭を下げ、足早に歩いていった。
初々しいその姿が見えなくなると同時に、あたしは深いため息をつく。
作り笑顔に疲れたわけじゃない。昔は弟の友達が家に来ることも多かったから、年下をあしらうのは慣れてるし、楽しくもある。
そんなことじゃなくて……。
「……はあ」
すでに意識もしない癖で胸ポケットに指を入れて、何も入っていないことを確認して、またため息。もう、何回これを繰り返したことか。
腰痛を悪化させた母に代わって、母校・澄空学園の購買部で働き始めて数日。仕事の分量も必要な体力も予想以上にハードだったけど、何よりきつかったのは、仕事中に煙草が吸えないということだった。
まだまだ顔馴染みがたくさん残っている先生方からは、初日の挨拶のとき、しっかり釘を刺された。――もう大人なんだから吸うなとは云わんが、生徒の目につくところでは困る。
吸うときは職員室に来い、というありがたいお申し出を、あたしはもちろん辞退した。そんなの居心地悪いったらないし、第一、ほかに店番もいないんだから、購買を閉めるまではここを動けやしないのだ。
「……はあああ」
もう一度深いため息をついたとき、チャイムが鳴った。昼休みももう終わりだ。
授業が始まってしまえば、あたしのやることは本当に店番しかない。生徒が来るはずないし、先生も滅多に来ない。
……そう考えたときには、すでにあたしの自制心は風前の灯火だった。
一本だけ。うん、そう、軽く一本だけだから。
あたしはそそくさと裏の事務室に入り、バッグから煙草を取り出す。一本取り出して口にくわえ、火をつけて――。
「すいませーん」
――――――!?
思いっきり吸い込んでしまい、盛大にむせてしまった。
「は、はい、ちょっと待って……」
やだ、変なとこ入った。咳が止まらなくて、涙まで出てくる。こんなのは久しぶり。
「だ、大丈夫、小夜美さん?」
声をかけた誰かが、あたしの様子を心配して購買の中に入ってくる。涙目になった顔を上げたそこにいたのは。
「智也クン!? 何やってるの、こんな時間に」
母がいつもパンを取り置きしてやっていたという少年だった。
室内の様子に目を丸くしていた三上智也は、あたしの問いかけにいつも通り、飄々とした態度で答えた。
「天気いいからさ、屋上で昼寝でもしようかと思って、その前に牛乳でも飲もうかと」
「何云ってるの、授業中でしょ」
「……お互い、堅いことは云いっこなしなんじゃないの?」
にやっと意地悪く笑って、智也はあたしの指先を見やった。
そこには当然、消し損なった煙草が挟まれているわけで。
「校内は、職員室以外、禁煙だよ?」
「……可愛くないんだから」
あたしは開き直って、煙草をくわえ直した。智也のほうに煙を吹きかけてやると、彼は嫌そうに避けながら、椅子に腰を下ろした。
「小夜美さん、煙草吸うんだ」
「ここで吸ってたことは、内緒だからね」
「いくらくれる?」
ニコニコ笑いながら、智也は右手を差し出した。
初めて会ったときから思っていたけど、こういうところがやっぱり似ている気がする。
あたしはふと浮かんだ考えに苦笑すると、吸いかけの煙草を智也に差し出した。
「吸う?」
「え……」
薄くルージュのついた吸い口を見て、途端に智也はどぎまぎと落ち着きをなくす。あたしはこれまで見せてきた営業スマイルとは違う、薄い微笑みを浮かべて流し目を送った。
「それで共犯」
「……いや、いいよ、俺は」
煙草と、あたしの指先と、そして唇に視線が移動した後、彼は慌てて目をそらした。
ふっふっふ、あたしの勝ちだ。
「冗談よ」
にっこり笑いかけて、あたしは煙草を深く吸い込む。次に紫煙を大きくはき出した。五臓六腑に染み渡る感じ。朝からずっと我慢してたもんなあ。
一方、智也はからかわれたことに気づいたようで、少し憮然として周りを見回していた。そして、机に置いた煙草のボックスに気づいて、手に取った。
「こういうの吸ってんだ。女の人って、もっとこう、細くて軽そうな奴吸うのかと思ってたよ」
「ドラマの小道具じゃないんだから」
よく云われる台詞に、あたしも苦笑して答える。ふうん、とボックスを手でもてあそんでいた智也は、横に書かれた文字を見て目をむいた。
「ニコチン20mgにタール……ええ? これって、すごいきついんじゃ?」
「初心者にはお勧めしないねー」
智也は目を白黒させている。まるでそれが危険物であるかのように、ボックスをおそるおそるといった手つきで机に戻した。
「やっぱ、吸ってる内に、軽いのじゃ物足りなくなるって感じなの?」
「そういうのもあるかもね。あたしは、これしか吸ったことないけど」
「え、じゃあ、最初から!?」
「うん」
煙草をくわえたまま頷くと、智也は目をまん丸にしてあたしを見つめていた。まあ、こういう反応にも慣れているんだけど。
そして、次に問われるだろう言葉にも。
「なんで、いきなりこんなの、吸う気になったの?」
「それは――」
いつも適当に答えようとして、いつも言葉に詰まってしまう。
不思議そうに首を傾げた智也をよそに、あたしはむっつりと唇を噛んだ。
あたしが十八から吸い続けているその煙草は。
――克也の好きな、銘柄だった。
あたしのたったひとりの弟。
いつもあたしの云うことなんてまるで聞かなくて、心配ばかりかけて、そうして、たった十五でいなくなってしまった弟。
味なんかまるでわからないくせに、それどころか格好だけでふかしているばかりで、たまに深く吸い込んではむせていた。この銘柄を好んだのも、マンガか何かの影響で、ただ格好良かったからだったに違いない。
それが、克也の数少ない形見になった。
事故の連絡を受け、身元の確認に出向き、そのとき渡された荷物の中にも入っていた。
雨とオイルとそれ以外の何かでしけった煙草に、帰ってからあたしは苦労して火をつけた。
その瞬間、むせて激しく咳き込んだ。
煙草なんて吸ったのは、それが初めてだったから。とても初心者向けの煙草ではなかったし。
それでも我慢して、もう一度口につけた。
立ち上る紫煙とニコチンの匂いが、もう帰ってこない弟のことを強く想い出させた。
何度も何度も咳き込みながら、あたしはボロボロと涙を流して泣いた。
たった一本の煙草を、とても長い時間をかけて吸いきり。目に染みる煙と、ひりつく喉の痛みを口実にして、ただいつまでも涙を流していた。
「……小夜美さん?」
気がつけば、ずいぶん長い間、黙り込んでしまっていたらしい。煙草の先が長く灰になっていた。
あたしは灰が落ちないよう気をつけながら携帯用灰皿を取り出し、煙草の火を消した。
一本だけのつもりだったけど、つい何かに急かされるように、二本目に火をつけてしまう。そうして、笑った。
「女には、色々あるのよ」
「……」
今度は、ごまかすのに失敗したかも知れない。
そう思いながらも、あたしは話を打ち切ろうとした。涙を誘う思い出話として口にするには、まだまだこの匂いはあたしには生々しすぎた。だけど。
「まさか……小夜美さんも?」
「……も?」
その言葉が持つ意味に気づいて、あたしが顔を上げたときの智也の表情は、なんと表現すればよかっただろう。驚愕、失意、悲壮、落胆、様々な色がよぎり、そして最後には、しまった、というように唇を噛んで立ち上がり、踵を返していた。
その瞬間、あたしにもわかってしまった。この子は――同じだ。
だから、あたしは彼の背中を見るでもなく、呟いていた。
「過去に囚われているなんて、バカバカしいよ」
智也の足が止まる。
振り返ったその目に燃えていたのは、怒りというより、すでに憎しみと呼べるものだったろう。あたしを通して、自分自身に向けられている憎悪。
「綺麗事を……!」
苛立たしげにぶつけられる言葉。
そうじゃない、と胸の中であたしは否定する。
綺麗事だとか、そんなんじゃない。あたしは心底、そう思っている。そのうえで――。
「じゃあ、どうして小夜美さんは、その煙草を吸ってるんだよ!?」
拳を振るわせる詰問を、胸の中で咀嚼した。目を閉じて深く煙草を吸い込み、そうして、煙と一緒に答えをはき出す。
「あたしは、この煙草が好きだから」
「――!」
バカにされた、と感じたのだろう。智也の激昂が高まるのが、よくわかった。殴られるかも知れないなあ。
そんなことを考えながら、あたしはくわえ煙草でじっと智也を見つめていた。
……わかってほしい、とは思っていなかった。
でも、あたしは嘘をついていない。自分自身、信じてもいない綺麗事で、自分をごまかそうとしたりもしていない。
過去に囚われているなんて、本当にバカバカしいことなのだ。
だけど、それでも、あたしはこの煙草をやめられない。
それは、あたしが好きだから。今でも、これからも、ずっと。
「……」
あたしの目を睨み返していた智也の肩から、ふっと力が抜けた。目をそらして、もう一度椅子に座り込む。
少しの沈黙の後、智也は右手をあたしに差し出した。
「……やっぱ、一本ください」
「……ばれたら、あたしのクビじゃすまないんだけどな」
下手をすれば、母の責任も問われて職を失うことになる。そう知りながらも、あたしは今度は吸いかけのほうではなく、新しい煙草を出して智也に持たせてやった。不器用にくわえた先に火をつけてやる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
予想通り、彼は盛大にむせた。それでも何度も吸い込もうとし、そのたびに咳き込んで、ついにボロボロと涙を流す。いつかの誰かのように。
「……これ、やっぱきついよ……小夜美さん……」
「だったら、やめときなさい」
肩をすくめて、あたしは二本目の煙草を消した。
この子には、あたしみたいになってほしくない。けど、選ぶのは彼自身だ。誰にも変えられない。あたしが煙草をやめられないように。
だから、あたしにはもうほかに云うことがなかった。
「これで、共犯だからね」
人差し指を唇に当てて、微笑む。
「内緒だよ」
end
2005.2.18
あとがき
思いつきで掲示板に書いた奴をリファインしてみました。……リファイン、になってるかな。
実は元々は「今夜、月の見える丘で」の続きを考えていたところから出てきた話なので、状況とかテーマがちょっと似てます。……言い訳かな(^^ゞ。
この話の背景にしているのは、唯笑Trueシナリオなのですけれど。
しかし、最近すっかり小夜美ねーさん書くときは弟くんLOVEになってるなあ(^^ゞ。でも、「若葉のころ」とは全然関係ない話ですので、念のため。
ちなみに、小夜美ねーさんが吸っている銘柄は、私が昔吸ってたのがモデルになってます。
なんとなく続いちゃうかもしれません。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。