今年の夏の訪れは早そうだ。
額に薄くにじんだ汗をハンカチでぬぐいながら、白河ほたるはそう考えた。
ほたるは、アパート「朝凪荘」の205号室の前にいた。そこには恋人の伊波健が住んでいる。今日は約束をしていなかったし、事前に連絡もしていなかったが、ふと会いたくなって足が向かってしまった。
(健ちゃん、いるかな……。やっぱり、電話すればよかったかな)
ノックをしてみる。しかし、中から返事はなかった。
ほたるは軽くため息をつき、ポケットから合い鍵を取り出した。中で待っていよう、そう思って鍵を鍵穴に差し込み……。
鍵を回そうとした手が、止まった。
帰ったほうが、いいだろうか。連絡もなしにいきなり押し掛けて、いなかったら部屋で待っているなんて、うっとうしがられないかな。
ふとそんな考えが、頭をかすめる。
ほたると健のつきあいは、ほたるの告白から始まった。健はすぐOKしてくれたし、そのあとも大事にしてくれたけれど、それでも時々不安になる。彼はどれだけ、自分のことが好きなんだろうかと。
そっと鍵をポケットに戻し、ほたるは廊下を戻ろうとした。そのとき、玄関から女性の声が聞こえてきた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
少し低い、静かな声だった。
住人ではないほたるには、応対する義務はなかったが、特に考えるでもなくほたるは玄関へと小走りに急いだ。この場を早く、離れたかったのかも知れない。ほたるは階段を下りた。
そこでほたるは、玄関に佇む大輪の花を見た。
「あ……」
そのひとはむしろ、派手なほうではなかった。けれど、艶やかな長い黒髪、意志の強さを示す切れ長の瞳、凛とした横顔――すべてが、圧倒的な迫力を持っていて、咲き誇る薔薇を思わせた。
「……?」
言葉もなく立ち尽くすほたるに、彼女も気づいた。怪訝そうにほたるの顔を見ると、軽く頭を下げる。ほたるは理由もなく緊張してしまった。
「失礼ですけど、このアパートの方?」
「は……はい、……あ、いえっ、その……」
「?」
「あ、ご、ごめんなさい。住人じゃ、ないですけど、知ってる人、住んでますから、何か、ご用があれば……」
「そう」
しどろもどろになるほたるに対し、彼女は不思議そうに首を傾げた。頬に手を当てて、少しの時間、考える。
「じゃあ、お願いしちゃおうかしら……。稲穂信、知ってる?」
「え……信くんの……?」
「知ってるみたいね」
小さく笑う彼女。だが、その一瞬前に、瞳に鋭い光が走ったことを、ほたるは見逃さなかった。――それが嫉妬に近い感情だということまでは、わからなかったが。
稲穂信は、健の部屋の真下に住んでいる男だ。年齢はほたるや健と同じだったが、この春に高校を中退し、今はフリーターをしている。健と仲がいいこともあって、ほたるも親しくしていた。
彼女は手にしていた紙袋を、ほたるに差し出した。包装された箱が入っている。何かのお土産のようだ。
「これ、信に渡してほしいの。真冬からって云ってくれれば、わかるから」
「真冬……さん……」
ほたるは紙袋を受け取りながら、目を瞬かせる。
真冬と名乗った彼女は、唇の端だけで、ニッ、と笑った。そうすると、猫のような印象があった。
「悪いけど、お願いね」
そう云って、真冬は踵を返して、玄関から出ていこうとした。ほたるは真冬の後ろ姿を目で追い――何かに気づいて、大声を上げた。
「あああああっ!」
「……な、なに?」
眉をひそめて、真冬が振り返る。長い黒髪が、ふわりと揺れた。
「藤村先輩! そうですよね?」
「確かに……藤村真冬、だけど」
肩に掛かった髪をかき上げながら、真冬は首を傾げた。
「会ったこと、あったっけ?」
「あ、いえ、先輩は、ほたるのことなんて、知ってるはずないですけど……」
赤面しつつ、ほたるは答えた。真冬はいつでも、まっすぐに相手の目を見て話す。その視線が少し照れ臭かったのだ。もちろん、突然大声を出してしまった恥ずかしさもあったが。
「あの、ほたる……白河ほたる、です。浜咲学園の、今、三年生です」
「ああ……浜咲の子だったんだ」
ようやく納得した様子で、真冬は笑顔を浮かべた。高校の後輩と知って、わずかに親しみを見せる。それがほたるには嬉しかった。
「今、三年ってことは、いっこ下か。……ごめんね、私はあなたのこと、知らないけど」
「いえ、そんな、当たり前です。先輩は綺麗でかっこよくて……有名人でしたけど……」
ほたるの言葉に、真冬が苦笑する。ほたるはますます顔を赤くしつつ、うつむいた。
「ほたるは、なんの取り柄もないですから……」
「……」
玄関口に立っていた真冬が、ほたるに近づいた。何も云わずに、ほたるの手を取って、自分の目の前に掲げる。
「……あ、あの?」
狼狽するほたるに、真冬はまた猫のように笑いかけた。
「綺麗な指」
「あ……」
「いっこ下に、ピアノのすごくうまい子がいるって聞いたことあるわ。あなた?」
「そ、そんな……ほたるは、ピアノが好きなだけで……」
「……」
微笑んで、真冬はほたるの手を下ろした。今度こそ、玄関から出ていこうとする。しかし、またしてもほたるは引き留めてしまった。
「あ、あの……っ」
「……なあに?」
少し呆れたような顔で、真冬は振り向いた。だが、ほたるはすっかり舞い上がってしまっていて、その様子には気づかなかった。
「あの、よかったら、もうちょっとお話しさせてもらえませんか? その、待ってたら、信くんも帰ってくるかもしれないし……」
「……」
「あの、ほたる、部屋の鍵、持ってますから」
「……信の?」
真冬の瞳がすっと細くなる。ほたるは慌てて何度も首を振った。
「ち、違います! 健ちゃんの……あ、健ちゃんってのは、ほたるの……その……」
あたふたと身振り手振りを交えて話すほたるを、真冬は黙ってじっと見つめていた。そして、我慢できず、ぷっと吹き出した。
「……面白い子」
「あ……」
「ありがと。でもね、いくらあなたが合い鍵を持っていても、家主と面識のない人間を、勝手に部屋に入れるものじゃないと思うわよ?」
微笑んではいたが、目に少し厳しい光を宿して、真冬は云った。
「あ……ごめんなさい……」
ほたるは口に手を当てて、うなだれる。
真冬は玄関の引き戸を開けた。残念そうにその姿を見送るほたるに、真冬は振り向いて笑顔を見せた。
「庭、見せてもらっていい?」
「……え?」
「話し相手になってくれるんでしょ?」
その言葉の意味がわかるまで、ほたるには少し時間がかかった。
真冬はほたるの返事を待たず、玄関を出て庭に向かった。ほたるは我に返ると、満面に笑顔を浮かべて、そのあとを追った。
「は……はいっ」
*
朝凪荘の庭には、ベンチが一つ置かれている。ほたると真冬はそこに腰掛け、荒れ放題の庭を見ながら話をしていた。
「……ひどい庭ね……」
「あははっ、そうですね」
「もうちょっと手入れすれば、それなりに見られると思うんだけど……」
「そうですね。頑張ります」
「あなたがやる義理はないわよ。信にやらせなさい。どうせ暇なんだから」
「え、でも、信くんって、いつも何か忙しそうですよ?」
「そう? どうせろくでもないことしてるんでしょ」
云いながら、真冬の口元には笑みが浮かんでいた。その態度からは、彼女の信への気持ちが隠しようもなく覗いていた。
「……でも、藤村先輩が……」
「真冬でいいわよ、ほたるちゃん」
「あ……はいっ」
嬉しそうに、頬を赤くするほたる。そういう反応には慣れているのか、真冬は苦笑するだけだった。
「真冬さんが、信くんの彼女だったなんて……びっくりです」
「……え?」
「信くんも、どうしてこんな素敵なひとがいるの、隠してたんだろ」
真冬は小さく笑って、ほたるのほうを見た。その笑顔は、少し淋しげに見える。ほたるは不思議そうに、首を傾げた。
「私は、信の彼女じゃないわよ」
「……えっ……?」
「あいつ、好きな子、いるもの」
一言一言、区切るようにはっきりと、真冬は云った。そして、視線をまた庭のほうに戻して、楠を見上げた。
「あ……ご、ごめんなさい、ほたる……」
「いいのよ。気にしないで」
そう静かに呟く真冬の横顔からは、表情は読みとれなかった。淋しそうにも見えたし、諦めているようにも見えたし、抑えがたい情熱を秘めているようにも見えた。
だから、ほたるは、本当にどう声をかければいいか、わからなかった。
「まだ6月なのに……今日は暑いわね」
首の後ろに両手を回し、真冬は髪を少し持ち上げて風を入れた。ふう、と軽くため息をつく。
「これからの季節を思うと、ちょっと憂鬱」
真冬の髪はボリュームがある。確かに暑いだろう、とほたるも思った。
「あ、じゃあ、真冬さんもこうやってくくるといいんじゃないですか?」
ほたるは左右で縛った自分の髪の束を手に持ちながら、云った。真冬に見つめられ、少し頬を赤くする。
「あ、でも、こんな子供っぽい髪型、真冬さんは嫌ですよね。うーん、じゃあじゃあ、ポニーテールとか? ほたるのクラスに、寿々奈さんっていう、真冬さんにちょっと雰囲気の似てる子がいるんですけど、その子がポニーテールなんですよ。すっごく可愛いんです」
「そうね……」
真冬は髪をまとめ、右手で束を握ってみた。そうして髪をあげてうなじを見せると、同性であるほたるでさえ、ドキッとするような色気がある。ほたるは思わずその姿に見とれていた。
しかし、真冬はすぐにまた髪を下ろしてしまった。残念そうなほたるに向かって、真冬はまた小さく笑った。
「でもね、こうしてまっすぐに下ろしている髪型が、あいつはいちばん好きなんだ」
「……え……」
「だから、ほかの髪型にはできない……したくないの」
笑顔でそう口にする真冬を、半ば茫然と、ほたるは見ていた。
自分以外の誰かを見ているひとのために、そこまでできるのだろうか。
口には出さなかったほたるの疑問に気づいたように、真冬は言葉を続けた。
「たとえ想いは叶わなくても……あいつの目に映るとき、いつでも最高の自分でいたい。ほかの誰にどう思われてもいい。だけど、あいつにとっては、最高にいい女でいたい」
「最高の……自分……」
「陳腐かな、こんな考え方」
ほたるは思いっきり、首を何度も横に振った。
ありがと。そう云って微笑んだ真冬は、一瞬、泣き出しそうな顔をしたように、ほたるには思えた。
*
ベンチに腰掛けて、ほたるはひとり、庭を眺め続けていた。
結局、真冬は信の戻りを待たず、帰ってしまった。
「じゃ、悪いけど、渡しといて」
ただそれだけを言い残し、信への言伝もなにも頼まず帰る真冬の後ろ姿を見送ったあとも、ほたるはそこに座っていた。
「最高の自分……」
真冬の言葉を、もう何度も繰り返している。
最高の自分。たとえ想いは届かなくても、大好きなひとに、誇りに思ってもらえる自分。
そんな風に、なれたらと思う。ならなきゃいけない、と、真冬を見ていると思えた。
そして、自分には。きっと、ピアノしかない。
「……ほたる?」
呼びかけられ、はっとほたるは顔を上げた。門を抜けて、驚いた表情の健が入ってくるのが見えた。
「健ちゃん! お帰りぃ」
「ただいま。……どうしたの?」
「……う、ううん、健ちゃん、待ってたんだよ」
「そうなんだ。ごめん。部屋にいればよかったのに」
「うん、ちょっと、風が気持ちよかったから……」
云いながら、ほたるは立ち上がって、健のもとへ走った。いつものように甘えた仕草で腕を絡ませようとしたが、ふと何かに気づいたように動きを止め、少し健から離れた。
「ほたる?」
「あの……健ちゃん、あのね」
「どうしたの? なんか変だよ?」
健が訝しげに、ほたるの顔を覗き込む。ほたるは強い決意を面に表して、健を見つめ返した。
「コンクールがあるの、8月に。ピアノの、全国大会」
「へえ」
「それに……ほたる、出るね」
「そうなんだ。頑張れよ」
ほたるの胸に秘めた決意など何も知らず、健が屈託なく笑う。
それでいいと、ほたるは思った。
その笑顔を向けられるのにふさわしい自分であるために。健にとって、最高の輝きを放てるように。
「うん、頑張る」
最高の自分になる。そうしたら、健ちゃん。ずっとずっと、大好きでいてね……。
あとがき
……。
…………。
………………。
言い訳が浮かびません(^^ゞ。こんなんできましたー、と云うしか……。
メモオフ2ndって、後日談がとっても書きにくいんですよねえ。
なので、プレストーリーです。
ほたるの不安や、決意とか、そういうのがうまく表現できていると嬉しいのですが。
ああ、ほたる、可愛いよ(←廃人)。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。
追記
書いた後に最初からやり直してみて気づきましたが、コンクールの一次予選って6月にすでに行われていたんですね(^^ゞ。失敗……。