Diamond

 夏の夕日を映して、水面は赤くきらきらと輝いていた。
 その水面を切って、人魚が行く。
 全く無駄のないフォーム。人間がこんなに美しく泳げるものだろうかと、素人でも感嘆せざるを得ない。それはそういう泳ぎ方だった。
 浜咲学園のプールだ。本日の水泳部の練習は終わっており、部員はもうみんな上がっている。ただ寿々奈鷹乃ひとりだけ残り、泳ぎ続けていた。

「……ふう」

 自ら課したノルマを消化し、鷹乃は心地よい疲れを感じつつ、プールの中で仰向けになった。そのままの姿勢で浮いていると、赤く染まりゆく空が見える。鷹乃はその景色が好きだった。

(もうじき……見られなくなるかも知れないものね)

 そのとき、手を打ち合わせる軽い音がした。
 ……拍手?
 誰か後輩でも残っていたのだろうか。そう考えて鷹乃がプールサイドに顔を向けると、そこには黒髪の美しい女性が立っていた。

「……!」

 思わず起き上がり、プールに足を着く。
 そのひとを、鷹乃はよく知っていた。
 猫のよう、とよく形容される彼女。だがそれは愛嬌があるという意味ではなく、傲慢なほど気高く、気まぐれで、誇り高いという意味だ。

「真冬先輩……!」

「久しぶり。相変わらずいい泳ぎしてるね」

 そう云って、真冬は、ニッ、と唇の端だけで笑った。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
 鷹乃は嬉しさと気恥ずかしさに頬を染めながら、真冬が立つほうへ泳いでいった。鷹乃のそんな様子を見たら、誰もが目を丸くして驚いたことだろう。
 プールから上がろうとする鷹乃に、真冬は手を貸した。

「ありがとうございます。……でも、どうして?」

「うん。……ちょっと前に、ほたるって子に会ってね」

「ほたる?」

「そう。白河……ほたる、っていったかな? クラスメイトなんでしょ?」

「ああ、白河さん。彼女に?」

「うん。知り合いの住んでるアパートで偶然。で、その子から鷹乃のこと聞いて、どうしてるかなって思って」

「それで、わざわざ会いに来てくださったんですか?」

 ますます頬を赤くして、鷹乃は喜びを表した。真冬は苦笑するだけで、直接は答えなかった。

「元気そうね。安心した」

「はい、ありがとうございます。……あ、すぐ着替えてきますから、待っててください」

「いいの? まだ練習の途中なら、いいんだよ」

「いえ、ちょうど上がるところでしたから……。お食事でも、ご一緒させてください」

「あ、たかる気なんでしょ。相変わらず健啖家?」

「そんな……」

 笑いつつ、真冬は鷹乃に軽く手を振った。OKのサインだ。
 鷹乃は頭を下げて、更衣室へ走った。

     *

 制服に着替え終わって出てきた鷹乃を、真冬はまじまじと見つめた。何事かと決まり悪そうにする鷹乃に、微笑みかける。

「ふーん、なるほど」

「な、なんですか、真冬先輩」

「ほたるって子の云ったとおりだと思って」

 云いながら、真冬は手を伸ばして鷹乃の髪の結び目を掴んだ。ポニーテールをからかうように揺らす。

「かわいーよ、鷹乃」

「な……なに云ってるんですか」

 赤くなる鷹乃。真冬はくすくすと笑う。

「じゃ、行こうか」

「はい。……あ」

「?」

 歩き出そうとしたところで、鷹乃が校庭のある一点を目に止めて立ち止まった。
 校庭では、サッカー部が練習後の後かたづけをしている。そして、その様子をベンチに座ってぼんやり眺めている少年の姿があった。

「……」

「……ふーん?」

 真冬が鷹乃の背中から覗き込み、彼女の肩に顎を乗せてきた。両肩を押さえられ、鷹乃は逃げることもできない。

「なるほど?」

「な、なんですか」

「可愛くなった理由はそれかあと思って。鉄の処女と云われた鷹乃がねえ」

「そ……そんなんじゃないですよ」

「そうなの?」

 鷹乃の肩に顎を乗せたまま、真冬は首をひねって鷹乃を見た。そうして至近距離で、その黒い瞳に見つめられると、思わず動悸が速くなってしまう。その気はないっていうのに……。

「あいつも、クラスメイトなんですよ」

「ふーん」

「ずっとサッカー部だったみたいなんだけど、こないだの大会で引退して……それ以来、あんな風にぼーっとしてるんです」

「……よく見てるね?」

「だから、違いますって」

「はいはい、じゃ、行こっか」

 真冬はやっと鷹乃の体を離して、校門に向かって歩き始めた。鷹乃はほっとしつつ、そのあとを追い――、校門をくぐるとき、もう一度、振り向いた。
 少年は、まだそこでぼんやりと座っていた。

     *

 テーブルには、所狭しと料理が並べられていた。鷹乃は黙々とそれらを片づけていき、真冬は珈琲カップを片手に、微笑んでその様子を眺めている。
 鷹乃は遠慮したのだが、真冬が「久しぶりなんだから」と笑って、メニューを見ながら「ここから、ここまで」という頼み方をしたのだ。

「……ごちそうさまでした」

「ん。おいしかった?」

「はい。……ごめんなさい、こんな……」

「だから、いいんだって。見てるほうが気持ちよくなる食べっぷりよ」

「真冬先輩……」

 赤面する鷹乃に、また真冬はからかうような笑みを向けた。
 ほたるが云ったとおり、ふたりは雰囲気がよく似ていた。姉妹だと云っても通用したかも知れない。実際、鷹乃は真冬を姉のように慕っていたし、真冬も鷹乃を妹のように可愛がっていた。

「そういえば、来月辺り、推薦試験だっけ?」

「え……」

「それで気合い入ってたのかな? まあ、鷹乃なら絶対大丈夫だと思うけど」

「それは……」

 何気なく口にした真冬の話題に、鷹乃は表情を暗くしてうつむいた。
 真冬は不審そうに首を傾げ、珈琲を一口飲んだ。

「どうしたの? 何か気になることが?」

「はい……その……」

「?」

「私……水泳を……やめようかと……」

「……」

 驚いた様子も見せず、真冬は首を傾げたまま珈琲を飲み干した。通りがかったウェイトレスに、お代わりを注文する。そして、真っ直ぐに鷹乃に向き直った。

「鷹乃がそう決めたのなら、私は何も云わないけど」

「……」

「でも、その決断は、取り返しがつかないよ。よく考えなさい」

「……はい」

「決断が早いほうがいいなんて、嘘だからね。どんなにみっともなくたって、ぎりぎりまでじたばたしたほうがいいよ。諦めがいいなんてのは、逃げ出すときの口実だから」

 そう云って、真冬は再び唇の端だけで笑った。
 理由を尋ねるのでなければ、才能を惜しんで引き留めるでもない。それでも真冬の言葉は、鷹乃の心の深いところを突いた。
 そのせいだろうか。鷹乃は自分でも思いがけないことを、話し始めていた。

「さっき……校庭で見た男のことなんですけど……」

「ん……?」

「あいつ……ほんとにサッカーが好きそうだったんですよね。ボールを追っかけてるとき、ほんとに楽しそうで……。それが、引退したらたちまち、あんな腑抜けになって……。情けないって思うんだけど……、自分がいざ水泳をやめようと思うと……それから、どうなっちゃうんだろうって……」

「……」

 運ばれてきたお代わりの珈琲に、真冬は口をつけた。迷いと愁いを湛えてうつむく鷹乃を、じっと見つめたままで。

「……話を、聞いてみれば?」

「……え……?」

「その彼に、さ。どうしてサッカーやめちゃったのか。ほんとにやめちゃう気なのか。これからどうするのか。何か、ヒントがあるかもよ」

「そんなの……」

「クラスメイトなんでしょ?」

「それは……そうですけど……」

 真冬と目を合わせずに、曖昧な返事をする鷹乃。真冬はカップを下ろして、苦笑した。

「『男なんて信用できない』?」

「……」

「でも、気になるんでしょ、その彼のこと?」

「――だから、そんなんじゃ……」

 鷹乃は思わず声を高めそうになった。しかし、顔を上げると、微笑んでいる真冬と目が合ってしまい、何も云えなくなった。

「私は鷹乃の自分に厳しいところが好き。潔癖なところもね。だけど、それで自分を縛りすぎるのもどうかと思うわよ」

「そんなんじゃありません……。ただ、私は……」

「私は?」

「――真冬先輩だって」

 つい意地になってしまい、鷹乃は真冬をきつい視線で見つめ返した。触れてはいけないことに触れそうになり、思わず口ごもる。けれど、真冬は鷹乃が云いたいことをわかっているように、少し真顔になって、先を促した。

「私が、何?」

「……」

「なあに」

「……先輩だって、裏切られたんでしょう?」

「……」

「……」

 真冬は目を細め、頬杖をついて鷹乃を見据えた。その表情には怒りも驚きも嘆きもなかったが、鷹乃は目を合わせることができず、視線をさまよわせた。

「……ごめんなさい」

 やがて、沈黙に耐えきれず、鷹乃は小さな声で謝った。
 すると、真冬はふっと微笑んだ。その微笑を見て、鷹乃はより深い後悔に苛まれた。

「裏切りとか、そういうんじゃないよ。それは、わかっていてほしい」

「……はい」

「もっとも、私もそう認めるまでには、ずいぶん時間かかったけどね」

 肩に掛かる髪をかき上げながら、真冬は呟いた。何かを探すように、窓の外に目を向ける。その横顔に、鷹乃は胸を突かれた。

「自分を傷つけないよう、欺くことなんて簡単。でも、それじゃ本物は手に入らないから。どんなに傷ついても、手放しちゃいけないものが、必ずあるから」

「……」

「鷹乃も、それだけは見失わないで」

「……はい」

 鷹乃には、頷くことしかできなかった。

     *

 翌日、練習を終えて鷹乃が校庭に出たときも、その少年はぼんやりと座っていた。

「……」

 鷹乃は自分でもわからない苛立ちに駆られ、足早に校門を抜けた。
 真冬に云われた言葉を、思い出してみる。
 どんなにみっともなくても、諦められないもの。
 どれだけ傷つき、傷つけても、手放せない何か。
 そんなものを、自分は持っているだろうか。
 水泳? 両親のこと? それとも……。
 鷹乃は大きく首を振って、考えを中断した。唇を噛み、硬い表情で家路を辿る。
 その「何か」に鷹乃が気づくには、まだもう少し、時間が必要だった。




2001.10.9

あとがき

暗躍する真冬ねーさんシリーズその2(^^ゞ。
真冬と鷹乃ってキャラがかぶってるんでどうしようかと思ったんですが、鷹乃も敬愛する先輩の前ではしおらしくなるってことで……。単に鷹乃らしさが出てないだけ、と云われると、返す言葉もないですけど(*_*)。
レビュー掲示板のほうにも書きましたが、鷹乃シナリオで、序盤から鷹乃が健を意識しているのが謎だったんですよね。その辺の理由を自分なりに考えてみた……のが、このお話です。私的には、ああいう設定は不要だったんじゃと思っていますが、まあそれは置いといて(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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