危ない、と希が考えたときには、すでに手が滑って、珈琲カップをひっくり返してしまっていた。
「――熱っ」
慌てて、そのテーブル席にいた女性が手を引く。カップを落としたのは机の上だったので、熱湯を直接かぶることはなかったが、飛沫がテーブルに置いていた彼女の腕にかかってしまったのだ。
「ご……ごめんなさい、大丈夫ですか?」
慌てて希は手を差しだそうとするが、冷たい布巾なども持っていない。店中の注目を集めたこともあって、オロオロと途方に暮れた。
一方、被害者である彼女は、冷静にハンカチを取り出して手を拭き、体を少しずらしながら、上目遣いで希を見た。
「私は大丈夫だから、それより早くテーブル、拭いたほうがいいわよ」
テーブルからこぼれる珈琲が、ぽたぽたと椅子や床に染みを作っていく。彼女はそれを避けて、体を動かしたのだと、希はやっと気づいた。
「あ、は、はい、ごめんなさい、ほんとに……」
慌てて体を翻し、希は布巾を取りに行こうとした。
頬がほてって、心臓がドキドキする。
それはまた失敗してしまった、という想いから来るものだけではなかった。
その女性の黒く切れ長の瞳に見据えられたせいだ。吸い込まれそうな深い黒。猫の瞳のように、どこか妖しくて――。
思わず、希は振り返ってしまった。彼女は長く艶やかな黒髪を、少しうっとうしそうにかき上げていた。
――と、そのとき。希は前方から歩いてきた男性に気づかず、ぶつかってしまった。
「あ……ご、ごめんなさい……」
何をやっているんだろう、と今度は心底恥じらいで顔を真っ赤にして、希は向き直った。
幸い、ぶつかった相手は、信だった。お客さんじゃなくてよかった、と密かに希は胸を撫で下ろした。
「大丈夫かい、希ちゃん。はい、これ」
笑顔で、信は布巾を渡してくれた。
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げて、希は彼女の席に小走りに戻った。そのあとをなぜか信がついてくる。
「本当、申し訳ありませんでした」
何度も謝りながら、希はテーブルを拭いた。彼女は特に答えなかったが、希のあとから現れた信を見て、少し微笑んだ。
その笑みに、希は思わず手を止めて見とれた。そして、不思議そうに信を見上げた。信は心配げに眉を寄せている。
「大丈夫か、真冬?」
「平気よ、直接かかったわけじゃないんだから」
「信さん……お知り合いですか?」
信と彼女――真冬を交互に見ながら、希が訊いた。
信は少しバツが悪そうに頬をかき、真冬がまた少し微笑んだ。
今度のその笑顔は、なぜだか少し淋しそうに、希には思えた。
「中学が一緒だったのよ。私が先輩」
「あ……でも、真冬って……」
呼び捨てにしたのに、と云いかけて、慌てて希は口をつぐんだ。ぶしつけな詮索だと思ったからだ。信も真冬も、何も云わなかった。
「ご迷惑おかけしました。……その、ごゆっくりなさってください。失礼します」
不自然なほどあたふたと頭を下げて、希はその場を離れた。
振り返ると、信と真冬が談笑している。信は女の子相手なら誰にでも優しい笑顔を見せるが、それでも今の表情は特別なように思えた。
そして、真冬のほうも。きつい印象を与える美貌だが、今は柔らかく微笑んでいる。
お似合いの二人だな、と、希は少し苦い気持ちで考えた。
*
今日もルサックは混雑しており、まだ昼間だというのに目の回るような忙しさだった。シフトに入っていない健が、希には少し恨めしかった。
「……ふう」
食器を洗い場に下げて、希は額を軽くぬぐった。フロア内を軽く見回す。
自動ドアが開く音に出入り口へ目を向けると、黒髪の女性が出ていくところだった。
「あ……」
我知らず、希はあとを追って走っていた。
「あ、あのっ」
店の前の短い階段を降りたところで、呼びかける。真冬は怪訝そうに振り返り、相手が希だとわかると、ほんの少し表情を和らげた。
「なあに?」
「その……本当に、ごめんなさい、今日は……」
そう云って、希は深々と頭を下げた。真冬は微苦笑を浮かべて、首を振った。
「いいのよ。ほんとにたいしたことなかったんだから」
「でも……」
「いいから。じゃね」
軽く手を振って、真冬は踵を返そうとした。だが、希が蒼白な表情でうつむいているのに気づいて足を止め、その顔を覗き込んだ。
「どうしたの? あなたこそ、気分が悪いんじゃないの?」
「い、いえ……平気です」
「そうは見えないけど……」
頬に指を当てて、真冬は少し首を傾げた。
自分のことを気遣ってくれるその様子に、希は無理矢理笑顔を浮かべた。
「ほんとに大丈夫です。ごめんなさい、逆に心配してもらっちゃって」
「……」
「……こんなだから……私……ダメなんですよね……」
「……」
真冬の目がすっと細くなる。そうすると、ますます猫に近い印象を与える。
その目で見つめられて、なぜか希は会ったばかりの彼女に、心の内を吐露してしまっていた。
「自分が……嫌になるんです……。いつもいつもドジで、失敗してばっかりで……。私なんて、周りに迷惑かけることしかできないんです。……大事なひとを……傷つけることしか……」
「……」
「私は……私なんて……価値のない人間なんです……」
「……」
真冬は何も答えない。かといって答えに困っている風でもなく、ただじっと、細めた瞳で希を見つめていた。
希はふと我に返り、赤面しつつまた深々と頭を下げた。
「ご……ごめんなさいっ。何云ってるんだろ、私、ほんと……」
「――私ね」
「……え?」
ため息のように、不意に発せられた言葉。その響きに思わず希は顔を上げた。
真冬は、希を見ていなかった。青空に面を向け、夏の太陽を眩しげに見つめていた。
「私ね、信に捨てられたんだ」
「……え……?」
希にはしばらく、その意味がわかりかねた。
だって、さっき、あんなに――。
「振られちゃったのよ」
微笑みながら繰り返し、真冬は視線を降ろした。まっすぐに、希を見つめてくる。
嘆きとも怒りとも悲しみとも取れる、そしてそのどれでもないと思える、不可思議な微笑。
「それって、私に価値がないからかな? 信にとって、私が無価値な女だったから?」
「ち……違います、そんなの! そんなわけ、絶対……!」
だって、さっき、ふたりの間にはあんなに穏やかな空気が流れていたのに。
たとえ昔、何があったとしても、今の信に彼女への愛情はないとしても、お互い大切に想っている、それだけは確かなはず。
希はそう確信していた。そして、何より――。
「真冬さん、すっごく素敵です。価値がないなんて、とんでもないですよ。私も、真冬さんみたいだったら、どんなに……。信さんだって……」
思わず強い口調で、真冬の手を取るようにして、希は言い募った。
真冬は黙って希の言葉を聞いていたが、不意に、ニッ、と、唇の端だけで笑って見せた。猫のよう、と彼女が呼ばれる由縁。
「ありがと。じゃあ信はともかく、あなたにとって、私は価値のある存在なのね」
「当たり前です! 信さんだって……」
「あなたのことも、そう思っているひとがいるはずよ」
「……え……」
思いがけない言葉に、希は沈黙した。真冬の顔を、その目を、じっと見つめる。
吸い込まれそうな黒い瞳が、優しく、希を見つめ返していた。
「価値がないなんて、自分で決めることじゃない。それはあなたを大切に想っているひとに、失礼なことよ」
「そんな……私なんて……」
言い淀みながらも、希は真冬から目をそらすことができなかった。
真冬はもう一度、唇の端だけで笑った。
「いつか、あなたも気づく。気づかせてくれるひとに……早く、出会えるといいね」
「……」
踵を返して、真冬は歩き去った。
けして振り返らないその後ろ姿を、希は茫然と見送っていた。
店の人が誰か自分を呼んでいるようだったが、それでも希はただそこに立ち尽くしていた。
あとがき
暗躍する真冬ねーさんシリーズその3。また書いてしまいました(^^ゞ。
云うまでもないと思いますが、今作はぽむさんの「迷い猫」に触発されたものです。よい刺激をありがとうございます>ぽむさんm(__)m。私に希SSが書けるとは思いませんでした(^^ゞ。イメージ外してなければいいんですが……。
タイトルは、ブギーポップシリーズ「ハートレスレッド」のもじりです(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。