橋の上の猫

 橋を渡り始める前から、南つばめは、彼女のことに気がついていた。
 欄干に外を向いて腰掛け、風に吹かれている。長く艶やかな黒髪が、緩い風にわずかになびいていた。
 彼女は、遠くからでもどこかしら人目を引くものがあった。
 もちろん、こんな夜更けに、女性が一人、欄干に座っていれば、目立たないはずはない。だがそれだけでなく、彼女には一種独特の存在感があった。だからこそ、いつもは周りに無関心なつばめが、その姿から目を離すことができなかったのだ。
 つばめが一歩一歩近づいていっても、彼女は振り返らない。
 やがて、その表情がわかるところまで接近したとき、つばめは、はっと息を飲んだ。
 彼女は、涙を流していた。
 夜の闇よりも深い色をした瞳から、とめどなく涙があふれている。
 それなのに、彼女の表情には、嘆きも怒りも悲しみもなかった。あえて何かを探すとすれば、それは――「決意」であったかもしれない。
 そこまではつばめにはわからなかったが、涙に濡れた彼女の横顔は、清冽な川の流れのように、つばめの心を打った。

「……どうしたの?」

 気がつけば、つばめは彼女に声をかけていた。
 彼女は振り返らない。涙を流し続け、暗い夜の川を見つめたままで、答えた。

「……何が?」

「何がって……」

 言葉に詰まり、つばめは眉をひそめた。
 無視されることは予想していたが、そんな反問が返ってくるとは、思いもしなかったのだ。

「泣いているじゃない」

「……」

「どうして……泣いてるの?」

 訊いてから、すぐにつばめは後悔した。この場に居合わせたことさえ、間違いだったような気がしてくる。
 それは、他人が触れてはいけないことのように、今更ながら思えた。
 けれど、彼女はやはり振り向きもせず、涙を流したままで、再び口を開いた。

「泣きたかったから」

「……え?」

「意味なんかない。理由もない。ただ泣きたかったら、泣いているの。それだけ」

「……」

 強がりには、聞こえなかった。
 なんの気負いもなく淡々と、しかし凛とした響きを持ったその言葉。
 その言葉を口にした、彼女の表情。
 そこには同情する余地など、まるでなかった。
 ――それなのに。

(どうして……?)

 つばめは、自分自身に問いかけた。
 どうして、こんなに切ない想いが、胸を満たすのだろう。
 風に立つライオンのように凛々しい彼女から、どうして子猫のような心細さを感じるのだろう。

(ただ泣きたかったから、泣いているの。それだけ)

 彼女がそう云えるようになるまで、どれだけの痛みを越えてきたか。そう思うから、自分の胸も痛むのだろうか。
 それとも。自分にはないその潔さが、私を責めるのだろうか……?
 考えても、答えは出ない。それ以上の忖度も許されるはずがない。だから、つばめは、頷くしかなかった。

「……そう……」

「ええ」

 短い、彼女の答え。
 立ち去るべき時間だった。
 つばめはそれ以上何も云わず、歩き去ろうとし――、ふと、何かに気づいて足を止めた。
 ポケットからあるものを取り出し、つばめはそれを彼女に差し出した。

「あげる」

「……?」

 初めて、彼女が視線を動かした。彼女が見つめる先に握られていたものは、鮮やかな黄色が目を打つ、一つのレモンだった。
 そっと手を伸ばし、彼女はレモンを取った。鼻先に持っていって匂いをかぎ、はっと目を見開いた。
 やがて、その面にはゆっくりと笑顔が浮かんできた。その笑みは、まるであどけない少女のようで、つばめはさっきまでの表情との落差に驚いて、言葉を失っていた。

「この香り……同じだわ……」

「え……?」

「あの庭も……こんな香りでいっぱいだった……」

「……!」

 その言葉を聞いた瞬間、つばめは彼女の肩を掴んでいた。
 驚いた彼女が、当惑した視線をつばめに向ける。しかし、つばめにはもう彼女の気持ちを推し量る余裕はなかった。

「知ってるの? この香りのする場所……!」

「……」

「教えて。お願い。どこなの、それは?」

 蒼白になって、すがるように問いかけるつばめの面を、彼女はじっと見つめた。吸い込まれそうな黒い瞳で。

「どうして……?」

「え……?」

「どうして、そんなに知りたいの?」

 その言葉は、つばめへの問いかけではなかった。つばめの疑問に対する、彼女の答えだった。そのことに気づいたつばめは、面を引き締めて、唇を噛んだ

「意味なんかない。理由もない。ただそこに行きたいだけ。行かなきゃ……いけないだけ」

「……」

 そう答えたつばめを、彼女はまたしばしじっと見つめ――、そして、ニッ、と、唇の端だけで笑った。そうすると、猫のような印象があった。

「朝凪荘」

「え?」

「朝凪荘、よ。この橋を渡って、それから――」

 彼女は朝凪荘までの道順を簡単につばめに教えた。
 彼女の口から語られるその情景は、つばめが持つ遠い過去の、けれど脳裏に焼き付いて離れない光景と一致していた。愛しむべき、唯一の記憶と。
 つばめは話を聞いているだけで、胸が高鳴り、涙が浮かんできてしまった。
 そんなつばめを、彼女は不審に思うでもなく、微笑んで見つめていた。

「わかった?」

「ええ、ありがとう」

「そう。それじゃ」

 軽く手を振ると、彼女はまた顔を背けて、川の流れを見つめた。
 つばめはその後ろ姿に頭を下げ、足早に歩き出そうとした。ところが。

「あ……待って」

「え?」

 思いがけず呼び止められ、振り向いたつばめに向かって、黄色いものが放り投げられた。慌てて胸元で受け止めたそれは、さっき彼女にあげたレモンだった。

「やっぱり返すわ。その香り、ちょっと切ないから、今は」

「……」

「変な奴住んでるけど、よろしくね」

 最後にもう一度猫のように笑い、彼女はつばめに背を向けた。長い髪をかき上げる。
 つばめはしばしその姿を見ていたが、もう彼女には、話をする意志はないことはわかっていた。
 踵を返して、つばめは橋を渡る。渡り終えたところで振り向くと、彼女はまだそうして川を見ていた。
 そういえば、名前も聞かなかったな……そう思いながら、彼女から返されたレモンを持ち上げた。目を閉じて、軽く息を吸い込む。
 懐かしく、愛しく、心を乱す香り。
 この香りが、私を導いてくれると思っていた。だったら、あのひとは……?
 つばめが目を開けたとき、彼女の姿は、なかった。




2001.11.5

あとがき

暗躍する真冬ねーさんその4。いい加減にしろ、と云われそうですが、もうここまで来たら意地でも全員と絡めてやろうかと(^^ゞ。
今回はミステリアスな雰囲気を出そう……と思ったら、わけわかんない話になってしまいました(^^ゞ。いやー、つばめって、他のキャラと絡めにくい絡めにくい。……言い訳ですが。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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