そのひとは、実に気持ちよさそうに爆睡していた。
日曜の早朝ということもあり、シカ電はがらがらだった。この車両の中にも、僕と彼女しかいない。
彼女は僕の向かい側、座席の端っこに座り、手すりに頭をもたれさせている。電車が揺れるたびにその頭も揺られるけれど、一向に目を覚ます気配はなかった。
彼女の黒髪は、腰まで及ぶほど長い。しかし、幸いなことに(――と云うべきだろう、やはり)寝顔を隠す役には立っていなかった。
控えめに云っても、かなりの美人だ。信くんが一緒なら、きっと放っておかなかったと思う。
寝顔はあどけないけど、年上なのは間違いない。女子大生ぐらいだろうか?
そんなことをつらつら考えながら、僕は彼女の寝顔を飽きもせず眺めていた。
見とれていたわけではない、と思う。ただ、あんまり穏やかなその寝顔は、ただ見ているだけで和むというか、こっちまで穏やかな気持ちにさせてくれたのだ。
ほたるが一緒だったら、「なに見とれてるの!」って、きっとすごい剣幕で怒り出しただろうけど。
――そんなことをまた考えてしまって、僕は苦笑することもできず、せっかく落ち着いた心が再び波打ち、ざわめくのをどうすることもできなかった。
ほたるは、もう、そばには、いないんだから。
そのことをわずかな時間でも忘れていたくて、僕は見ず知らずの女性の寝顔なんか、ぼんやり見ていたのかも知れない。情けないったらないな。
そうして、僕が深いため息をはき出したとき、電車は終点の藤川に着いた。
この電車は車庫に入ります――そう車掌さんのアナウンスが聞こえてくる。けれど、彼女は相変わらず、幸せそうな寝顔のままだった。
数秒、どうしようか迷ったものの、僕は彼女の肩にそっと手をかけて、声をかけた。
「もしもし。終点ですよ」
「……ん……」
……うるさそうに、手を払われてしまった。
いい夢を見ているのだろうか。起こすのは僕も忍びないが、放っておくわけにもいかない。
「起きてください。終点ですってば。車庫に入っちゃいますよ」
「……んー、なによ、もう、うるさいなあ……」
かなり理不尽な言葉と共に、彼女はやっと目を開いた。
少し充血した瞳で、じっと僕を見上げてくる。しばしの沈黙のあと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……どなた?」
「えっと……通りすがりの者ですけど……」
「何かご用ですか?」
「いや、だから、終点……」
「……終点?」
彼女の目が大きく見開かれる。やっと本気で覚醒する気になってくれたみたいだ。慌てて辺りをきょろきょろと見回している。
「……って、ここ、どこ?」
「藤川ですけど」
「藤川っ? ……あたし、藤川から乗ったのに、終点って……なんで?」
「……」
つまり、彼女は藤川からこの電車に乗って眠ってしまい、そのまま一往復してしまったわけだ。
……一往復ですんでいれば、いいんだけど。僕は思わず吹き出しそうになるのを、ぐぐっとこらえていた。
「……ま、いっか。このまま、またこれに乗ってればいいのよね」
「残念ながら、車庫に入るそうです、この電車」
「え、そうなの? はあ、しょうがないなあ……」
ため息と共に彼女は立ち上がり、そして、僕に少し照れたような笑顔を向けた。
「ごめんね。どうもありがとう」
「あ、いえ……」
彼女の後に続くような形で、僕も電車を降りた。
彼女はそのままホームのベンチに座り、ひとつ大きなあくびをした。
……また、ここで寝てしまうんではないだろうか。
そんな心配をしたわけではなかったが、僕はなぜか自販機で缶珈琲を二本買い、彼女に一本差し出していた。
「……え?」
「眠気覚ましに、よかったらどうですか?」
「……」
ベンチに腰掛けたまま、彼女は僕の手の缶珈琲と、僕の表情を、交互に見比べた。そして、少し眉をひそめて、呟いた。
「もしかして、ナンパ?」
「い、いえっ、そんなんじゃ……」
確かに、そう取られても不思議ではない。というか、そうとしか思えないだろう。僕はいったい、何をやってるんだ。
思わず赤くなって首を振る僕に、彼女はいたずらっぽく笑いかけた。
……正直、ドキッとした。
「あっさり否定されるのも、傷つくなあ」
「あ、す、すいません、えっと……」
「冗談よ。……ありがとう、いただくね」
細い腕を伸ばして、彼女は缶珈琲を受け取ってくれた。
白い指がプルタップを引き、薄くルージュを引いた唇が飲み口につけられる。
そんななんでもない仕草に、僕は目を奪われていた。
……本当、何をやってるんだろう、僕は。
「キミも飲むなら、座ったら?」
彼女が腰をずらして、ベンチを半分開けてくれる。
「あ、はい、失礼します!」
「……面白い子」
ほとんど最敬礼をして腰を下ろした僕に、彼女はまた微笑んでいた。きっと、本当は「おかしな子」と云いたかったに違いない。
「でもさ、ナンパじゃないなら、どうして珈琲おごってくれたりしたの? あたし、そんなに物欲しそうに見えた?」
「いえっ、そういうんじゃなくて……っ」
「そう? じゃあ、キミは誰にでもそんな風に優しいのかな? そういうのって、誤解されちゃうぞー」
「……」
息が止まるかと、思った。
誰にでも優しいとか、そんなつもりはなかった。そもそも、僕は自分自身が優しい人間だなんて、考えられない。
だけど、周りからはそう見られる僕の態度が、何よりほたるを傷つけた。そう、知っていたはずなのに――。
「……あ、ごめん、失礼なこと云っちゃったかな?」
黙り込み、青ざめていたかも知れない僕に、彼女は気遣わしげな視線で謝った。
僕は強いて笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「あ、いえ、そのとおりだなって思っただけで……」
「……」
「そんなだから……彼女は……」
「……恋人、いるんだ?」
「いた……と云ったほうが、正しいかも知れませんね、もう。今はもう……そばにいないから」
「……え?」
彼女の表情がすっと暗くなる。眉をひそめて、じっと僕の顔を見つめていた。
「いないって?」
「……留学、しちゃったんです。いつ帰ってくるのか……また逢えるのかどうかも……わからなくて」
それどころか、連絡を取る手段もない。このまますべてが静かに、おぼろげになって消えていくのだろうか。
ほたるが教えてくれた、「悲しみを愛おしむ」という気持ち、それさえもまだ僕にはわからず、今の僕はただ途方に暮れていた。
そんな僕に対し。彼女は、ふっと、微笑みを向けた。
その笑みは、なぜだか僕の胸をひどく締め付けた。とても美しかったけれど、同時にとてもはかなく、悲しげで――。
「大丈夫よ。きっとまた逢えるわ」
「……どうして、そう云い切れるんです?」
「だって、生きてるんじゃない。どれだけ遠く離れてたって、キミと彼女は、この世界で生きてるの。だから、きっと逢えるわ。逢いたいって気持ちを忘れなければ」
「……え……?」
彼女は変わらず、笑顔だった。
だけど、僕にはどうしても、彼女が泣き出しそうに見えてしまった。
彼女の瞳には、涙の雫さえ浮かんでいなかったのに。
「あたしの友達にもね、大切なひとを亡くしてしまった男の子がいたの。キミと同い年ぐらいかな。彼の場合、事故で……本当に、もう二度と、そのひととは逢えなくなってしまった……」
「……」
「苦しんで苦しんで……ううん、その彼だけじゃない、彼をずっと見守っていた女の子も……、彼のそばにいた人たち、みんな……すごく苦しんだと思うよ……」
「……」
「想い出にしなきゃいけないのって、すごく悲しい……。だけど、キミたちはまだまだ想い出になんかならないじゃない? これから、いくらでもチャンスはあるんだから……」
「……はい」
彼女は友達の話だと云ったけど、そうは思えなかった。
いや、友達の話も本当なのかも知れないが、それだけではない、彼女自身の痛みが彼女の言葉からはこぼれていて。
僕はただ、頷くしかできなかった。
「……頑張れよ、少年」
彼女は満面の笑顔を浮かべると、缶珈琲を一息に飲み干した。
ちょうど、下り電車が入ってくる。彼女は立ち上がって空き缶をゴミ箱に捨て、最後にもう一度、僕に笑顔を向けてくれた。
「それじゃ。ごちそうさま」
「いえ、僕の方こそ……ありがとうございました」
「ん? あたしは何もしてないと思うけど……」
首を傾げながら、彼女は電車に乗り込んだ。ドアが閉まる間際、振り返り、僕に手を振ってくれた。
軽く手を挙げて答えながら、名前ぐらい聞いておけばよかった、と僕は後悔していた。
発車のベルが鳴り、電車が動き出す。それを合図に、僕も踵を返したとき。
「少年!」
景気のいい声に呼び止められ、慌てて振り向いた。
彼女は電車の窓を開けて顔を出し、子供のような笑顔で声を張り上げていた。
「珈琲のお礼に、おねーさんからアドバイス! 今度、彼女に逢えたらね! そこがどこだろうと、思いっきり抱きしめてあげなさい! 二度と離さないって!」
「……」
「わかったぁ!?」
「……はいっ!」
気恥ずかしさも何もかも忘れて、僕も大声で答えて、彼女に手を振った。
*
そして、わずかに時は流れ。
ちっぽけな約束を果たすために、思いがけず僕の前に再び現れた、最愛のひとを前にして。
僕は。
「健ちゃんは、ほたるのこと、どのぐらい好き?」
「このぐらい、大好きだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
校庭のど真ん中。
大観衆の見守る中。
ほたるを強く抱きしめて、二度と離さない、誓いのキスをした――。
あとがき
同人誌『Eternal 2nd』に寄稿したものです。
我ながら、異色の組み合わせでしたね(^^ゞ。
健が小夜美ねーさんの顔を知らないことが前提になってるんですが、書き終えてから、そういえば信に写真を見せてもらうイベントがあったな、と気づいて冷や汗。でも、あれはほたるシナリオを順調に進んでれば、見ることのないイベントのはずなので……。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。