Memories Off Next Generation
彼氏彼女の事情

 とても珍しいものを見てしまい、上條大吾は、思わず立ち止まって目を丸くした。
 あの鳴沢夢深ゆめみが、道端で茫然と立ち尽くしている。
 いつも気丈で、自信たっぷりで、毒舌大全開の、あの、鳴沢夢深が。
 どうしよう、このまま何も見なかったことにして、引き返した方がいいだろうか――そんなことまで考えたとき、ようやく大吾は、夢深の状態に気づいた。
 夢深は車道に背を向けて立っている。制服のその背中は、泥水をかぶってひどい有様になっていた。
 車道には大きな水たまりがある。おそらく、トラックか何かに派手に引っかけられたのだろう。
 そこまで見て取ると、放っておくわけにもいかず、大吾は夢深に近づいて声をかけた。

「鳴沢」

「……上條」

 声に反応して、夢深が顔を上げる。
 さすがに涙目になってはいなかったが、途方に暮れた表情をしていた。そんな顔も、滅多に見られるものではない。

「どうしたんだよ、そんな格好で」

「見ての通りよ。好きでこんな格好してるわけないでしょ」

「……派手に食らったもんだ」

「急だったからね……」

 夢深は本を探して、藤川まで来たのだという。そして、お目当ての本をようやく見つけて、それが嬉しくて胸に抱えて歩いていたところ、トラックが法定速度違反で走ってきた。
 その音と、自分の横にある水たまり、その二つに気づいた瞬間、夢深は車道に背を向けて胸の本を抱きしめた。派手な水しぶき。冷たい不愉快な感触――。

「気づいたんなら……」

 飛び退くとかすればよかったじゃん、と顛末を聞いて云いそうになった大吾は、ふと気づいて続きを飲み込んだ。
 確か夢深は、足が少し悪かった。

「まあ、本が汚れなくてよかったわ」

 夢深は抱えていた本を見直して、ほっと息をついた。大吾は不思議そうに首を傾げる。

「そんなに大事な本だったのか?」

「本はみんな大切よ」

「……わかんねー」

「アホだからでしょ」

 やっといつもの調子を取り戻して、夢深はふふんと笑った。眼鏡の奥の瞳が、挑発的に瞬いている。
 大吾は無言で肩をすくめた。

「じゃあね」

 夢深は踵を返して、歩き始めた。泥水まみれのままで。
 あれじゃあ、きっと電車にも乗れない。右足を少し引きずるようにして、それで藍ヶ丘まで歩いて帰る気だろうか。
 きっと彼女は、毅然と背筋を伸ばして歩くのだろうけど。嘲笑も同情も、一切受け付けないで。
 そう知っていたから、大吾はその背中に声をかけた。

「なあ、うち、寄ってけよ」

「……え?」

 不審げに眉をひそめて、夢深が振り返った。大吾はわずかに赤面して、頭をかいた。

「その格好で帰るのも大変だろ。うち、ここからなら近いからさ。洗ってけよ」

「……」

 しばしの逡巡のあと、夢深は小さく頷いた。

     *

 あいにく、そのとき大吾の家には誰もいなかった。
 そのことを知って、夢深はやはり断って帰ろうとしたのだが、

「俺がお前を襲うとでも思ってるのかよ」

という大吾の台詞に、氷のような視線で答えて、家に上がった。
 大吾は夢深を風呂場に案内し、着替えを持ってきた。

「俺の服しかないんだ。我慢してくれ」

「……うん」

「洗濯機使っていいからな。じゃ」

「あ、上條……」

「ん?」

 一度閉めようとしたドアを戻して、大吾が顔だけ出した。
 夢深はわざときつい表情で答える。

「覗いたら、どうなるか、わかってるわよね」

「……俺はそんな命知らずじゃねーよ」

 お互いに舌を出して悪態をついて、大吾は出て行った。
 夢深は、閉じたドアに向かってため息をつく。本当は、ありがとう、と云おうとしたのに。

「……アホか、私は」

 強く頭を振って、夢深は脱いだ制服を乱暴に洗濯機へ突っ込んだ。

     *

 憎まれ口を叩いたものの、ダイニングで夢深を待っている間、大吾は落ち着きなくそわそわしていた。
 同い年の女の子が、今、この家でシャワーを浴びているのだ。動揺しない方が不健全である。
 ……それにしても遅いな、鳴沢の奴。女って、こんなに風呂が長いのか? いったい何をやって……って、いやいや、別に変な想像したわけじゃないぞ? ああ、こんなところに親が帰ってきたら、なんて云おう。いや、別にやましいことがあるわけじゃなし。事実をありのままに説明すればいいだけだ。でも、お袋は人の話なんか聞きゃしないしなあ。それにしても遅い。まさか、実はどこかぶつけてて、倒れてるとか? いや、そんな様子はなかったし。ちょっと見に行って……バカバカ、何を考えているんだ、俺は。俺には、心に決めた人が――。

「……上條?」

「うわわわわっ」

 不意に声をかけられて、大吾は文字通り飛び上がった。
 振り向くと、大吾のロングTシャツにジャージをはいた夢深が、怪訝そうにこちらを見つめて立っている。怪訝そう、というより、明らかに挙動不審者を見つめる眼差しだ。

「何やってんの? なんかぶつぶつ云ってたし。アホ?」

「い、いや、お前こそ、何やってたんだよ、長風呂だな」

「……女の子相手にそういうこと云うの、サイテー」

 口調こそ変わらなかったが、夢深はわずかに頬を染めていた。大吾はますます狼狽してしまう。

「あ、いや、悪い」

「……洗濯終わるの待ってたからね」

「そ、そっか」

「……」

「まあ、その、座れよ。珈琲でも入れるわ」

 大吾は立ち上がって、カップを取ろうと食器棚へ向かった。頷いた夢深がテーブルの方へ歩いてきて、ちょうどすれ違う形になる。シャンプーの香りが、大吾の鼻をくすぐった。

「……」

 思わず大吾は振り返った。
 夢深はぶかぶかのシャツの袖やジャージの裾を引っ張って、折り曲げている。大吾の身長は一七五センチ。体格もいい。ほっそりとした体つきで、背も一六〇センチ程度の夢深では、大吾の服は丈が余ってしょうがない。
 その姿が可愛らしく思えるのは……やっぱりどうかしている。大吾は夢深に気づかれない内に視線をそらし、やかんに水を入れてコンロにかけた。
 お湯が沸くのを待つ間、大吾もテーブルに戻って、夢深の向かいに腰掛けた。
 互いに話題を探すような沈黙が落ちる。居心地悪げに、大吾は姿勢を崩した。
 そう云えば、夢深と会うのは久しぶりだ。中学の頃は、特に話題に困ったりとかはしなかったが、あれはさやかがいたからだろう。仲良し三人組、というほどのつきあいではなかったけど、あんな風につきあえた女友達は、今はまだいない。

「……ありがとう、上條」

「あ、あん?」

 またしても不意に声をかけられ、しかもそれが思いがけない内容だったので、大吾は目を点にして夢深を見つめた。夢深ははにかんだ様子だったが、目をそらさず、まっすぐに大吾を見返した。

「やっぱり、こういうことはちゃんと云わないと、と思って。助かったわ。ありがとう」

「いや……別に」

 もごもごと言い淀む大吾の姿に、夢深が微笑む。しかし、その笑みはすぐにいつもの皮肉っぽい形に変わっていった。

「でも、正直、意外だったわ」

「意外? 何が?」

「上條が、他人に気を遣う人間だったなんて」

「……おい」

「さやかへの仕打ちを見てると、信じられない」

「……」

 気がつけば、夢深の雰囲気は一変していた。冷たい刺すような視線に、トゲのある言葉。
 昔から、夢深は自分の「敵」には容赦しない。そして、今、夢深は「敵」を見る目で大吾を見ていた。
 大吾は息を飲んだが、目をそらしはしなかった。

「……どういう意味だよ」

「上條が誰に惚れようが勝手。でもね、さやかの気持ちを知ってるなら、もう少し違う態度もできるんじゃないの」

「気を遣えってのか」

「いたたまれないわ」

「それは、さやかに頼まれたのか?」

「さやかがそんなこと、云うわけない」

「だったら、お前が口を出す筋合いはないってことだ」

「上條!」

 思わずテーブルを叩いて、夢深が立ち上がった。
 大吾は唇を噛み、表情を歪めながらも、それでも真っ直ぐに夢深の視線を見つめ返した。

「気を遣って、優しくして、それでどうなる。俺が好きなのは、かおるさんだ。さやかじゃない」

「……」

「無神経で嫌な奴、そう思ってくれていい。……その方が、いいんだ」

「……上條……」

 初めて困惑した様子を見せて、夢深が大吾を見つめる。大吾もそれ以上は何も云わず、睨むような眼差しを向けていた。
 やがて、深いため息と同時に、夢深が腰を下ろした。皮肉げに、優しく微笑んで、呟く。

「……アホね」

「ほっとけ」

「アホが二人。お似合いなのにね」

「え? なんだって?」

「なんでもない。お湯、沸いてるわよ」

「――おおっと!」

 さっきから白い湯気を勢いよく噴き出していたやかんに駆け寄り、大吾は慌ててコンロの火を止めた。ネスカフェの瓶に手を伸ばした瞬間、

「インスタントは却下」

と指令が下り、しかめっ面でフィルターの準備をする。
 夢深は頬杖をついてそれを見守りながら、もう一度、呟いた。

「……アホ」

     *

 翌朝。夢深はいつも通り早い時間から教室に入り、本を読んでいた。
 昨日、買った本だ。昨晩は結局、家に帰ってからも妙に気が散って、読むことができなかった。
 もっとも、学校にいる間も、落ち着いて読書ができる時間はあまりないのだが。なぜなら――。

「おっはよー、ゆめちゃんっ」

 相変わらず朝から元気のいい声がかけられる。
 夢深が首をひねってそちらを見ると、長くボリュームのある髪を高々とポニーテールに結わえた小柄な女の子が、満面の笑顔で立っていた。

「おはよう、さやか。今日も元気ね」

「うんっ、ありがとっ」

「別に褒めてないけど」

「……ゆめちゃんは、どうしてすぐそういう云い方するかなあ」

 一瞬、ふくれっ面になったものの、すぐにまた音羽さやかは破顔して、夢深が持っている本に目を向けた。

「あ、それ、昨日、探しに行った奴? 見つかったんだ。よかったね」

「うん。……ああ、それでね、昨日……」

「え?」

 云いかけて、ふと夢深は口をつぐんだ。さやかが不思議そうに首を傾げる。
 夢深は彼女らしくない、曖昧な微笑を浮かべて、かぶりを振った。

「ううん、なんでもない」

「えー、なになに、途中でやめたら気になるよー」

「なんでもないったら。それより、さやか、一時間目の数I、当たるんじゃないの? 大丈夫?」

「ええっ、そうだっけ? どうしよう、ゆめちゃん、予習してる?」

「――はい、これ」

「ありがとう、ゆめちゃん大好きっっっ」

 ノートを渡すと、さやかは大感激して抱きついてきた。はいはい、と軽くいなしながら、夢深は足下に目を向ける。
 そこには紙袋が置いてあった。中には、昨日、大吾から借りた服が入っている。
 制服がなかなか乾かなかったので、やむなく大吾に服を借りて帰ったのだ。それを洗って持ってきていた。
 さやかに、渡してくれるよう頼もうかと思ったのだが、昨日の大吾の言葉を、さやかに伝えるわけにはいかない。それでは大吾の気持ちが台無しになる。
 その件は伏せておいて、ただ単に「昨日、上條に会ったよ」そう伝えればよかっただけなのだけれど、なぜか云いそびれてしまった。

(……ま、いっか)

 たいした話ではない。わざわざ話すようなことでは。
 無理矢理自分を納得させているような不自然さに、自分自身気づいていながら、夢深は思考を停止した。
 視線を横に向けて、自分のノートを一所懸命写しているさやかを見つめる。

「……ねえ、さやか」

「え? なに?」

「さやかは、上條のこと諦めたりしないわよね」

「なっ……な……」

 絶句して青ざめたのも束の間、さやかは唐突なその問いかけに、耳まで真っ赤にして顔を上げた。

「な、なに云ってるの、ゆめちゃん、こんな朝っぱらから!?」

「別に。確認しただけ」

「……ゆめちゃん……?」

 ふいと視線をそらして、夢深は窓の外に目を向けた。頬杖をついて、青い空を見つめる。
 不思議そうに、そして心配そうに自分を見守っているさやかの視線を感じながら、夢深は誰にも聞こえないよう、小さな声で呟いた。

「……アホは、三人かな」


end


2003.1.18

あとがき

ついにオリキャラしか出てこないものを書いてしまいました。メモオフじゃないよ(^^ゞ。
しかも、いきなり番外編みたいな内容だしなあ。まあ、キャラを作り込むための草稿みたいなものだと考えてくださいまし。
……とは云うものの、夢深が真冬とキャラかぶりすぎですな、我ながら。私にはこういうキャラしか作れないのかも。情けない……(T_T)。
それでもご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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