「一蹴は、私の髪を触るのです」
突然、対面の彼女が呟いたその言葉に、木瀬歩はストローを口にくわえたまま、ん?と首を傾げた。
いつもなら行儀が悪い、と叱られるところだが、今の彼女には目に入っていないようだった。面を伏せたまま、彼女――藤原雅は言葉を続けた。
「こう……私の髪を……とても優しい仕草で……」
恋人の手つきをまねるように、そっと雅は自分の髪をくしけずった。
歩はやはりストローをくわえたまま、その雅の様子をじっと見つめていたが、やがてにかっと意地悪げに微笑んだ。
「なんやなんや。久しぶりに会うたと思たら、いきなりのろけかいな」
「――ち、違います、この愚か者っ。そんな話をしているのではありませんっ」
歩の冷やかしに、たちまち雅は耳まで真っ赤になって云い募る。
そんな姿が可愛らしく思えることに、今さらながら歩は少し驚いた。本当、変われば変わるものだ。雅も、自分も。
「だったら、なんやの? 誰が聞いてものろけにしか聞こえんと思うけど。髪触られるの、嫌いなん?」
「……そうでは、ありません。一蹴の手は優しくて、とてもあたたかい……」
――やっぱ、のろけやん。
言葉には出さず、歩は内心で肩をすくめた。
しかし、それにしても雅の表情は悲壮だ。恋人の好ましい仕草を思い出して、どうしてこんな沈んだ顔になるのだろう。
歩はそれ以上、問いかけず、じっと雅の言葉を待った。
グラスの氷が溶けて落ち、底に当たって堅い音を立てる。それがきっかけになったように、雅は再び口を開いた。苦しげに胸を押さえて、ためらいがちに。
「陵が……」
「――え?」
「以前、見たことがあります……。一蹴は、陵と話しているとき、いつも彼女の髪を触っていました……。とても優しい目をして……」
「……」
「一蹴が私の髪を触るのは……そのときの癖ではないかと……。いえ、もしかしたら、陵を思い出して……」
「あほちゃうか」
雅の言葉を遮った、歩の台詞。
その内容を雅が理解するのに、数秒かかった。
はっと顔を上げて、歩の意地悪い笑顔を見つめ、そしてだんだんと頬が紅潮し――。
「な、なんと申しましたかっ!? 人が真剣に話をしているのに、云うに事欠いて、あ、あほ――」
「はいはい、店の中で大声出したら迷惑やで」
激昂を軽くいなされ、雅は唇を噛んで歩を睨んだ。
怒った顔も可愛いなあと考えて、歩は苦笑してしまう。可愛さ余って憎さ百倍というなら、その逆もあるんやろうか。最近の私、ちょっとおかしいわ。
「まあ、鷺沢君と陵さんは、校内でも有名なバカップルやったからな。あんたが気にするのもわかるわ」
少し真面目な表情になって歩がそう云うと、雅ははっと息を飲んで、また面を青ざめさせた。
歩は身を乗り出し、そんな雅の目を正面から見つめた。まっすぐ、真摯な瞳で。
「木瀬……?」
「鷺沢君てな、いっつも真剣じゃなかったやろ。適当におちゃらけて、自分の本心隠しとったように思うわ」
「……」
「そんな鷺沢君が、卒業式ジャックして、愛の告白やで。信じられんわ」
「……その話は……」
あのときの話をされると、雅は身の置き所がなくなってしまう。恥ずかしくて恥ずかしくて――、同時に、とても幸せで、どうしようもなく頬が熱くなる。
その姿に、歩は微笑む。からかうような、意地悪で、優しい笑顔。
「そこまでやってもろうて、鷺沢君を信じられへんの。この贅沢もん」
「もちろん信じています! 一蹴は私の、私だけの――」
「オレが、何?」
「……っ」
思いがけない話題の人物の登場に、雅は今度こそ絶句して、目を見開いた。歩が腹を抱えて爆笑しているのさえ、止められないぐらい。
「なんだ、楽しそうだな。なんの話?」
「な、なんでもありません、この虚け者っ。どうして、こんなところにいるのですかっ」
「……どうしてって、オレたち待ち合わせしてたんじゃないの? あ、木瀬さん、久しぶり。雅と約束だった?」
憮然として面を逸らした雅の隣に、鷺沢一蹴は腰を下ろした。
笑いすぎで滲んだ涙をぬぐいながら、歩は一蹴に軽く手を上げて挨拶した。
「お久しぶり。ううん、偶然会うたとこ。いきなりのろけ聞かされとったわ」
「木瀬!!」
「あはは、ほんなら邪魔者は退散しますわー。……あ、鷺沢くん」
「ん?」
笑いながら立ち上がった歩は、一蹴の耳元に口を寄せた。そして、雅に見せつけるように、わざと雅にも聞こえる程度の声で囁いた。
「私との約束、覚えてるやろな」
「……ああ、もちろん」
にやっと歩が笑い、一蹴も照れた笑いを返した。雅はますます面白くない。
「ほなね。そうそう、鷺沢くん、藤原さんが訊きたいことあるって云うとったで」
「木瀬、いい加減に――!」
「怖い怖い。ほな、また電話するわー」
「結構です!!」
雅の怒声を聞き流して、手を振りながら歩は店を出て行った。
そんな二人の様子が、一蹴には嬉しかった。雅と歩が、友達であることが。高校時代の不幸な行き違いをなかったことにはできないけれど、これからいくらでも新しい絆を作っていけることが。
しかし、一蹴のその想いは、残念ながら今の雅には通じていなかった。
「何をにやけているのです」
そっぽを向いたまま、じろりと横目で睨んでくる。相当ご機嫌は斜めのようだ。
「いや、別ににやけてなんか」
「にやけています。そもそも、木瀬との約束とはなんなのですか」
「――たいしたことじゃないよ。それより、雅がオレに訊きたいことって?」
「ふんっ、誤魔化そうというのですか? いったい、何人の女と、どんな約束をしているのか」
ますますへそを曲げてしまった雅に、一蹴は苦笑しつつ頭をかく。
だって、照れくさくて云えるわけがない。あの卒業式の日、「絶対に二人で幸せになる」と約束したことなんて。
「ほんとにそんなんじゃないって。気にするなよ」
「全然気になんてしていません。私には関係な――」
云いかけて、雅は息を飲んだ。
一蹴が手を伸ばして、雅の髪を撫でている。優しい仕草で、愛おしむように、雅の柔らかい髪をくしけずる。
「……どうして」
「え?」
ゆっくりと、雅が振り向いた。そして、ようやく機嫌を直してくれたかと期待した一蹴は、さらに驚いて目を瞠ることになった。
雅はまるで泣き出しそうな顔をして、まっすぐに一蹴を見つめていた。
「雅? どう――」
「どうして、私の髪を触るのですか?」
「どうしてって……嫌だったか?」
「そんなことを訊いているのではありません」
震える唇を噛みしめて、雅は一蹴の言葉を待っていた。あの夜と同じように。
いつもの一蹴なら、ただの癖だよ、と茶化してすませてしまっていただろう。けれど、今の雅を前にして、そんな風な誤魔化しはできなかった。
「……好き、だから」
「……え?」
「雅の髪が好きだから……雅の髪を触るのが好きだから……」
「……」
「雅が……好きだから」
「一蹴……」
真顔で二人が見つめ合う――のも、束の間。
一蹴は雅の髪を乱暴にくしゃくしゃと撫でた。
「きゃっ……何をするのですか、この虚け者っ」
慌てて一蹴の手から逃れて、雅は髪の乱れを直した。そうしながら睨んでやると、一蹴は笑っていた。頬を少し赤らめた、照れ笑い。
「この……愚か者」
もう一度、雅は悪態をついた。どうしようもなく、笑ってしまいながら。
一蹴も笑い返しつつ、また手を伸ばして、雅の髪を撫でた。指を絡めるように、優しく。
雅は眼を細めて、呟いた。
「悔しいですけど、木瀬の云ったとおりでした」
「え? 木瀬さんがなんて?」
「なんでもありません」
すっかりいつもの調子に戻った雅は、反論を許さない口調でぴしゃりと云う。そして、目を閉じて微笑んで、恋人の優しい仕草に身を任せた。
あとがき
雅エンドは3種類とも色々妄想をかき立ててくれます。特に「雅 〜夢〜」エンドは後日談書きたくてしょうがないですが……とりあえずは、ラブラブバカップルな話から(^^ゞ。
この二人がいちゃいちゃする話は、シリーズ化して書きたいぐらいですね。いや、雅、可愛いよ(またか)。
木瀬は外見も関西弁なところも私の好みなんですが、ゲーム中では気の毒な役回りで……。雅と対立したのは、雅の態度に問題があったことも大きいので、もうちょっと彼女はフォローしてあげてほしかったです。という願いも多分に入っています(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。