三月の風は、まだ冷たかった。
数日前には大雪が降ったぐらいだから、無理もないだろう。今年は春の訪れが遅いのかも知れない。
――いや、それどころか。もう二度と、わたしの心に、春は来ないのかも。
そんなことを考えてしまって、陵いのりは手に持っていた筒を強く握りしめた。
筒の中には、卒業証書が入っている。
今日、いのりは卒業した。もう、お別れだった。三年間、通い続けた浜咲学園とも、十年間、想い続けた鷺沢一蹴とも。
「一蹴……」
呟いた名前が、さらに激しくいのりの胸を切り裂いた。
卒業式の出来事が思い出される。
あの一蹴が、卒業式のさなかに声を張り上げて、あのひとの元へ走り、強く抱きしめて――。
「格好良かったな、一蹴」
本心から、そう思う。
迷いもためらいも捨てて、ただ一心に愛するひとの幸せを願うその姿は、彼女の大好きな鷺沢一蹴そのものだった。彼を好きになってよかった、本当にそう思った。
……けれど、次の瞬間には。
その彼が見つめる視線の先には、もう自分がいないことを思い知らされて。自分で選んだことなのに、どれだけ大きなものを失ったのか、今さらのように身にしみて。
だから、いのりはひとり、あてもなく街を歩いている。
卒業式のあと、友達から打ち上げに誘われたけど、断った。彼女らの瞳にあった、微量ないたわりや哀れみが疎ましかったということもあったが、今はただ、こうして一蹴との想い出のひとつひとつを確かめていたかった。
それなのに。
「……何やってんだ、てめえ?」
「――え?」
押し殺した声で呼びかけられ、いのりは振り向いた。
人の心にナイフを突き立てるような、錆びた響きを持つその声の持ち主は、確かめるまでもなく。
「飛田、さん……」
「相変わらず、しけた面してやがる。嘘で塗り固めて、――リナの想い出を踏み台にして、あの野郎と幸せになるんじゃなかったのかよ」
侮蔑しきったようにせせら笑う飛田扉を、いのりは唇を噛みしめて睨み付けた。
この人が現れなければ、一蹴から離れることもなかったのに。たとえずっと……一蹴に嘘をつくことに……なっても……。
繰り言を浮かべ、そしてその浅ましさに自分で気づいてしまい、いのりはますます蒼白になる。
扉はそんないのりの表情を見て、片眉を跳ね上げた。
「それとも、やっぱり一蹴に捨てられたか? てめえみたいな薄汚い女には、ふさわしい結末だな」
「――」
残酷なはずの扉の言葉が。
なぜだか、いのりにはすとんと腑に落ちるようで。
いのりは、微笑んでいた。瞳に涙を溜めたその笑みは、とても悲しげだけれど、同時にまるで違う何かをはらんでいた。
そしてそれは、とてもひどく、扉のかんに障った。
「……なに、笑ってんだよ」
扉の声がいっそう低くなり、危険な色が覗く。しかし、いのりは怯えた風もなく、微笑んだままで答えた。
「その通りだから、です」
「なんだと……?」
「一蹴は……あのひとと、新しい道を、歩き始めました。もう……苦しむことは……ないんです」
「……」
いのりを睨む扉の目が、ますます険しくなる。そうして、獰猛な獣のような表情で、扉は薄く笑った。
「なるほど、そういうことか」
「……」
「リナを忘れることで罪から逃げ出し、今度はてめえを忘れて、苦しみから逃げるのか。……気に入らねえ。気に入らねえな」
吐き捨てると、扉はいのりになどもうなんの興味もないように踵を返した。
その後ろ姿に、云いようのない危険な気配を感じて、いのりは思わず扉の腕を掴んで引き留めていた。
「放せ」
「……何を、する気ですか」
「てめえにはもう関係ねえ」
扉は乱暴にいのりを振り払おうとした。しかし、いのりは扉の腕を放さない。いっそう手に力を込め、そしてそれ以上に、瞳に強い光を宿して扉を睨みつけた。
「一蹴を傷つけるのは、許さない」
「……なに、云ってんだ、てめえ」
扉の目が一瞬、見開かれた。信じがたいものを見るような眼差しで、いのりを見下ろす。
「一蹴が憎くねえのかよ。ええ?」
「憎い……?」
その言葉を、いのりはゆっくりと繰り返した。
扉の云わんとするところは、いのりにだってわかっていた。自分を裏切って、ほかの女を選んだ一蹴が憎くないのかと、そう問いかけているのだ。
もちろん、別れたことに納得なんてできていない。一蹴から離れたのは自分だから、その間にほかのひとが一蹴の心に入り込んでも仕方がない、そう何度も自分に云い聞かせた。
だけど、そんなわたしを一蹴は一度は許してくれたはずだ。愛している、そう云ってくれた。
それなのに、最後はあのひとを選んだ。それを裏切りだとなじり、憎むことができたら、どんなに――。
「どうして……?」
「あん?」
いのりの問い返した意味が、扉にはわからない。
怪訝そうに首を傾げた扉の姿は、しかし、いのりの瞳にはもう映っていなかった。
一蹴と、手を繋いで歩いた街。
一蹴と、花火を見上げた夜。
一蹴と、一緒に修復した教会。
一蹴が髪を撫で、頬に触れ、唇を重ねた。
たくさんの想い出の、すべてが。
「憎むことなんて……できるわけないよ……」
わずかに微笑んで、いのりは呟いた。
その笑みは、さっきのものと同じだった。深い悲しみを湛えながら、同時に、何もかもを赦してしまうその笑顔。
扉にはやはりその笑顔が苛立たしい。そこにある想いを認められない、認めるわけにはいかなかった。
だから、扉は心底呪いを込めて、吐き捨てた。
「くだらねえ」
「……」
「くだらねえよ、てめえらは本当によ」
今度は強くいのりの肩を突き飛ばすようにして、振り払う。さすがにいのりも支えきれず、扉の腕を放して後ずさった。
扉はもういのりを振り返りもせず、歩いていく。
「待って! 待ってください、飛田さん!」
「てめえらみてえなくだらない連中と関わるのは、もうごめんだ」
「……え……?」
「二度と俺の前に面見せるんじゃねえ」
吐き捨てて、扉は歩き去った。
いのりはほんの少しの間、呆然とその背を見送っていたが、やがて扉の後ろ姿に深々と頭を下げた。
そして、顔を上げたとき、そこにはもうさっきまでの暗い翳りや、深い憂いはなかった。
そう、憎むことも捨てることも忘れることもできない。
どれだけ胸が痛んでも、それでも私は一蹴を想い出すだろう。ずっとずっと嘘をついてきた私だけど、この気持ちだけは、誰にも汚せない真実だから。
微笑んで、いのりは歩き出す。
ピアノが弾きたい、素直にそう思った。
聴いてもらえなくても、届ける術がなくても。
抱えきれないほどあふれてくるこの想いを、音にしたい。
それがきっと、憧れ続けたあの音だと、理由もなく信じることができた。
あとがき
「雅 〜夢〜」エンドが好きです。そりゃあ雅がいちばん幸せになる「雅 〜愛〜」エンドがベストなはずなんですが、どうしてもあのエンディングを手放しで喜べないのは、あの卒業式にいのりもいることを考えると、あまりに切ないから。きついですよねえ、あれは。
ということで、自力フォロー。内容的には、いのりTrueの焼き直しに過ぎないのは自覚しておりますが(+_+)。
……しかし、このシリーズは雅と一蹴のほのぼのバカップル話だったはずなのですが、2作目からいきなり脱線(^^ゞ。
えーと、「雅 〜愛〜」エンドにまつわるお話ってことにしておいてください。次は木瀬メインで書きたいなー、とか云うだけ云ってみる。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。