1
朝の爽やかな光の中、耳障りな目覚まし時計の音が響き渡る。
その無粋な騒ぎは、オレが手を下すまでもなく、すぐに止まる。細く白く、たおやかな手によって。
そして、オレの体が軽く揺すられる。甘い囁き声と共に。
「しょーちゃん。朝だよ、起きて」
その声をもっと聞いていたくて、オレはつい寝たふりを続けたくなってしまうのだが、あまりやりすぎて怒らせると、彼女は怖い。
オレはゆっくりと瞳を開ける。
するとそこには、精緻な彫刻のような美貌に、童女のような笑みを浮かべた最愛のひとが、いる。
「おはよう、しょーちゃん」
「おはよう、沙子」
微笑んで、口づける。
沙子は少し頬を染めながら起きあがった。
「ご飯の用意するから、しょーちゃんは顔洗ってきて」
「あいよ」
大きく伸びをしながらオレも立ち上がり、沙子が差し出してくれたタオルを持って洗面所へ向かおうとした。
――が。
エプロンをつけて台所に立つ沙子に、つい見とれてしまう。沙子は文武両道なだけでなく、家事もなんでもこなした。まさにパーフェクトだ。
多分にやけていただろう、オレの視線に気付いて、沙子が振り向いた。そして、軽く頬を膨らませて、洗面所の方を顎で指した。
「もう、何やってるの、しょーちゃん? 遅刻しちゃうよ?」
「ああ、悪い悪い、沙子」
苦笑しながら、今度こそ洗面所へ入る。
気恥ずかしくて、オレはすぐに彼女の呼び名を「いさこちゃん」から「沙子」に変えてしまったが、彼女はオレのことを変わらず「しょーちゃん」と呼ぶ。
震えるほどの美人である彼女が、甘えた声で「しょーちゃん」と囁く。もうそれだけで、何がどうなってもいいような気がしてくる。
――本当に。ただ、この幸せに溺れていられれば、どんなに。
「しょーちゃん、ご飯できたよ」
「……サンキュー、すぐ行く」
冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗い、オレは乱暴にタオルで顔をこすった。タオルからは、ほのかに沙子の香りがしたような気がした。
*
大学までの道のりを、二人で歩いた。
最近、「台風号」はお休みが多い。荷台のないマウンテンバイクでは、二人乗りをするには、いわゆる「立ち乗り」をしなければならないからだ。
長身でこの美貌の沙子と立ち乗りで、毎日通学するのは、あまりに目立つ。……沙子は、やりたがって困ったのだが。
オレとしては、離れ離れになってからの長い年月を埋めるように、ゆっくり歩きながらいろんな話ができるのは、単純に嬉しかった。許せ、台風号。
もっとも、話をするのはオレの方が多かったけれど。彼女には、話題にしたくない過去が、多すぎたから。
大学に着くと、まず掲示板をチェックしに行った。
学生として当たり前の行動なのだが――、今日は、タイミングが悪かった。
「……あ」
怯えたように、沙子がオレの服の袖を掴む。オレももちろん、気づいていた。
掲示板の前に、数人のグループがいる。その中に、ひときわ明るく、ヒマワリのように笑う女の子がいた。明るい色の髪をソバージュにして、今日は何が入っているのか、大きなバッグを肩から提げて。
やがて、彼女もオレたちに気づいた。それまでの笑顔が消えて、暗い、刺すような視線でオレたちを見据える。
オレは無理矢理笑顔を作って、彼女に手を振った。
「よ、おはよ、なゆ」
「……」
なゆは答えない。全く興味がないようにオレたちを黙殺すると、仲間たちを促して歩き去ってしまった。
その背中を見送っていると、我知らずため息が漏れる。そんなオレの袖を、沙子がもう一度、強めに引っ張った。
「行こう、しょーちゃん」
「沙子……」
「行こう」
沙子は振り向かない。なゆを目で追おうともしない。最初から最後まで、ずっと面を逸らしていた。
……沙子がうちに転がり込んできてから、もうじき二週間になる。
ある日の真夜中、突然のインターホンにドアを開けると、沙子がその黒く澄んだ瞳を涙でいっぱいにして、立っていたのだ。
那由多と顔を合わせるのが怖い、と云って、沙子は泣いた。
那由多にはずっとひどい仕打ちをしてきた。愛する人――恥ずかしながらオレのことだ――まで奪ってしまった。そんな那由多に、どう接すればいいかわからないと。
これまでは、ただなゆを、他人を拒絶してきた沙子。彼女自身を縛り上げていた鎖を断ち切ることに、オレは成功したのかもしれないが、それだけですべてがうまくいくほど、人間関係は甘くない。
そのことをオレは思い知った。
だけど、それでも。
「……しょーちゃん?」
「ああ、行こう」
彼女の手を取って歩き出すと、沙子は嬉しそうに微笑んだ。
二度とこの笑顔を失わせるわけにはいかない。
だったら、そのためにオレは、何をすればいいのだろう――。
2
季節は秋の色を深めようとしていた。
テレビも音楽も消して、窓を開けて耳を澄ますと、虫の声が届いてくる。
風情がある、と人は云うかも知れない。
だけど、もしこれが一人きりだったら。きっと、淋しくてやりきれない想いになるだろう。
「お待たせ、しょーちゃん」
風呂場のドアが開いて、バスローブ姿の沙子が出てきた。黒く艶やかな髪が濡れそぼち、頬が上気した姿が、ぞくぞくするほど色っぽい。
こうして、二人、穏やかに幸せに暮らしていけるのなら。
ただそれだけでいいのではないか。
そんなことを、つい考えそうになってしまう。
だけど。
「しょーちゃん、お風呂早く入っといでよ」
沙子がバスタオルを差し出してくれる。オレはそれを受け取ろうとした手で、沙子の手を握った。
「しょーちゃん?」
不思議そうに、沙子が首を傾げる。
そのまま腕を引き寄せて、オレは沙子を抱きしめた。
「ダメだよ、まだ髪が濡れて……あ……」
云いかけた言葉を、唇で塞ぐ。
長いキスのあと、唇を離すと、沙子ははにかんだ笑みを浮かべた。しかし、オレの瞳に思い詰めた何かを見つけたのか、すぐに表情を引き締めた。
「どうしたの? しょーちゃん」
「なゆの……ことだけど……」
「……!」
息を飲んだ沙子の表情が、見る見る青ざめる。オレはすでに半ば後悔していたけれど、絞り出すように言葉を続けた。
「このままじゃ……いけないと思う……」
「……」
沙子はオレから体を離し、顔を背けた。
なゆの話になると、いつもこうだ。
「沙子だって、いつまでも家を空けているわけにはいかないだろう?」
「……いらない」
「え?」
「家なんかいらない。帰らなくていい。しょーちゃんがいれば、それだけで」
「沙子……」
愛しさと切なさで、胸が詰まる。
本当は、沙子自身、わかっているはずなのに。そんなこと、オレがわざわざ口にして、沙子に突きつけなくてもいいことのはずなのに。
「だけど、なゆは……あの家でひとりぼっちなんだぞ?」
「……」
「誰もいない、あの家で……ずっとずっとひとりで……」
「――しょーちゃんは」
オレの言葉を遮って、沙子が叫ぶように声を上げた。
あのときと同じように、瞳を涙でいっぱいにして。
そんな風に泣かないでほしいのに。そんな、砕けそうな泣き顔で。
「しょーちゃんは、わたしより那由多が大切なの?」
「そんなことを云ってるんじゃない」
「だったら、もうやめて! あの家には、わたしの居場所はないよ。わたしのいられる場所は……しょーちゃんのそばしかないの……」
「沙子……」
泣き崩れる沙子を、もう一度抱き寄せた。沙子はオレの首に手を回して、子供のように泣きじゃくっていた。
そうだ、沙子の居場所は、オレが必ず作る。何があっても、沙子の帰る場所はある。それだけは断言できる。
だけど、沙子。それなら、なゆの居場所は、どこにあるんだ……?
3
その日、オレは教室でひとりぼんやり座って、黒板を眺めていた。
オレと沙子も、いつでも同じ授業に出ているわけではない。いや、むしろ違う授業の方が多いだろう。
なんと云っても、学部が違う。それに、オレは単位を取りやすいことを優先して履修していたのに対し、沙子は自分が興味あるものだけを取っていたからだ。
すでに授業は始まっていい時間だったが、講師が所用で遅れているらしい。だったら、いっそ休講にしてくれればいいのに、とオレがアクビ混じりに考えたとき。
誰かが俺の前に立った。何気なく顔を上げてその人物を確かめて――、オレは、息を飲んだ。
「やっ、ショーゴ」
「……なゆ……」
なゆだった。これまでずっとオレたちを無視してきたなゆが、自分から声をかけてくるなんて。
もちろん、和解してくれる気になった、なんて期待はしちゃいない。その証拠に、彼女の面にあるのは以前のような笑顔じゃなくて、挑発するような不敵な薄ら笑いだった。
「今日は一人なのね。いつでもどこでもベタベタしてて、みっともないったら」
「そういう云い方……」
「ちょうどよかったわ。頼みがあるの。顔貸して」
云い捨てて、なゆはもう歩き始めていた。
これから授業が……なんて、云えるはずがない。オレは慌てて荷物をまとめると、なゆを追って教室を出た。
*
「あの女に、伝言してほしいの」
人気のない校舎の裏手にオレを連れてくるなり、前置きもなく、なゆはそう云った。
「伝言?」
「そう。あたしを鳴海の戸籍から抜いてくれって」
「なっ……!?」
絶句したオレに構わず、なゆは淡々と言葉を続けた。
「問題ないでしょう? あたしは戸籍上、ただの養女なんだから。血の繋がりなんてない」
「違うだろう! 沙子はなゆの、たった一人の姉さん……」
「あんな女、姉さんなんかじゃない!」
怒りと憎しみに燃える瞳で、なゆはそう叫んだ。
その絶望の激しさに、オレは何も云えなくなる。それとも最初から、何を云う権利もなかったのか――。
なゆは激情をすぐに抑えると、再び冷笑を浮かべた。そんな笑い方、なゆにはちっとも似合わないのに。
「ショーゴたちにも、その方が好都合じゃん? 邪魔者が消えて、晴れてあの家で二人で暮らせるようになるわよ」
「そんな云い方はやめろよ!」
「……」
「なゆは……なゆは、邪魔者なんかじゃない!」
「――だったら!」
「……っ」
襟首をねじ上げられていた。激情が常ならぬ力を与えているのか、なゆの細い腕を振り払うこともできない。呼吸さえ苦しくなってくる。
「な……ゆ……、苦し……」
「だったら、どうして、沙子を選んだの! どうして、あたしじゃなくて、沙子を!」
「なゆ……」
「沙子はずるいよ! ショーゴと先に逢ってた……それだけで……どうして、ショーゴが沙子のものになるの……? あたしから、誇りも、生きる力も奪って、その上、ショーゴまで……!」
大きく見開いたなゆの瞳から、涙が次々こぼれ落ちる。
怒りに顔を赤くしていたなゆは、しかし、次の瞬間、とても優しい笑みを浮かべた。とても優しく、そして、とても恐ろしい――。
「ねえ、ショーゴ、どうして……? どうして、あたしじゃなくて、沙子なの……?」
「なゆ……」
「あたしは、醜くて汚らわしい? ショーゴも、やっぱりそう思ってるんだ?」
「違う、なゆ、そんなんじゃ……」
「違わないわ。そうよね。そうよ。真実のことだもの。いいんだよ、ショーゴ」
「なゆ……」
「でも、ショーゴは沙子に渡さない。渡さない……!」
「……ぐ……」
襟首から手を離され、ほっとしたのも束の間、今度はその指がダイレクトにオレの首を締め上げた。爪が皮膚に食い込み、血が滲んでくる。
「な、ゆ、や、め」
「渡さない……!」
意識が遠のきそうになる。
ダメだ。こんなこと。沙子が。沙子。いさこ……。
「那由多!」
空気を裂くような凛とした響き。
その声にはっと振り向いたなゆが、一瞬、腕の力を緩めた。その隙にオレはどうにかその手をふりほどいたが、走り出すこともできず、その場にうずくまってしまう。酸素を求めて、肺が荒れ狂っていた。
「何をしている! 彼から離れろ、那由多!」
厳しく叩きつけるような声音。
「沙子さん」の声だ。ダメだ、沙子、あの頃の自分に戻っちゃいけない。それじゃあ、何も変わらない……。
「離れろと云っている! さもないと……」
「さもないと、何?」
全く動じない、なゆの声。さっきよりもずっと冷たく聞こえる。
顔も上げられないのが、かえって幸いだったかも知れない。今、なゆがどんな表情をしているのか……確かめるのが怖い。
「さもないと、あたしを殺す? そうね、やってみれば? あなたなら、あたしを殺せるよね」
「……」
「さあ、殺しなさいよ! お父さんと同じように、あたしも殺せばいいわ!」
「……!」
沙子が息を飲むのが、はっきりわかった。
違う。あれは事故だった。
そう叫ぼうとしたが、とうていまだオレの喉は、言葉を出せる状況ではない。
それでもどうにか立ち上がろうともがいてみたが、無様に地面を這うだけだった。
「……私はどうすればいい、那由多」
一転、暗く沈んだ沙子の声が聞こえる。
泣いては、いないだろう。「沙子さん」は、涙を見せることもない。
そんな想いだけは、二度とさせたくなかったのに――!
「どうすれば、お前の気が済む。どうすれば、私はお前に許してもらえるのだ」
「許す……?」
沙子の言葉を繰り返したなゆは、次の瞬間、哄笑を放った。体を折るようにして、大声で笑い続ける。
「ははははははっ。許す? 許すですって? 許してほしいの、沙子?」
「那由多……?」
「そうね。そうよ。あたしも、ずっと思ってた。ずっとずっと思ってた。お姉ちゃん、許してって。醜くて汚らわしいあたしを、どうか許して、沙子お姉ちゃんって」
「那由……」
「だけど、あんたは! そんなあたしを、ずっと汚物を見るような目で見ていたのよ! ずっと! ずーーーっとね!!」
「……」
「そんなあんたが、許してほしい? 笑わせないで!」
沈黙が落ちる。
誰も何も云わない時間が、どれだけ過ぎた頃か。
静かすぎる声で、なゆが最後の宣告をした。
「あんたに許されなくて……あたしは最後に、何を考えたと思う……?」
「……」
「あんたの存在を消してしまおうって、思ったよ。そうすれば、もう憎まれなくてすむの。醜い、汚らわしいって、云われなくてすむんだ」
「……」
「だから、あたしからもう憎まれたくないのなら、あたしを殺しなさい」
4
オレの首には、なゆの爪痕と、締められた痣がしっかり残っていた。まだちょっと暑いけど、しばらくはタートルネックの服でも着て、ごまかすしかない。
部屋に帰って、オレはぼんやりと、そんなどうでもいいことを考えた。
沙子も一緒だ。肩を借りなければ、オレは歩けない状態だった。人目を避けながらタクシーを拾い、ここまで帰ってきた。
「……」
「……」
どちらも、何も云わない。
沙子は黙ってオレの手当をし、少し休むよう促した。
オレは素直にベッドに横になり、目を閉じた。
現実逃避だとわかっていたけれど。ほんのわずかな時間だけでも、何も考えずに眠りたかった。
*
物音に気づいて、目を覚ました。
何気なく首を回し、そこに立つ沙子の姿を見て、飛び上がるように体を起こした。
沙子はここへやってきたときのように、荷物をまとめて、その手に持っていた。
「……何してんだ、沙子?」
「……起こしてしまったか」
硬く、冷たい声。
届かない、姿。
すぐそばにあるのに、遠すぎる。
なぜ。もう一度。
「手紙を書いておいたのだが、逃げるようで、心苦しかった。せっかくだから、直接云っておこう」
沙子が顔をこちらに向ける。
整いすぎた美貌。冷たく、自分以外――いや、自分さえ拒絶する、その瞳。
「那由多のところへ行ってやってくれ」
「何を……云ってるんだ……沙子……」
「那由多には、あなたが必要だ。あの家と財産も、那由多に渡るよう、手配しておく。那由多を支えてやってくれ。頼む」
「何を云ってるんだ、沙子!」
「……これは、姉としての頼みだ」
その一言を口にしたとき。
彼女は「沙子さん」ではなく、「いさこちゃん」だったと思う。
だから、オレは引き留めずにはいられなかった。ドアを開けようとする沙子に駆け寄り、腕を掴む。
その瞬間、振り返った沙子の拳が、オレのみぞおちを直撃した。
「……ぐはっ……」
手加減なさすぎだよ、沙子……。
崩れ落ちるオレの体を、沙子が支え、そっと床に寝かせる。
おぼろげになっていく意識の中で、最後に捉えたのは、彫刻のように精緻な美貌に、童女のよう泣き顔を浮かべた、最愛のひとの姿だった。
「ごめんね、しょーちゃん。……さよなら」
5
……意識を取り戻すと同時に、立ち上がった。みぞおちが痛んで、吐きそうになる。
どれぐらい気を失っていた?
時計を見る。二時間ぐらいか?
オレは慌てて外へ飛び出し、「台風号」にまたがった。
久しぶりの愛車はタイヤの空気が少し抜けていたが、構わずオレは全力でペダルを踏み続けた。
*
「……ショーゴ……」
不審げに、なゆが眉をひそめる。オレは構わず、玄関のドアをこじ開けるようにして、家の中に踏み込んだ。
「沙子はっ!? 沙子は、来てないのか?」
「沙子ぉ? ここにいるわけないじゃん。何寝ぼけてんの?」
「いなくなっちゃったんだよ、あいつ!」
「いなくなった……?」
一瞬、なゆの表情が歪んだように見えた。
だが、それを確かめる間もなく、なゆは昼と同じような嘲笑を浮かべた。
彼女がそんな風な笑い方をするようになってしまったことを、悲しむような余裕は、もう今のオレにはなかった。
「なゆを頼むって! そう云い残して、いなくなっちゃったんだぞ、あいつは!」
「……! へ、へえ」
「なゆ! お前は、それでも……!」
「いい気味よ。あの女も、やっと自分の身の程がわかって、……きゃっ!」
バン、と壁を叩く音に、なゆが身をすくませた。
オレが、壁を殴ったのだ。血が滲み、骨がイッちまったんじゃないかって勢いで。
「……殺すぞ」
「……ショーゴ……」
何を云う気なのか。何を口にしているのか。
もう止まらなかった。
「オレは前に、『殺したいほど憎いなんて気持ち、わからない』って云った! だけど、今ならわかる。沙子に何かあったら、オレはなゆを殺す! 殺してやるぞ!」
「……」
「……だけど」
泣いていた。とめどなく涙が溢れて、そして気がついたら、なゆを抱きしめていた。
「だけど、そんなのは……嫌なんだ……」
「ショーゴ……」
「嫌なんだ……どうして……そんな風に思える……。大切な人だったはずなのに……どうして……そんなこと……」
「……」
「オレは……嫌だ……!」
なゆの手が、オレの背に回される。
ほんの少しの時間、なゆは力を入れて、オレを抱きしめた。
しかし、すぐオレの肩を掴んで力を入れ、オレの体を引きはがした。
「ぐずぐず云ってる場合じゃないよ! 沙子を捜すんでしょ!?」
「なゆ……」
「急いで! 心当たりは!?」
「沙子が行きそうなところって云えば……あの公園ぐらいしか……」
「よし、じゃあ、行こう!」
「でも、そんなわかりやすい場所へ……?」
「大丈夫! きっといるよ。あたしにはわかるもん!」
自信たっぷりに、なゆはそう云いきった。
そして、少し悔しそうに、だけどとても嬉しそうに、呟いた。
「わかるよ。たった一人のお姉ちゃんだもん」
「……なゆ……」
「行くよ! ぼけっとしない!!」
6
「台風号」の後ろになゆを乗せて、オレはペダルをこいだ。
立ち乗りをしているなゆは、落ちないよう、オレの肩を掴んでいる。
その手に少し力が入ったかと思うと、なゆが口をオレの耳元に寄せて、囁いた。
「あはっ、なんか懐かしいね。覚えてる? 初めてこうして、ショーゴのチャリに乗せてもらったときのこと」
「……ああ、なゆの家に初めて呼ばれたときだっけ」
「そう。……そのとき、うちで沙子に逢ったんだよね、ショーゴ……」
「……」
「家になんか、呼ばなければよかったな。そうすれば、ショーゴと沙子が運命の再会をすることもなかったのにね。そうすれば、あたし……」
「なゆ……」
「……ごめん……」
オレの肩を掴んだなゆの手が、小刻みに震えている。首筋に、濡れた雫が落ちた。
それでもオレは、何も云わずペダルをこぎ続けた。
*
果たして、そこに沙子はいた。
あの池の前で悄然と立ち尽くす沙子に、オレは声を上げて呼びかけようとしたのだが――。
「い……」
「沙子っっっ!!」
「……!」
なゆの方が、早かった。叫ぶやいなや、台風号から飛び降り、沙子の方へ駆け出していく。
その声に振り返った沙子も、一瞬驚きに顔をゆがめたあと、オレたちに背を向けて走り出そうとした。
「逃げるなっ!」
再び、なゆが叫ぶ。
「逃げるな、卑怯者!!」
「……」
沙子が、足を止めた。振り向かず、オレたちに背を向けたままだ。
「沙子……」
駆け寄ろうとした俺の前に、なゆが手を広げてストップをかけた。
「なゆ……?」
オレの問いには答えず、なゆが一歩踏み出す。その面にある表情は、憎しみでも怒りでもない、だけどそれよりもっと激しく燃えている、何か。
「かっこつけて出てきてさ、こんなところにいたらバレバレじゃん。何考えてんの?」
「……」
「自分から身を引こうなんて、ただのポーズ? ショーゴが追いかけてくるのわかってて、ここにいたの?」
「……」
ひどい言葉だ。沙子がそんなこと、考えるはずがない。
それでも口を挟めなかったのは、なゆもまたそんなこと考えてないって、なぜだかわかってしまったから。
「……違うよね」
「……」
「ここに来ずにはいられなかったんだよね。忘れられない、かけがえのない場所だから。絶対捨てられない想いだから。……ショーゴのことが、大好きだから」
「……」
「――だったら、あたしのこと頼むなんて、つまらないこと云うなっての!」
涙声だった。
驚いて、沙子が振り向く。その黒い澄んだ瞳の前で、なゆは肩を震わせて涙をこぼし、そして晴れやかに微笑んでいた。
「那由多……」
「――あたし、本当はお姉ちゃんに許してほしいなんて、思ってなかった」
「……え?」
「許してくれなくてもいい。ただ、そばにいてくれればよかった。そばにいてほしかった。離れないでいてほしかった」
「那由多……」
「離れないで。一人にしないで。お願い……!」
「那由多……!」
沙子が駆け寄って、なゆを抱きしめた。なゆは沙子の胸で、声を上げて泣いた。沙子も同じように、泣きじゃくっていた。
子供のように――子供の頃を取り戻したかのように泣き叫び続ける姉妹を横目に、オレは顔を上げて、夜空を見上げた。
感動してもらい泣きなんて、ちょっと照れくさかったから。
epilogue
三人での帰り道。
そういえば、三人で歩くのって、これが初めてかも知れない。オレは台風号を押しながら、そんなことを考えて、少し嬉しくなった。
「今日はどうするの?」
なゆが沙子の顔を覗き込んで、そう尋ねる。沙子は微笑んで、頷いた。
「もちろん、家に帰るわよ」
「ほんとっ。やっほー!! ……あ、でも、ショーゴが淋しいね?」
「……バカ、何云ってんだ」
「あ、じゃあさ、いっそあの家で三人で暮らせばいいんじゃない? 部屋余ってるし」
「……なっ……」
「那由多、何を……」
「いいじゃん、いいじゃん。どうせ結婚したら、そうなるんでしょー?」
「けっ……」
ケッコン?
「あ、それとも、ジャマな小姑は追い出しちゃおうって魂胆ー?」
「バカ、そういうことを云ってるんじゃなくてっ」
「一つ屋根の下で暮らしてれば、あたしにもまだチャンスがあるかも知れないし」
「那由多っ」
「ジョークよ、ジョーク。お姉ちゃんはほんとカタいんだから」
なゆがヒマワリのように笑う。
つられて、沙子も花のように微笑む。
この笑顔を、今度こそ守り続けたいと思う。
想い出にかわる前に。
あとがき
構想から完成までわずか五時間足らず。この分量では新記録ですね。あとで読み返すと、めっちゃ恥ずかしい出来だったりして(^^ゞ。
沙子編・那由多編で、姉妹の間にある大きなしこりが全く解決しないまま終わってしまうのが、めちゃくちゃ心残りでした。この二人の場合、どちらかが幸せになればオッケー、とは絶対に考えられない。
実際にはこんなに奇麗事で片づきゃしないでしょうけど、それでも自分の気持ち的に、この二人の関係にちゃんとケリをつけないと、ほかのシナリオやる気にさえなれなかったんですね。なんか、ハマってるな(^^ゞ。
ということで、速攻で書き上げました。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。