きみのためにできること -Hibiki ver.-

 年の瀬を迎えて、千羽谷の街も慌ただしい喧噪に満ちていた。
 そんなざわめきに負けず劣らず、いつも元気いっぱいの女の子が、今日は少し物憂げに頬杖をついているように見える。
 そういえば、彼女は誰かとはしゃいでいるときとは対照的に、一人のときはとても淋しげな目をしているような気がする――そんなことを考えながら、稲穂信はキュービック・カフェのドアをくぐった。

「ナマステ〜。響ちゃん、どうかしたの?」

「……あっ、アカテガニ通り、おはよー!」

 ぱっと顔を上げた瞬間には、いつもと同じ朗らかな笑みを浮かべている。そんな彼女――児玉響に笑い返しつつ、信は同じテーブルについた。

「え? どうかしたって、何が?」

「いや、なんでもないんなら、いいんだけどね。――テンチョー、俺、珈琲ね!」

 響が不思議そうに首を傾げる。自覚がないのなら、それはよほど根が深いのだろうか。信は少し気にかかった。

「ショーゴの奴は?」

「うん、今日は大学で用があるとかで、逢えないんだよ」

「そっか」

「しょうがないよ。ショーゴは勉強熱心だからね。アタシ、邪魔しないんだ」

 そう云って、少し淋しそうに響は笑った。
「勉強熱心」というところに信は異論を挟みたかったが、彼女の気持ちに水を差すようで、黙っておくことにした。
 それにしても、さっきの彼女の憂いは、今日ショーゴに逢えない、それだけだったのだろうか? うまくいっていない、というような話は聞いていなかったが……。

「ねえ、アカテガニ通りぃ」

「……響ちゃん、俺はシンね、シ・ン」

「アタシ、どうすれば、ショーゴにふさわしい女になれるかなあ」

 相変わらず信の苦情は全く聞こえない響に、信はわずかに苦笑したが、彼女が口にした言葉の意味に気づくと、瞬間、眉をひそめた。

「ショーゴと響ちゃんは、今でも十分お似合いだと思うよ」

「ちっがうよン! ショーゴはかっちょいいし、頭もいいのにさ、アタシはバカで、なんの取り柄もないんだよ? ……こんなんじゃ、いつかショーゴに愛想尽かされちゃう……」

「……」

 そういうことか、と信は一人、納得する。
 響が恋人・加賀正午に負い目をもっていることは、わかっていた。
 もちろん、彼女たちはそれを乗り越えて結ばれたはずだが、響の方は、やはりふとした弾みで不安になることもあるのだろう。いつか夢は覚め、彼女の豪華客船は、沈んでしまうことに。
 あの男がそんなにいいかねえ、と内心苦笑したところで、信はもう一組のバカップルを思い出した。

「響ちゃんは、たるたるにちょっと似てるね」

「タルタル? 何それ? あ、わかった! エビフライとかにかける奴!」

「それはタルタルソース。……そうだ、会いに行ってみようか」

「え? エビフライ食べに行くの?」

     *

 浜咲学園の校舎の中を、響と信は連れ立って歩いていた。
 信は堂々としたものだが、響はおっかなびっくりといった様子で、きょろきょろと辺りを見回している。

「ねえ、アカテガニ通り、ほんとにいいの? 学校、勝手に入っちゃって」

「へーきへーき」

「だって、ショーゴが云ってたんだよ。大学生じゃないのに、大学の講義受けるのは、ルール違反だって。アタシたち、コーコーセーじゃないから、コーコーに入っちゃいけないんじゃないかな」

「俺たちは別に授業受けに来たわけじゃないだろ? それに、ちゃーんとここのOGに招待されて入ってるんだから、全然オッケーだよ」

「そ、そっか」

 二人が訪ねようとしている人物は、白河ほたる。ウィーンに留学中の彼女だが、今は年末のため帰省していた。
 信が会わないか、と電話すると、学校に行く用事があるから、そこで落ち合おうと云われたのだった。

「でも、ここって、ショーゴの学校なんだよね?」

「ああ、そう云えばそうだな。あいつもハマガクだっけ」

「わぁぁぁぁ、なんか嬉しいなあ! ショーゴと一緒に来たかったよ」

 さっきまでの不安げな様子はどこに行ったのか、たちまち響は踊るような足取りで、先に立って歩き始めた。物珍しげに、教室をのぞき込んでいく。すでに冬休みになっており、校舎にはほとんど誰もいない。

「へぇぇぇぇ、これがコーコーかあ。チューガクと、あんまり変わらないね?」

「そりゃそうだろ」

「でもでも、いいなあ。アタシも、コーコー行きたかったなあ」

「……」

 響はフリーターをしている。高校に行かなかった理由を信は知らなかったが、彼女の家庭が裕福ではない、ということは、正午から聞いていた。

「アカテガニ通りは、コーコー行ってたのに、やめちゃったんだよね? なんで? もったいないよ」

「……そうだね、確かに、今考えれば、少しもったいなかったかも」

「そうだよ、もったいないよ!」

「でも、おかげで、あのまま高校行ってたら知らないままだった経験ができたよ。だから、俺は後悔してない」

「そう? そうなの?」

「うん。……響ちゃんだって、高校行ってたら、ショーゴには逢えなかったかもしれないよ?」

「うわっ、それは大変だよっ。アタシ、コーコー行ってなくてよかったよ!」

 冗談ではなく、心底安堵した様子で、響は胸をなで下ろした。
 信は苦笑するしかない。まったく、響ちゃんといい、たるたるといい、こんないい子たちが、どうして――。

「……あ、なんか聴こえる」

「ん? ……ああ、ほんとだ。やっぱり、音楽室か」

 それはピアノの旋律だった。
 聴き覚えのあるメロディだったが、なんという曲か、響にはわからない。それでも、その美しい調べに、心が揺らされるのは確かだった。

「キレイな音だね〜。CD流してるのかな?」

「いや、これは人が弾いてるんだよ」

「うそっ。こんなに上手に弾けるの、プロだけだよ!」

「行けばわかるって」

 目を丸くする響に笑いかけながら、信は音のする方に歩いていった。響も慌ててそのあとに続いた。
 やがて二人は、音楽室の前にたどり着いた。ピアノの音は、確かにそこから聴こえてくる。
 信は演奏の邪魔をしないよう、静かにそっとドアを引き開けた。

「……あ……」

 まず目についたのは、大きなグランドピアノだった。幼馴染みの女の子の家に、あんなピアノがあったような気がする。その想い出が、響の胸を小さく刺した。
 そして、そのピアノの前に、長い髪をお下げにした女の子が座っていた。
 あどけない顔をした彼女は、入ってきた信たちに気づくと軽く微笑んだが、演奏の手を止めはしなかった。
 流れるように、鍵盤の上を走る、美しい指。
 魂を奪う、至高の旋律。
 響は茫然とその場に立ち尽くし、その姿に、その音に、釘付けになっていた。
 いつの間にか、演奏はやんでいた。そのことに、響は信の拍手でようやく気づいた。

「ブラボー!! 相変わらず、たるたるのピアノは最高だね」

「えへへ、ありがと、信くん。お久しぶり。……あれ? その子は?」

「……!」

 ほたるに視線を向けられ、響はびくっと体を震わせた。
 信もほたるもその様子には気づかず、屈託のない笑顔で話しかけた。

「もしかして、信くんの彼女?」

「だったら、よかったんだけどねえ。友達の彼女だよ。響ちゃん」

「ふーん。あ、白河ほたるです、よろしくね、響ちゃん」

「……」

 にこやかに挨拶されても、響は笑い返せない。ほたるが不思議そうに首を傾げた。

「たるたると、ちょっと似てると思ってさ。紹介したくなったんだ」

「えー? うそ、響ちゃんの方が、全然かわい――」

「……てない」

「……え?」

「ん? 響ちゃん、どうしたの?」

 小さな呟きに、信とほたるが響の顔をのぞき込む。
 響は蒼白な面持ちで、瞳に涙をいっぱいためていた。信とほたるがそれに驚いた瞬間、響は叫んだ。

「似てない! 似てない! 全然似てなんかいないよ!」

「響ちゃん!?」

「ぶえーーーーーーーーーーーん!!」

 止める隙もあらばこそ。響は踵を返し、走り出していた。

     *

 不案内な校舎の中を闇雲に走り、迷い、走り、転び、また走り、校庭に出たときは、もう響は疲労困憊だった。
 走る力をなくし、とぼとぼと歩いていても、それでも涙は止まらなかった。次から次へと、大粒の涙がぽろぽろとこぼれてくる。
 久しぶりに、心がどかどかしていた。
 あんなに上手にピアノを弾ける人がいる。アタシにはなんにもできないのに。
 周りの人に感動を与えられる人がいる。アタシには、ショーゴにもなんにもあげられないのに。
 才能だけなら理不尽だし、努力の結果なら、もっと理不尽だ。アタシは努力してないの? アタシがなんにもできないのは、やっぱりアタシがバカだから?

「……響ちゃん」

 名前を呼ばれて振り向くと、ほたるが心配そうに見つめていた。
 そんな目で見られると、こんな姿を見られると、もっと心がどかどかしてくる。
 響は乱暴に視線をそらした。

「ごめんね、響ちゃん。ほたる、なんか気に障ること云っちゃったかな?」

「……」

「ごめんね。ごめんなさい」

「――ちっがうよ、ちっがうよ、ちっがうよン!」

 突然の剣幕に、ほたるは思わず怯んだ。響は変わらず、涙を流している。

「ひ、響ちゃん?」

「タルタルは悪くないよ! 八つ当たりしてるんだよ、そんなのわかってるんだよ!」

「……」

「アタシ、バカで、なんにもできないんだよ。わかってるんだよ。ショーゴのために、なにもできない……それが悔しい……すごくすごく悔しんだよ……!」

「……」

 響の叫びを、ほたるは目を丸くして聞いていたが、やがてとても優しい笑顔で響に近づき、そっとその手を取った。白く細いその指で。

「……あ……」

「信くんが云いたかったこと、わかっちゃった」

「え?」

「ほたるはね、ピアノが好き。自分の気持ちが伝えられるように、もっともっと上手くなりたい。ピアノなら誰にも負けないなんて、そんな風にはまだ全然考えられないんだ」

「……」

「そんなほたるだけどね、誰にも負けないもの、持ってるよ? それは、健ちゃんを好きだっていう、この気持ち」

「……」

 ゆっくり面を上げて、響はほたるを見つめた。涙でいっぱいのその瞳を、ほたるは微笑んで見つめ返した。

「だから、頑張れる。健ちゃんが大好きだから、健ちゃんに誇りに思ってもらえるよう、頑張っていける。なんにもできないなんて、嘘だよ。響ちゃんにだって、そういう人、いるんだから。そうでしょ?」

「……うん! アタシ、ショーゴが大好き!!」

「ほたるも、健ちゃんがだぁーい好きだよ!!」

「アタシがショーゴを好きだって気持ちの方が、ぜったいおっきいね!」

「そんなことないよ! ほたるは、健ちゃんのこと、こーーーんなに、好きなんだもん!」

「じゃあ、アタシは、こーーーーーーーーーーーーんなに、好き!」

「じゃあじゃあ、ほたるは、こーーーーーーーーーーーーーんなに、こーーーーーーーーーーんなに、……!」

「……やっぱ、よく似てるよ」

 不毛な、けれど本人たちには非常に重要な議論を少し離れた場所で聞きながら、信は苦笑して肩をすくめた。

     *

「……ねえ、アカテガニ通り」

「うん?」

「ありがとね」

 浜咲学園からの帰り道、駅に向かう途中、響ははにかんだ笑みを信に向けた。

「俺は何もしてないだろ? お礼なら、たるたるに云わなきゃ」

「うん、タルタルにもいっぱいありがとう云ったよ。でも、アカテガニ通りが連れてきてくれたんだから、やっぱりありがとうだよ。ありがとう、ありがとう」

「……どういたしまして」

 苦笑して頭を下げながら、今日何度目かの同じことを信は考える。本当、なんでこんないい子が、あんな男を――。

「あっ、ショーゴだっ!!」

「――そう、ショーゴみたいな……って、へ?」

 驚いて目を向けると、確かに浜崎駅の前に、加賀正午が立っていた。響はすでに駆け出している。
 小走りに信が追いつくと、正午はじろっと不機嫌そうな目を信に向けた。
 ……ああ、そういうことね。気づいて、信はわざと意地悪く笑ってみせる。

「ショーゴ! ショーゴ! ショーゴ! どうしたの? 用事は?」

「早く終わったからさ。カフェに寄ったら、シンと一緒にハマガクに行ったって聞いて……」

「迎えに来てくれたんだ!? ありがとう、ショーゴ、アタシ、嬉しいよ!!」

 人目をはばかるはずもなく、響が正午の首に抱きつく。慌てる正午にもう一度、意地悪い笑みを向けて、信は手を振った。

「じゃあな。俺は久しぶりだから、ちょっとこの辺ぶらぶらして帰るわ」

「お、おい、シン……」

「ばいばい、アカテガニ通り、ありがとねー!!」

「はいよー。……響ちゃん、俺はシンだからね」

 去っていく信に大きく手を振ると、響は正午に向き直った。真っ直ぐで、ひたむきな視線で、正午を見つめる。
 そうして見つめられると、正午は未だ胸が高鳴ることを、残念ながら響は知らない。

「ショーゴ、大好き」

「……な、なんだよ、急に」

「アタシには自慢できるものなんてなんにもないけど、ひとつだけ、誇り、っていうの? そういうの持てるとしたら、ショーゴが好きだって、この気持ちしかないから」

「……なんか、あったのか、響?」

「ううん、ただアタシは、ショーゴが大好きって伝えたかっただけだよ。どうすれば、この気持ちをちゃんと伝えられるのかなって考えたんだけど、やっぱりアタシ、バカだから、ほかの云い方知らないんだ」

 照れているような、悲しんでいるような、喜んでいるような、その笑顔。
 その笑顔に、正午がいつも思うことは――。

「響は、すごいよ」

「……え? すごい? アタシが? なんで? アタシ、すごいの?」

「うん。すごい」

 好きだとか、ありがとうとか、ごめんとか。
 たった一言で伝えられる、大切なその想いを、人はなぜだかうまく口にできずにいるのに。

「……やっっったーーーーー♪ 褒められた♪ アタシ、ショーゴに褒められるのが、いっちばんうれしんだ♪」

 やったやったと、いつものように小躍りする響を止めるため、正午は彼女を抱き寄せた。このまま続けさせると、また転ぶ。
 そして、少し眉を寄せて、ぶっきらぼうに呟いた。

「……なんで、シンとハマガクに来たりしたんだ?」

「え? なんでって? いけなかった?」

「いけないってわけじゃないけど……ハマガクに来たいんだったら、オレに云えば、いつだって……」

「え? え? ――あ、ショーゴ、妬いてる? ヤキモチ妬いてくれたんだ!?」

「バ、バカ、そんなんじゃ……」

「……やっっったーーーーー♪ ショーゴがヤキモチ妬いたっ♪ それって、アタシのこと好きだからだよね? そうだよね?」

「たはーっ……」

 深いため息をついて、空を見上げる。いつの間にか夕焼けが近い。
 視線をおろすと、期待でいっぱいに見開いた瞳で、じっと見つめてくる恋人。
 たまには、響を見習ってみよう。決心して、だけどやはり照れて口ごもりながら、正午は云った。

「……好きだよ」

「……やっっったーーーーー♪」

 暮れなずむ空に、少女の歓声が高らかに響き渡った。


end


2002.12.3

あとがき

どうやって「想君」の世界に真冬を絡ませようか、知恵を絞る今日この頃。だいぶ世界観がねじれてきました。
……あ、いやいや、今回のお話は、ちゃんとゲームの世界観を守っておりますですよ? ほたる、健とラブラブだし。
今回のテーマは、「響、可愛いなあ」それだけです、はい(^^ゞ。
「本当にほしいものなら、盗んでだって手に入れる」そう云い切れる響が、シナリオの最後では、「自分がショーゴを傷つけるならショーゴから離れよう」そう決意する。こんな響は、実は真冬にすごく似てるって思うんですよね。私が響を好きなのはそのせいかも、と最近思ったりします。
だから、響と真冬は一度絡めてみたくてしょうがない……ということで、はじめの行に戻ります(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。

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