病室のドアが静かに開き、緋の装束の女性が滑るように入ってきた。
メディカルセンター内はすでに消灯しており、廊下の誘導灯のかすかな光だけが、部屋に差し込んでくる。それもすぐに閉ざされたドアで遮られた。
当然、面会時間外だ。だが、彼女はもちろんそんなことを意に介するはずもなく、いつもどおり無表情に歩いて、ベッドに近づいた。
ベッドでは、青い髪で穏和な印象を与える女性が、小さく寝息を立てていた。
少し前までは全身を包帯に巻かれ、集中治療室に隔離されていたが、今はもうほとんど傷も見あたらない。驚異的な快復力だと云えた。
傍らでしばしその女性の寝顔を見つめていた彼女は、そっと手を伸ばして、その青い髪を優しく撫でた。表情を変えず、しかし、とても優しい仕草で、そっと。
そして、踵を返して、来たときと同じように滑るような足取りで出ていこうとした。
「帰っちゃうの〜? ルルージュ……」
小さな呟きに足を止め、緋色の魔女ルルージュは振り向いた。
ベッドでは、横になったまま、千鳥がつぶらな瞳を開いて、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
「起きていたんですの、千鳥」
「人の気配がしても目を覚まさないでいられるほど、のんびりした人生じゃなかったじゃない〜? 私も……ルルージュも……」
少しだけ悲しそうな笑顔で、千鳥はそう答えた。
ルルージュは軽くため息をついて、千鳥のそばに戻った。
「北都さんなら、大口開けて寝ているでしょうけど」
「あはは〜、ひどいこと云ってる〜」
「妥当な推論ですわ」
「あはは〜、でも、そうかもね〜。そういうところが、気に入ってるんでしょ〜?」
「……くだらないことを」
つい、と面を背けるルルージュ。千鳥でなければ、照れ隠しだと到底わからないような仕草。
「北都ちゃんは、毎日お見舞いに来てくれるよ〜。ルルージュも一緒に来ればいいのに〜」
「騒がしいのはごめんですわ」
「素直じゃないんだから〜」
ルルージュをかばって重傷を負い、こうして臥所に横たわって、それでも千鳥は変わらず太陽のように笑っていた。その笑顔を、ルルージュは真顔で――いつも以上に真剣な眼差しで、じっと見つめた。
「ん〜? どうしたの、ルルージュ〜?」
「……約束なさい、千鳥。もう二度と、あんなバカな真似はしないと」
一瞬、千鳥の表情も真剣なものになった。ルルージュの思い詰めた視線を受けて。かつて一度だけ見た、その目の光。
けれど、次の瞬間には、やはり千鳥は満面の笑顔を浮かべていた。
「……バカなことしたとは、思ってないけどな〜」
「千鳥」
「うん、でも、約束するよ〜。ルルージュを悲しませるようなことはしない……絶対に……」
……ほんのわずかに。ルルージュは、息を飲んだかもしれない。そして、あえて表情を消して、呟いた。
「……くだらないことを」
「……」
千鳥は、ただ微笑んでいた。
「もう、帰りますわ」
「あ〜、待ってよ、ルルージュ〜」
云いながら、千鳥は手を伸ばした。子供のようにぶんぶんと振ってみせる。
「ね〜、眠るまでそばにいてよ〜。手、握っててくれると、嬉しいな〜」
「……なにを子供みたいなことを……」
はっきりと眉をひそめて、ルルージュは嘆息した。
しかし、千鳥はニコニコと微笑んだまま、手をまっすぐにルルージュに向けて伸ばしていた。
ルルージュはもう一度深いため息をつくと、千鳥の手を両手で包み込んだ。
「人の気配があると、眠れないんじゃありませんでしたの?」
「ルルージュだってわかってれば、大丈夫だよ〜」
「……私は、一度、あなたを殺そうとしたのに?」
夜の闇に紛れるような、囁きだった。
千鳥は表情を変えず、ただ穏やかに微笑んだまま、頷いた。
「だから、誰より信じられるんだよ〜」
「……」
「おやすみ〜、ルルージュ〜」
「……おやすみなさい」
笑顔のまま、千鳥は目を閉じた。間もなく静寂の中に、規則正しい寝息が混じり始める。
今度こそ本当に眠ったのを確認して、ルルージュは千鳥の手を放し、青い髪を撫でた。
優しく、そっと、何度も。
我が子を慈しむ聖母のように。罪に涙して、懺悔を捧げる殉教者のように。
その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
*
「おっはよー、どう、千鳥、調子は?」
「あ〜、北都ちゃん、今日も来てくれたんだ〜。ありがと〜」
勢いよくドアを開けて、北都がにこやかに入ってきた。千鳥も同じく笑顔で答える。春の日だまりのような病室だった。
「だいぶ調子いいよ〜。もうすぐ退院できるんじゃないかな〜」
「ほんとっ? よかったー。でも、無理しないでね」
ベッドの横に椅子を持ってきて座り、北都はそう云った。千鳥は笑顔で頷いて、北都の頭をぐりぐりと撫でた。
「ほんと、毎日ありがとうね〜、北都ちゃん」
「いいのいいの、どうせ何もすることないしさ。千鳥がいないと、絶対にルルージュはラグオルに行こうとしないし」
子供のように頭を撫でられて、それでも嬉しそうに北都は目を細めていた。
「せめて、一緒にお見舞いに来てくれればいいのに、いくら誘っても『必要ない』とか云うんだよ。もう……」
不服そう、というより、少し悲しげに、北都はうつむいた。
千鳥には話していなかったが、北都は千鳥が負傷したあと、ルルージュの涙を見てしまっている。ルルージュは自分を責めるあまり、千鳥の前に現れないのではないか……北都は、そんな心配をしていた。
千鳥は変わらず笑顔で、首を振った。
「いいのいいの。それより、ねえ、北都ちゃん。夕べはよく眠れた?」
「へ、あたし? うん、そりゃもうぐっすり。あたしはいつも、快食快眠だよ」
「あはははは〜、やっぱり〜」
いつも以上に明るく、大笑いする千鳥。北都はなんのことかわからず、目を丸くして千鳥を見つめた。
「なあに? なんのこと?」
「ううん、なんでも〜。私もね〜、昨日はよく眠れたんだ〜」
「そうなんだ」
「うん〜。天使がね〜、そばにいてくれたみたいだったよ〜」
「天使……?」
「うん〜」
今日の千鳥は、全く何を云っているのかわからない。北都は不思議そうに首を傾げるばかりだった。
千鳥は微笑んで、自分の手をじっと見つめた。
そこにまだ、夕べのぬくもりが残っているような気がした。
あとがき
シリーズ再開前のちょっとしたリハビリのつもりで書きました。
ルルージュも、千鳥しかいないところだと可愛いですね(^^ゞ。
これで勢いづいて、続きが書けると……いいなあ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。