目を開くと、知らない天井が見えた。
ベッドの寝心地も、慣れ親しんだものとは違う。
あたし、どうして……? どこにいるんだろう……?
「目が覚めたかい、ハニー」
声がした方に顔を向けると、まず目に痛いほど鮮やかな紅が視界に入った。
寝癖でぼさぼさになっていたけど、それでもその真紅の髪は、豪奢でとてもキレイに見えた。
そして、その髪と同じように紅い瞳が、まっすぐにあたしを見つめていた。
「おはよう、ハニー」
「……」
「どうした、照れてるのかい? 夕べはあんなに大胆だったのに」
「……」
「可愛かったよ、ハニー」
……いつまで続けるつもりなんだろうか。
「あのね、ジョルジュ」
「うん?」
「あなたって、もしかして、バカ?」
「……」
「……」
「……」
「……」
真紅の瞳が大きく見開かれたと思うと、すぐにすっと細くなって、そして不機嫌そうにジョルジュは体を起こした。たてがみのようになった髪を振り、頭をかく。
「ちぇっ。北都はノリが悪いよ」
「品のない冗談は嫌いなの」
「はいはい、悪うございました」
こちらに向けて、べっと舌を出したあと、ジョルジュはにかっと満面の笑顔を浮かべた。
その笑みに笑い返しながら、あたしはようやく思い出していた。
昨晩、ジョルジュと弥十郎さんと三人でバーに行って、ジョルジュに無理矢理飲まされて、……そこから、記憶がない。どうやら、ジョルジュの部屋に泊めてもらったみたい。
「気分どう?」
「……うん、爽快」
「そりゃよかった。ま、あんな甘いカクテル一杯じゃ、残りようもないか」
意地悪く笑うと、ジョルジュは立ち上がってキッチンの方に向かった。
「飯作るから。ちょっと待ってて」
「あ、手伝うよ」
「へーきへーき。お客さんは座ってな、ハニー」
いたずらっぽくウィンクして、ジョルジュは冷蔵庫から食材をいくつか取り出し、調理を始めた。
苦笑しつつテーブルについたあたしは、彼女のその手際のよさに、少なからず驚くことになった。
率直に云って、ジョルジュは家庭的には見えない。……ガサツ、とまでは云わないけど。
けれど、ジョルジュは鼻歌交じりに、てきぱきと調理をこなしていく。あたしの知らないその歌は、軽快だけど、どこか哀切があって、心に残るメロディだった。
「……へー、すごいんだね、ジョルジュって」
「んー? なにがー?」
できあがった料理を皿に盛って、ジョルジュがテーブルに持ってきてくれたとき、あたしは素直に感動を述べた。意外に、というニュアンスは伝わらないよう、注意しながら。
「お料理だよ。すごい手慣れてる感じ」
「そっか? まあ、あたしがやるしかなかったからな。必要に迫れば、なんでも身に付くもんさ」
「そうなの?」
「そうだよ。彼は料理なんかてんでダメだったし、ルルージュもお嬢育ちだから、包丁なんか握ったことが……」
はっと、ジョルジュは口をつぐんだ。たちまち苦虫を噛み潰したような顔になる。
もちろん、あたしは彼女の言葉を聞き漏らしてはいなかった。
びっくりした。息が止まるぐらい。
ルルージュがお嬢育ち……ってこともそうだけど(でもまあ、あの高飛車な態度は、納得できなくもない)。それより何より。
「一緒に……住んでたの?」
「……」
「ジョルジュと……ルルージュが? なんで?」
「……」
ジョルジュは面をそらし、唇を強く噛んだきり、答えようとはしてくれない。
そんな彼女の横顔を、あたしはじっと見つめ続けた。
せっかくのジョルジュの手料理が、冷めていってしまう。
「話したく……ない?」
「……」
「――うん、わかった。じゃあ、いただきます」
そう云って、あたしはまずスープから手をつけた。少し冷たくなっていたけど、それでもその味にはとても暖かみがあって、幸せな気持ちになった。
この味をかつてルルージュも味わっていたのだと考えると、少し、悲しくなったけれど。
彼女たち二人と、そして今は喪われている、あたしの知らない誰か。きっと幸せな記憶を共有しているのに、どうして、今は仲違いをしているんだろう。それとも、同じ記憶を持っているからこそ、二人は相容れないのだろうか。
「……ごめんな、北都」
その言葉に顔を上げると、ジョルジュがすまなそうにあたしを見つめていた。
嫌だ、彼女のそんなへこんだ姿なんて、見たくない。
「どして? おいしいよ、これ」
「……そっか」
あたしが精一杯の笑顔で答えると、ジョルジュもやっと笑ってくれた。
それだけでいいんだ。あたしは、きっと。
「なあ、北都」
「んー? なあに?」
ガツガツと、少し行儀悪いぐらいの勢いで食事を平らげながら、あたしは返事をした。沈んだ空気を吹き飛ばそうという意図より、単純においしかったのだ、ほんとに。
「あんた……あたしたちのチームに入らないか?」
「……え……」
冗談、ではなかった。ジョルジュの瞳は、とても真剣だった。
……少しも迷わなかった、と云えば、嘘になる。
昨日も感じたとおり、ジョルジュと弥十郎さんのような気軽な「仲間」関係は、うらやましかった。あたしがルルージュや千鳥とチームを組んでいるのは、分不相応だってこともわかってる。
だけど、それでも。
あたしは首を横に振った。
あたしのチームは、「ルージュ」だから。
「……そっか」
「ごめんね、ジョルジュ」
「いや……こっちこそ、つまんないこと云って、悪かった」
落胆を表さず、ジョルジュは笑ってくれた。それに感謝して、あたしも笑顔を返そうとしたとき。
「――でも、ルルージュには気をつけろよ、北都」
怖いぐらい真剣な顔になって、ジョルジュはそう云ったのだった。
「なに、ジョルジュ、まだそんなこと――」
「北都の云いたいことはわかる。でもこれは、ルルージュ本人の人柄がどうこうって問題じゃない」
「……どういう……こと?」
息を飲んで問い返したあたしから、ジョルジュはそっと視線をそらした。
その表情に浮かんでいたのは、ルルージュへの憎しみや怒りではなくて。
「あいつの周りは、きな臭すぎる。これはもう絶対に避けられないことなんだ。それが、あいつの歩いてきた道だからな」
とても悲しそうな色だった。
*
「ごっめーん、遅くなって……」
居住区からの転送装置を出るなり、あたしは大声で叫びながら走り出した。
いつもの時間より、大幅に遅れてしまっている。ルルージュはもちろん、遅刻常習の千鳥さえ、もう先に来て待っていた。
「……」
「遅いよ〜、北都ちゃん」
例のごとく、ルルージュは無関心な風であたしの方を見ようともせず、千鳥は珍しく待つ側に回ったのが嬉しいのか、満面の笑顔で手を振った。
――その笑顔に。あたしは夕べ会ったヒューマーを思い出した。
「ん〜? どうしたの、北都ちゃん?」
「う、ううん、なんでも」
彼に会ったことを千鳥に話すべきかどうか、判断がつかなくて、あたしは曖昧な表情でごまかしてしまった。
――姉さんのことを教えてくれ。
勢い込んでそう云った直後、弥十郎さんははっと我に返って、あたしの肩から手を離した。そして、決まり悪げに黙り込んで、目をそらしてしまった。
「どういう……ことなんですか? 千鳥が、弥十郎さんのお姉さんなの? それなのに、教えてくれって、どういう……」
「……」
「ねえ、弥十郎さん」
「……ダメだよ、北都。こいつ、こうなったら、石みたいにだんまりになっちゃうからさ」
ジョルジュがそう云いながら、肩をすくめた。
冗談めかしてはいたけれど、彼女の瞳は、それ以上聞かないでやってくれ、と云っているようで、あたしは口を閉ざすしかなかった。
そのあと、千鳥のことが話題になることはなかったのだけれど――。
「……行きますわよ」
あたしの逡巡にも、千鳥の不審にもやっぱり全然お構いなしで、ルルージュがラグオルへの転送装置に踏み出した。
「あ〜、待ってよ、ルルージュったら〜。北都ちゃん、行こ〜」
「う、うん」
ぎこちなく頷きながら、あたしも転送装置に入った。
何度使っても慣れることのない、不思議な浮遊感と、そしてそのすぐあとに来る墜落感。さらに転送後もしばらく残っている不快なしこり。
それを我慢しながら辺りを見回すと、そこにはあたしたちの知らない光景が広がっていた。
剥き出しの岩盤と、自然が作り出した複雑な迷路。日の光など一切届かない地中なのに、わずかに周囲を見渡せるほど明るいのは、岩に密生したコケが光を放っているのだろうか。
あのドラゴンを倒したあと、あたしたちが発見した洞窟だった。
ハンターズギルドにも報告してあるので、当然、ここは秘密の場所ではない。千鳥の入院のため、しばらくあたしたちが探索を休んでいる間にも、他のハンターズが何組もここを訪れているはずだ。
しかし、そのいずれもはかばかしい成果を上げられていなかった。
聞くところによると、地表とはまた違うモンスターが徘徊しているらしい。ブーマによく似てるけど、その巨大な歯並びからシャーク系と呼ばれる連中や、カマキリやカニのでっかいのに、毒を吐く花……想像しただけで、気が滅入る。
そんな未知の場所に、あたしたちは今日初めて本格的に足を踏み入れたのだ。
ルルージュと千鳥は、いつもと変わらない。ルルージュは無表情に、千鳥はニコニコと笑顔で、恐れも迷いも緊張も無縁の様子で歩いていく。
一方、あたしはと云えば。
「なんだか、辛気くさい場所だよね〜」
「う、うん」
「これなら、まだ明るい分、地表の方がマシかも〜」
「……」
あたしの緊張をほぐそうと、千鳥がいつも以上に話しかけてくれる。
そう、あたしもいつも通り緊張してた。それは間違いない。
だけどそれ以上に、あたしは様々な疑問が胸の内に渦巻いて頭がくらくらするほどで、せっかくの千鳥の言葉にも生返事ばかりしていた。
姉弟
なのに、長らく離ればなれだった様子の千鳥と弥十郎さん。
一緒に住んでいたというルルージュとジョルジュ。
ルルージュが口にした「あのひと」。
千鳥の昔の通り名――『蒼い戦慄』。
あたしなんかが興味本位で迂闊に首を突っ込んでいい話じゃない、そう思って、これまで何も訊かずに来た。しかし、積もりに積もった疑問は、ふと頭をもたげた瞬間、あたしの心を掴んで離さなくなってしまった。
「……北都ちゃん、やっぱり変だよ〜?」
「……千鳥……」
心配げに眉を寄せて、千鳥があたしの顔を覗き込んでくる。
その表情に、あたしはすべてを尋ねてみたくなる。そして、同時に、過去のことなんかどうでもいい、今のあたしたちがあれば、とも思う。
結局、あたしは不器用に作り笑顔を浮かべて、目をそらすことしかできなくなるのだ。
「な、なんでもないの、ほんとに。ごめんねっ」
振り向いて、小走りに前へ出ようとしたとき。
あたしの背中に向けて、千鳥が呟いた。とても小さい、消えてしまいそうな声音で。
「……北都ちゃん、私が怖い?」
「――え」
思わず振り返ると、千鳥はその場に立ち尽くして、じっとあたしを見つめていた。
口元には笑みをたたえて。瞳には涙なんか全然なくて。
だけど、その笑顔は、どうしようもないぐらい悲しい気持ちにさせられた。どうして、そんな何もかも諦めてしまったような顔をするの? ――それは、あたしのせい?
「怖い?」
首を傾げて、千鳥がもう一度訊いた。
そこでようやく、あたしは千鳥が云っている意味がわかった。
あのとき、ジョルジュの不用意な言葉に対して見せた、千鳥の冷たい怒り。
その姿を見たことで、あたしが千鳥への態度を変えてしまったんじゃないかって、彼女はそう考えて――。
「違う! 違うよ、千鳥、そんなんじゃないよ!」
「……」
「ほんとだよ!? あたしは、千鳥が大好きだもん。友達のために、あそこまで真剣に怒れる千鳥を尊敬こそしても、怖がったり、嫌いになったりなんて、そんなこと絶対ないよ!」
それは、紛れもなく本心だった。
確かにあれにはびっくりしたけど、でも、それだけだ。ルルージュのために、自分を犠牲にしようとした千鳥。ルルージュのために、怒りを露わにした千鳥。どちらも、千鳥だ。変わらない。
彼女の腕を取り、必死に云い募るあたしの目をしばし見つめて、千鳥は、
「……うん」
微笑んで、頷いてくれた。
その笑顔はもう、いつもと同じ、優しい天使の微笑だった。
――やっぱり、もうやめよう。昔、ルルージュや千鳥に何があったか、なんてことにこだわるのは。
こうして、今、この笑顔が見られて。こうして、今、三人一緒にいられるなら、それだけでいい。
そう思って、踵を返した瞬間。
いつの間にか立ち止まって、こちらを振り返っていたルルージュと、目が合った。
相変わらず彼女の面から感情を読みとることはできない。
しかし、その射すくめるような視線は、あたしの中の葛藤なんてすべて見通しているようで、あたしは思わず生唾を飲み込んだ。
「何をうだうだ考えているんですの。らしくもない」
「……そ、そうだよね」
あたしの返事なんか耳に入っているのかどうか、すぐにまたルルージュは視線をそらして、さっさと歩き始めてしまった。千鳥が微笑んだまま、そのあとに続く。
二人はいつもと変わらないのに。
こうして三人でまた冒険できること、それだけを楽しみにしていたはずなのに。
本当、らしくないよね、あたし。
あたしは気合を入れるために、自分の頬を両手で軽く叩いて、二人のあとを追った。沈んだ空気を払おうと、下手くそな鼻歌なんか口ずさんだりして。
――それが、大失敗だった。
「……」
ルルージュが足を止めて、もう一度振り返る。
その顔には、今度ははっきりと感情が浮かんでいた。怒り、不快、猜疑、そういったものが。
そうして、とても冷たい瞳であたしを見据えるや、ソウルイーターの刃を真っ直ぐあたしに向けた。
「ル、ルルージュ!?」
「ルルージュ、どう……」
「……なぜあなたが、その歌を知っているんですの」
「……歌……? ――!!」
思い出した。あたしがつい口ずさんだそのメロディは、今朝、ジョルジュが料理をしながら歌っていたものだ。なぜか印象的で耳に残っていて、つい口をついて出てしまった。
「それは今では、私しか知らないはずです。……いえ、もう一人。私と、ミアンだけしか」
「……」
「ミアンから、教わったのですわね」
ルルージュが刃を下げ、口元を歪めた。嘲笑の形に。
取るに足りない、無価値なゴミ屑を見るような目で、ルルージュはあたしを見ていた。初めて会ったときでさえ、こんな風に見下した眼差しを向けることはなかったのに。
あたしは恐怖と困惑とやるせなさで、全身が震えてしまっていた。
「ルルージュ……」
「あれと随分仲良くなったご様子。いっそミアンとチームを組めばよろしいんじゃありませんこと。無理に私たちとつきあう必要はありませんわ」
「そんな……!」
あたしは、ルルージュや千鳥と一緒にいたいんだよ? 同じチームだって、誇りに思ってるんだよ? だから、ジョルジュの誘いも断ったんだよ?
云いたいことはたくさんあるのに、何も言葉として出てこない。ただ瞳に涙を浮かべて、唇を震わせるあたしを、千鳥がかばってくれた。
「ルルージュ、云いすぎだよ〜」
だけどそれが、最悪の言葉を引き出した。
「あなたが望んだことでしょう」
「――!」
これ以上ないくらい、あたしは目を見開いていたと思う。
そのあたしの前で、千鳥は蒼白になり、あたしからもルルージュからも目をそらしていた。
「ルルージュ、何を……」
「あなたもいい加減、覚悟を決めなさい」
「……」
「な……に……? 二人とも……何云ってるの……?」
わからなかった。もう何も。
これ以上、何も聞きたくなかった。
だけど、あたしは言葉にしてしまっていた。
「あたしがジョルジュと組めばいいって……? ルルージュも千鳥も、そう思ってるの……?」
「……」
「……」
「あたしたち、同じチームじゃないの? 一緒に、いられるんじゃないの?」
「……」
「……」
「迷惑……だった? あたし、やっぱりお荷物で……チームだなんて……ひとりで浮かれてて……それで……」
「……北都ちゃん」
あたしと同じように、瞳を涙でいっぱいにした千鳥が、あたしの方に近づいて手を伸ばそうとした。
それを見た瞬間、あたしは耳を塞いで、駆け出していた。
「嫌だ! もう嫌!」
「北都ちゃん!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
もう、何も、聞きたくなかったし、見たくなかった。
*
文字通り、子供のように泣き叫びながら闇雲に走って、つまづいて転んで、しこたま鼻を打ち付けて、あたしはようやく少し落ち着いた。
けど、落ち着いて考えをまとめようとすればするほど、さっきの出来事が逃れようのない現実としてのしかかってきて、錯乱しそうになった。
あたしたちは、仲間じゃなかった。
ルルージュと千鳥は、あたしにつきあってくれてただけ。お荷物なのを我慢して、面倒を見てくれてただけ。
そんなの、考えてみれば当たり前のことだ。あたしと彼女たちじゃ、技量も何もかも違いすぎる。今まで一緒だったことの方が不思議だと、誰もがそう云うだろう。
でも。
ルルージュが、ほんとにごく稀に見せてくれた笑顔。
ぐりぐりとあたしを撫でてくれた千鳥のあの手のぬくもり。
あれは、確かにあったことのはずだ。
それが全部、偽りだったなんて。
「嘘だよね? ルルージュ……千鳥……」
信じたい。
けれど、ルルージュがあたしを見据えたあの視線の冷たさが、あたしの心を挫けさせた。
どうすればいいんだろう。
そう考えて、鼻をすすりながら周りを見回して、あたしはまた違う意味で途方に暮れた。
……ここ、どこ?
前回に引き続き、今度も道に迷うなんて、情けないったらない。しかも、あたしはリューカーをまだ唱えられないし、テレパイプも持っていない。
どうにかして転送装置まで辿り着かないと、パイオニア2に帰ることもできないというわけだ。
本当、いつまで経っても、こんな風に自分で自分の始末さえつけられないんだから。ルルージュに愛想尽かされるのも、当然なんだ。いっそこのまま野垂れ死にしちゃおうか。
冷たい岩の上に座り込んだまま、そんなことを考えた。
……バカだ、あたし。
ルルージュや千鳥なら、絶対に何があっても諦めたりしないだろう。
彼女たちと一緒にいたいなら。それにふさわしい、自分でなきゃいけない。
「よしっ」
立ち上がり、あたしは涙をぬぐって、ハンドガンを構え直した。
ルルージュたちとの関係を修復する術があるのか、それは今はわからなかったし、考えるとまたすぐに挫けそうになるので、考えないことに決めた。
とにかく、生きて帰る。それぐらいできなきゃ、あたしには何を云う資格もないはずだ。
あたしは注意深く周囲を見回しながら、ゆっくりと天然の通路を歩いていった。
……だけど、これって、ほんとに天然かな?
確かに元々、大洞窟があったんだとは思うけど、なんだか人の手が入っているような気がしなくもない。迷宮として成り立たせるために……。
考え事をしている内、少し広いスペースに出た。そして、薄暗い闇の向こうに、何かの影が動いたような。
「ルルージュ……?」
この期に及んで、まだそんな甘い想像をしてしまう。それがあたしの致命的にダメなところなんだなあと、あたしは骨身にしみるほど思い知ることになった。
その影は、こちらを振り向くと、高々と太い腕を上げて耳障りな金切り声を上げたのだ。
「ブ、ブーマ!? ……じゃない、シャーク、だっけ」
おぞましい牙を剥き出しにして、そいつはあたしの方に向かってきた。
あたしはハンドガンで牽制しつつ、後ろに下がった。
長射程武器で敵と対するときは、距離を保ち、決して囲まれないようにすること。それが鉄則だ。
あたしはその基本に忠実だったけど、もう一つ重要なことを忘れていた。安全な退路を確保しておくことを。
その広場にいたシャークは、そいつ一匹だけではなかったのだ。迂闊にその中で動いたことで、他の連中まで引き寄せてしまった。
「まずい……かも」
かも、とか云ってられる状況ではない。あたしはとりあえず、元来た通路に向かって走った。狭い通路を利用すれば、少なくとも囲まれるのは防げるはず――。
「――っ!!」
連中に背中を向けて走り出して数秒、焼けるような痛みに思わず膝をついてしまった。
振り向くと、爪をあたしの血で染めたシャークが、誇らしげに腕を掲げている。嘘、なんでこいつら、こんなに速いの?
あたしは地べたを這って、どうにか連中から遠ざかろうとしたが、そんなのが間に合うはずがなかった。たちまち周りを取り囲まれてしまう。
それに、背中からの出血で、すでに意識が朦朧としていた。
このまま失血死するのと、あの爪で引き裂かれるのと、どっちが早いだろう……ぼんやりそんなバカなことを考えていたあたしは、皮肉なことにその爪のきらめきに、あの禍々しい鎌の刃を思い出した。
――彼女なら、きっと諦めない。
あたしは全身の力を振り絞って仰向けになり、ハンドガンの引き金を弾いた!
闇雲に撃ち出されたフォトンの弾丸は、至近距離であっただけに、全弾、シャークどもに叩き込まれた。
しかし、この程度の威力では、奴らをわずかに怯ませることしかできない。負傷が連中の怒りに油を注いだのか、シャークどもは金切り声を上げて、爪を振り上げた。
――あたしは、諦めない。
額の汗が目にしみて、傷の痛みに意識が飛びそうになって、それでもあたしはハンドガンを構え続けた。
無数の爪が、銀の軌跡を描いて振り下ろされる――。
「……え……?」
爆音が、響いた。訓練所で聞いたことがある。大口径のフォトンの弾丸が次々吐き出される音。
そして、シャークどもが撃ち崩される、断末魔の雄叫び。
返り血が気持ち悪い、なんて思う余裕は、あたしにはなかった。
どうにか首を曲げて、通路の方に目を向ける。
意識を失う直前、あたしが目にしたのは、闇に溶け込むように、その場にショット系の武器を構えて立つ、黒ずくめのレイキャシールだった。
あとがき
元々、このお話は「黒衣の狙撃手・前編」のつもりで書いていました。
が、ご覧の通り、マリアの出番はラスト1シーンだけだし、どうしても「The LOST SONG」ってタイトルを使いたかったので(^^ゞ、別の話にしてしまいました。
ですから、次こそが「黒衣の狙撃手」です。
しかし、「その名はルージュ」からその徴候がありましたが、このシリーズは「ルルージュ編」じゃなくて、「北都編」ですね(^^ゞ。キャラが育つのは喜ばしいことです(それでいいのか、というツッコミはなしで)。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。