第一部 Blue - the color of lonliness -
第二話 教授
闇が、そこにあった。
明かりのない薄暗い室内。わずかにモニターの光で、部屋の様子が見て取れる。
そのモニターの明かりを受けて、男が座っていた。
病的なほど白い肌に、長い髪がまとわりついている。まるで幽霊のように存在感がなかったが、ただその瞳だけが、狂おしいほどの何かを秘めて激しく輝いていた。
そして、光が生まれる。
薄闇の中に忽然と輝きが生じ、それはやがて幼い少女を抱いた女の姿になった。
「ただいま戻りました〜」
「……お帰り、千鳥」
相変わらず満面の笑顔の千鳥に、男もまた微笑みかける。この男がこんな風に優しげに笑えるのかと、誰もが驚くようなそんな笑顔で。
「うまくいったようだね。もちろん、君のことだから、心配はしていなかったけど」
「ありがとうございます〜。この子がマリアちゃんです〜」
云いながら、千鳥は抱いていたマリアを下ろした。マリアは見えない目を声がする方に向け、ちょこんと頭を下げた。
「はじめまして。マリアです」
「これは行儀のいいお嬢さんだ」
くっくっと、男が喉で笑う。そして椅子から立ち上がると、マリアの前に立ってその手を取った。
「はじめまして。私は羅生。如月さんとは古い馴染みだ」
「パパのお友達?」
「ああ。頼まれて君をしばらく預かることになった。よろしくお願いするよ」
「……はい、よろしくお願いします」
もう一度、マリアが頭を下げる。羅生も微笑んで、千鳥に視線を向けた。
「じゃあ、マリアに部屋を用意してやってくれ」
「はい〜。行こ〜、マリアちゃん」
「うんっ」
マリアの手を取って、千鳥が部屋から出て行った。今度はちゃんと歩いて。
その姿を見送ったあと、羅生は椅子に腰を下ろした。額にかかる前髪をかき上げる。
「……すべてわかっているはずだが……面白い反応をする……」
呟いたその表情は、酷薄でも非情でもなく、ただ真摯な研究者のそれだった。
*
「ほんとにここでいいの〜?」
云いながら、千鳥がマリアの手を引いて入った部屋は、千鳥自身の私室だった。客間に案内しようとした千鳥に、マリアが千鳥と同じ部屋がいい、と云ったのだ。
「うん!」
満面の笑顔で、マリアが頷く。千鳥は困惑して軽く眉をひそめ、自分の部屋を見渡した。
我ながら、殺風景な部屋だった。ベッドにクローゼットと机、家具といえばそれだけ。子供が喜ぶようなものなど、もちろん何もないし、そもそも自分自身、何かを愛でたり集めたりという趣味がない。
つまんないでしょ?と云いかけて、千鳥は気づいた。この子には、部屋の風景などはじめから意味がないということに。
「……うん、マリアちゃんがいいんなら、いいんだけど〜」
「マリア、でいいよ、天使様」
云いながら、満面の笑顔をマリアは千鳥に向けた。千鳥は眩しげに目を細めて、その笑顔を見つめる。天使なんて呼ばれるのは、こんな笑顔ができるこの子の方だろう。
「うん、わかった〜。……私のことも、千鳥って呼んでね〜、マリア」
「……うん、天使――千鳥が、そう云うなら」
とまどった様子を浮かべながらも、マリアは頷いた。彼女にとって、千鳥は「天使様」以外の何者でもないらしい。
しかし、千鳥にはわからない。自分の見た目が天使のようだなんて自惚れはないし、そもそもマリアは目が見えないはずなのだ。それなのにどうして、この子は自分を天使と呼ぶのだろう?
「ね〜、マリア。訊いてもい〜い? どうして、私を見て、天使だなんて思ったの〜?」
「え……?」
問いかけに、マリアは不思議そうに目を瞬かせた。当たり前すぎて説明のしようがない、といった様子だ。
「思ったんじゃなくて……そうだって、わかったんだもの」
「……どういうこと〜?」
「うんとね、わたし、知ってたの。いつか天使様がわたしを迎えに来るって。青の天使様が、わたしを連れていってくれるの」
「……」
要領を得ない説明に、千鳥は首を傾げるしかなかった。
子供にはよくある妄想だと片づけてしまえば、それまでの話だ。しかし、羅生が興味を示した何かが、この子にはあるはず。そのことと何か関係があるのだろうか。
そのとき、インターホンの呼び出し音が鳴り、千鳥の思考は中断された。インターホンのスイッチを入れると、錆のある羅生の声が響いた。
「千鳥、すまないがこちらに来てくれないか」
「はい〜、すぐ伺います〜」
答えると、千鳥は立ち上がった。微笑んで、マリアに振り返る。
「教授のところに行ってくるから、いい子にしててね〜」
「うん」
「何かあったら、これで呼んでね〜。……わかる?」
マリアの手を取って、千鳥はインターホンに触れさせようとした。だがマリアは迷いもなく立ち上がり、自分でインターホンを掴んだ。
「うん、平気」
「……そう、じゃあまたあとでね〜」
部屋から出て行く千鳥を、マリアは手を振って見送っていた。
廊下を歩きながら、千鳥は再び首を傾げる。本当に見えていないのだろうか? あの子はいったい何者なんだろう?
そう考えたところで、千鳥はふと苦笑した。何者だと尋ねられて、誰より困るのは自分自身なのに。
――いや、答えは簡単か。『化け物』だ。
「お待たせしました、教授〜」
いつも通り、朗らかな笑顔を表情に貼り付けて、千鳥は羅生の研究室に入った。
*
相変わらず灯りのない部屋で、モニターだけが冷たい輝きを放っていた。
千鳥は苦笑しつつ、モニターを見据える羅生の背後に近づき、その首に腕を絡ませた。恋人のように――というよりは、父親に甘える子供のような仕草だった。
「また、こんな暗い部屋で……。目が悪くなっちゃいますよ、教授〜」
羅生はその腕を払いもしないが、千鳥を振り返ることもしない。モニターに視線を向けたまま、呟いた。
「もう、ニュースになっているようだ」
「……ふ〜ん」
気のない様子で、千鳥もモニターに目を向ける。ニュースサイトが表示されていて、高名な研究者宅が襲撃され、護衛のハンターズも含めて十数人が惨殺……という文字が躍っていた。
不審な人物を見なかったか捜査中、というくだりで、千鳥は思わず笑ってしまった。忽然と「現れ」、そして「消えて」しまう千鳥の行動を追うことはできない。セキュリティシステムに映った姿はすべて消しているし。いつも通りのことだった。
たったひとつを除いて。
「生存者がいるそうだ」
「――っ」
静かな指摘に、千鳥は息を飲んで全身をこわばらせた。思わず体を引きそうになったところで、羅生が手を上げて、そっと千鳥の腕に重ねる。それだけで千鳥は観念したように、深く息を吐いた。
「千鳥らしくないね?」
「……末端の人物だったので、問題ないと判断しました」
「そう。千鳥がそう考えたなら、大丈夫だと思うけど」
羅生の指が、千鳥の腕をゆっくりとなぞる。とても優しげな仕草なのに、その指の冷たさのせいか、舌なめずりする蛇が這うような感覚があった。
羅生はもう一方の手で、モニターを操作する。生存者の顔写真と情報が表示された。
「若いね。まだほんの子供だ。千鳥が見逃してあげたくなるのもわかるよ」
「……申し訳……ありません……」
かろうじて絞り出した声も、千鳥の全身も、細かく震えていた。いつも笑顔を絶やさない表情も、今は蒼白となって目を閉じている。
そして、羅生はどこまでも優しげだった。
「僕は千鳥を信じてる。後のことは任せたよ」
「……はい」
「助かる。用はそれだけだ」
「……はい、失礼します」
ゆっくりと腕をほどいて、千鳥は踵を返した。ドアに向かうその姿をやはり振り返らないまま、羅生は声をかけた。
「ああ、せっかくだから、彼に会っていくといいよ」
「……」
振り返る千鳥。その双眸に燃えていたのは、明らかに深い憎しみと殺意であったが、それも一瞬のことで、すぐにまたいつも通り朗らかに微笑んで、頭を下げた。
「はい〜、ありがとうございます、教授〜」
答えず、羅生はほんのわずかに肩をすくめて見せると、手元のコンソールを操作した。
ロックを解除する音が響き、研究室奥の扉が開く。千鳥はもう一度身を翻し、扉を抜けて入っていった。
その背を見つめる羅生の瞳は、やはり酷薄でも非情でもなく。
*
さして広くもないその部屋には、様々な機械が据えられていた。
その中央には、二台のポッドが置かれている。一般には治療や冷凍睡眠に使われるものだ。
その内のひとつは、すでに空だった。
そして、もう一方の中では、黒髪の少年が眠りについていた。
どんな夢を見ているのか。それとも、夢さえ見ることのない深い眠りなのか。
少年はただ穏やかな表情で、目を閉じていた。
千鳥は少年が眠るポッドに近づき、その横に膝をついた。ポッドを抱きかかえるように腕を広げ、冷たいガラスに頬を寄せた。
「待っててね、弥十郎……。いつかきっと……お姉ちゃんが、ここから出してあげる……」
小さな呟きは、やがてかすかな嗚咽へと変わっていった。
2004.12.22