忙しそうに早足で通り過ぎるスーツの男性。退屈そうに椅子に座って天井を眺める老人。窓に張り付いたまま歓声を上げる子供達。
空港は、いつもの喧噪に包まれていた。
アナウンスの女性の声が響き渡る。いくつもの出会いと別れの場面を横切りながら、無機質に広すぎる空間を駆け抜ける。
感情の渦。
その声は、大きく膨らみすぎたその渦を統制しているようだった。
別れと出会いが生む強すぎる感情は、寄り集まり、流され、やがてこの大きな建物すら取り込んでいく。
それをぎりぎりのところで操っているのがその声なのだ。そう思った。
そして、その渦の一片を担っているのは、私たちであるのだ、とも。
「初めての国なんだから、体調管理は気をつけなきゃダメよ?」
「はい、肝に銘じておきます」
小夜美さんの言葉を素直に受け取る。
同時に、飛行機の中で食べて、といくつかのパンも戴いた。
「でも、いまさら詩音ちゃんが留学とはね。それも1年も」
「今までは父の都合で移動していましたから。これからは、私が行きたい国へ行ってみようと思うんです」
稲穂さんは最後まで笑顔だったけれど、その瞳の奥にどこか淋しそうな影を漂わせていた。
私を含め、友人と呼べる人が2人も去ってしまうのだ。それは仕方のないことかもしれない。
「ほら、智也も何か言えよっ!」
「そうだよ智也クン、しばらく会えなくなっちゃうんだよ?」
最初、見送りは断った。
私としてみれば、この国にいた時間など本当に短い時間であって。
この程度の別れなど、いくつも重ねてきたものであって。
だから私は、先日みなさんに送別会を開いてもらえただけで十分だった。
―――なのに。
「たったの1年で帰ってきますから」
「………ああ」
なのに、何故こんなにも離れがたいのだろう、この国を。
どうして、見送りなんてされたら決心が鈍る、そう思ったんだろう。
「向こうに着いたら手紙も書きます。楽しみにしていてくださいね」
「ああ、待ってる。返事も書くよ」
「ゼッタイ、ですよ?」
―――好きになっていた。
そう気付いたのは最近のこと。私は、この国を、私の傍にいてくれる人たちを好きになっていた。
小夜美さんも、稲穂さんも、音羽さんも、………唯笑ちゃんと、智也さんも。
心残りは、いくつもあった。
たった1年離れるだけなのに、今までの別れより遙かに私の心は揺れ動いた。
でも、だからこそ。
だからこそ、私は前に進まなくちゃいけないと思う。
「やっぱ、淋しくなるよな」
ポツリと、智也さんが呟いた。
「できることなら、ああ、1年で帰ってくることなんて分かってるけど、でも………」
俯いて、黒く光る床を見つめながら。
「行ってほしく、ないよな」
ただ、喧噪と、その手綱を握るアナウンスの声だけが聞こえる。
誰も口を開かなかった。
沈黙は感情の渦に飲み込まれ、静寂はざわめきへと姿を変えた。
けれど、そのざわめきすらが、私の中から遠のいていく。
「なぜ、……………たんですか?」
「えっ―――」
私の言葉に、智也さんが顔を上げた。
「なぜ、唯笑ちゃんにそう言えなかったんですか? なぜ、そんな一言が、なぜ」
「……………」
「引き留めるべきものを引き留めず、引き留めるだけ無駄ものを引き留めようとする。そこには何も生まれませんよ。それは、立ち止まったまま通り過ぎる誰かの袖を引いているだけです。
手を払われなければそれで良いんですか?
手を払われてでも欲しいものはないんですか?
智也さんは、いつまでそうしているつもりなんですか?」
智也さんが目を伏せる。
小夜美さんも稲穂さんも、そっと目を伏せた。
もしかしたら、彼らもまた、どこかで立ち止まってしまっているのかもしれない。
もちろん、私だって立ち止まったままだ。
でも、今この瞬間、私は一歩だけ前進する。
「詩音、俺は、」
「時間です」
智也さんの言葉を遮って、ボストンバッグを拾い上げた。そして、今までの表情とは打って変わってにっこりと微笑む。
やはり、別れはできるだけ笑顔の方が良い。心から笑って別れられるのが一番良い。
硬い表情だった智也さんが、仕方なくという感じで微笑んだ。小夜美さんも稲穂さんも、また。
「気をつけてな、詩音ちゃん」
「悪い男にひっかかっちゃダメよ?」
「…………」
智也さんは黙って手を振った。
私は、3人に向かって軽いお辞儀をする。
智也さんが視界から消えたとき、今日来られなかった音羽さんの言葉を思い出した。
『今坂さんがリタイヤするってことは、私や双海さんにも、チャンスが回ってくるってことかな』
音羽さん、そのチャンス、音羽さんにお譲りしますね。
といっても、なんだかんだ言って、貴女もそんなチャンス要らないと言うでしょうけれど。
結局、私と音羽さんの欲しいものは同じなのかもしれませんね。
私が欲しいものは今の智也さんではなく、きっと。
「それでは、ごきげんよう」
1年後に出会うだろう、欲しいものを見つけた智也さんなんだ。
Memories Off EX
『あんなに一緒だったのに』
詩音編「彼女たちの決断」