「もう、5年になるのにね……」
「え? なんか云った、唯笑ちゃん?」

 思わず漏れてしまった呟きに、お茶を入れてくれていた小夜美さんが振り向いた。
 あたしは強いて笑顔を浮かべて、なんでもない風を装う。ずっと前から、それがあたしの役目だから。

「うん、久しぶりだなって」
「そうね。唯笑ちゃん達が卒業してから、もう半年だもんね。唯笑ちゃんがこの街を離れるとは、思わなかったけど……」

 云いながら、小夜美さんはあたしの前に湯呑みを置いてくれた。あ、茶柱。

「ありがとうございます」

 小夜美さんが本当に云いたかったことに気付かないふりで、あたしはもう一度、微笑んだ。
 そう、あたしが離れたかったのは。この街じゃ、ない。

「それで、どうなの? 向こうでの生活は」
「楽しいですよぉ。一人暮らしって初めてだから、最初はたいへんでしたけど……」

 そうして、しばらくはお互いの近況について、他愛のない話をした。
 今、あたしたちは澄空学園の購買部にいる。
 半年ぶりに帰省して、あたしは特に理由もなく母校に顔を出した。そしたら、偶然小夜美さんに出会ったのだ。彼女は今でもこうして時々、購買の手伝いをしているそうだ。
 来年、就職しちゃえば、それももうできないね、と小夜美さんは少し淋しそうに笑った。

「今日は、これからどうするの?」
「特に用事はないから、ぶらぶらして帰ります。ほんとは、明日帰るはずだったんだけど、バイトのシフトが急に変わって空いちゃったから、一日早く帰ってきたんです。みんなとは、明日会う約束だから」
「……ふーん」

 小夜美さんは組んだ両手に顎を乗せて、少し思案顔になった。
 あたしに向けられる気遣わしげな視線で、次の話題がわかってしまう。だけど、ううん、だからこそ、あたしは笑顔のままで彼女の言葉を待った。

「智也クンにも……まだ、逢ってないの?」
「はい、今日は出かけてるみたいで」
「そう……」

 用意しておいた答えが、ちゃんとできた。
 嘘をついたわけじゃない。智ちゃんは、今日、出かけてる。
 こんな雨の日は。きっと、彩ちゃんのところへ。
 その姿を見守り続けるのがつらくて、あたしは彼から離れた。
 ――そう、逃げ出したんだ、あたしは。

「ねえ、唯笑ちゃん……」
「――あ、そろそろ授業終わって、生徒が来る時間ですね。あたし、帰ります。ごちそうさまでした」

 小夜美さんが何かを云いかけたのを遮って、あたしはばたばたと立ち上がった。
 今度もそうやって逃げてる。そのことに自分自身苛立っていたけれど、それでも小夜美さんは優しげに微笑んでくれた。

「ううん、会えて嬉しかったよ」
「あたしもです。それじゃ……」
「――あ」

 ふと何かに気付いた様子で、小夜美さんがぽんと手を打った。

「え? なんですか?」
「なんか違うなあと思ってたら、そっか、唯笑ちゃん、自分のこと『あたし』って呼ぶようになったんだね」
「……」

 そう、それは智ちゃんから離れたとき以来、意識して変えようとしてきたこと。
 きっと、あたしが「唯笑は、唯笑は」って子供っぽい口調を繰り返してきたのは、智ちゃんにあたしを見てほしかったから。唯笑だけを、見つめてほしかったから。
 ――でも、逃げ出したあたしには、もうそんな資格ない。

「あたしだって、もう大学生ですもん。いつまでも子供みたいじゃありませんよ」
「そっか。……うん、意識して自分を変えようとするのも、時には大切だよ」

 ……ドキッとした。見透かされてるんだろうか、小夜美さんには。
 一瞬、あたしの顔色は変わっていたと思う。だけど、小夜美さんはそのことについては何も云わず、優しそうに、そして少し悲しそうに、微笑んだままだった。

「半年見ない間に、唯笑ちゃん、いい女になったよ」
「――え? え? な、何云ってるんですか、小夜美さん?」
「ほんとほんと。まあ、あたしにはまだ全然及ばないけどね。そのまま精進したら、あたしが卒業するとき、『ビューリホー女子大生』の称号を譲ってあげるわ」

 いたずらっぽく笑って、小夜美さんはあたしの頭にぽんと手を置いた。そうして、とても優しい仕草で、髪をくしゃくしゃと撫でた。

「……頑張れ、少女」
「……」

 何かを口にしたら、途端に泣き出してしまいそうで。
 あたしは強く目を閉じて、ただ何度も頷いていた。