――殺してやりたい。
そう考えることができたら、どれだけいいだろうと思う。
わたしには、その権利があるはず。この家に引き取られてきてから、これまでわたしが受けてきた痛みを思えば。
それなのに。
「……どうしたの、琥珀?」
気がつくと、秋葉さまがわたしの顔を覗き込んでいた。
少しでもぼんやりしていると、このひとにはすぐ見抜かれてしまう。
わたしはすでに自分の一部となったような笑顔を、いつものように浮かべた。
「いいえ、なんでもありません。ごめんなさい、ぼーっとしてしまったみたいで」
「そう? 今日は大事な日なんだから、しっかりしてよ」
「はい」
そうだ、今日はあのひとが帰ってくる。
ずっと待っていた。ずっとずっと待っていた。
だけど、今は――。
「……琥珀」
「あ、はい」
「気分が悪いなら、休んでいなさい。倒れられたりしたら、それこそ迷惑だわ」
「いえ、大丈夫です。本当、申し訳ありません」
笑顔のまま深々と頭を下げる。そして、面を上げると、秋葉さまはじっとわたしを見つめていた。
言葉は厳しいけれど、その視線には、確かにわたしをいたわるものがあった。
そう、そんなことさえわかってしまう。ずっとそばにいたのだから。
「それじゃあ、行ってきます。見送りはいいから。今日は早く帰ります」
「はい、行ってらっしゃいませ、秋葉お嬢さま」
秋葉さまは最後にもう一度わたしを一瞥して、部屋から出ていった。
流れる黒髪を見送り、小さく、ため息をつく。
――殺してやりたい。
そう思い詰めることができれば、いっそ楽になるのに。
*
――消えてしまえばいい。
いっそ、そのほうが、彼女のためにもなるだろう。
閉まりつつあるドアの隙間から、琥珀のいつもどおりの笑顔を見たとき、私はそう考えた。
父が琥珀に加えていた仕打ちを知ったとき、私はすぐに彼女を父から遠ざけた。そのあとも、できる限りのことはしてきたと思う。
だけど、そんなことが彼女にとって、なんの救いになるだろう。
この遠野の家にいる限り。あの男の娘に仕えている限り。
琥珀の心が癒されることなんて、ないはずだ。
それでも、私は琥珀に暇を出さず、そばに置き続けていた。
そう、私は。
琥珀に、そばにいてほしかったのだ。
たとえ彼女の目的が、復讐であったとしても。
――けれど。
階段を下りながら、ふっと重いため息をついた。
なんて浅ましいこと。
琥珀のためを思うなら、遠野の家から遠ざけるべきだなんて。
本当は、今日、兄さんが帰ってくるから。
どんな奇麗事を並べようと、私はただ、あの二人を逢わせたくないだけなのではないか――。
「秋葉さま?」
「――!」
思わず、息を飲んでしまった。
今まで考えていた彼女と同じ顔が、まっすぐに、私を見つめていた。
能面のように無表情に見えるけれど、実際には、この子のほうが何を考えているかずっとわかりやすい。いつも変わらない笑顔を浮かべる琥珀に比べれば。
「ああ、翡翠。行ってくるわね」
「はい。行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
折り目正しく、深々と頭を下げる翡翠の前を通り過ぎて、私は玄関を抜けた。
そういえば、兄さんはいつも翡翠と一緒だった。私は後ろを追いかけて走るだけだったけど、彼女は兄さんといつも並んで……。
我知らず、またため息をつく。
――消えてしまえばいい。
それは、こんな醜い私の物思いこそが。
*
――帰ってこなければいいのに。
秋葉さまの後ろ姿を見送りながら、わたしはそう考えた。
秋葉さまのことではない。
今日、帰ってくる、あのひとのことだ。
あのひとは、きっと、変わっていない。今でもきっと、優しい「志貴くん」のままだろう。
だけど、わたしは。わたしたちは、変わってしまった。
もうあの頃のように無邪気に笑い合うことも、手を取って走ることもできない。
それどころか、何かとてつもなく悪いことが起きるような気がする。
あのひとが帰ってくることで、閉塞したこの屋敷に、遠野という家に、何か恐ろしいことが起きるような。
だから、あのひとはこんなところに帰ってこず、今の穏やかな暮らしを守っていてくれたほうがいいのだ。そのほうが、あのひとにとって幸せなのだ。
そう、わかっているのに。
心の奥底では、狂おしいほど、あのひとの帰りを待ちわびている。
姉さんに対する、ささやかすぎる償い。この屋敷から出ず、喜びも笑顔も捨て去ってしまうこと。
そうして自分を縛り上げた鎖を、いや、わたしたちを束縛して離さない遠野という血の呪いを。あのひとなら、切り裂いて、壊してくれるかも知れない。
そんなことを、願ってしまう。
それはきっと、誰より、あのひと自身を傷つけることなのに。
だから。
――帰ってこなければいいのに。
そう思う。そう、思わなければいけないのに。
※
そうして、モノの死を視る少年が、遠野の家に帰還する――。
了
2001.12.12
あとがき
志貴が帰ってくる日の朝、です。
今回はほぼ心理描写のみで書いてみましたが、翡翠がいちばん書きにくかったかも。彼女はこの三人では、おそらくいちばん、内心の屈託が少ないので。
いちばん書きやすかったのは秋葉です。これはまあ、好みの問題かも知れませんね(^^ゞ。
しかし、私的には『月姫』というと、どうしても遠野家の物語がメインになってしまうのでした(^^ゞ。
ご感想などいただければ、幸いですm(__)m。