「志望校はもう決めたの? 武」
「え?」
読んでいた雑誌から目を上げて、武はキッチンを見やった。夕食の準備をしていた沙夜が、ふと声をかけたのだ。盛りつけた皿をこちらに運ぼうとしているのを見て、武は立ち上がり、皿を受け取る。
「ありがと。……大学のことよ。もうまじめに考えなくちゃ」
今は3月の春休み。普段は人目をはばかり、逢瀬もままならない二人だが、休み中とあれば毎日のように会える。久々の甘い時間を武は満喫していた。しかし、休みが明ければ彼ももう高校3年生、受験生だ。浮かれてばかりもいられない。
「そうだね……」
「もう、他人事みたいに。ダメよ、のんびりしてちゃ」
恋人というより、つい教師としての面を覗かせて云った沙夜は、しかし次の武の言葉で眉をひそめた。
「俺、大学行くのやめようかと思って」
「何云ってるの?」
思わず声を大きくしてしまった。これではまるで進路指導だわ、と苦笑をこらえて、沙夜は話を促す。
「どういうつもりなの?」
「早く一人前になりたいんだ。働いて、早く沙夜と胸を張ってつき合えるようになりたい。もうこれ以上時間を無駄にしたくないんだ」
武の言葉に、沙夜は一瞬、目を見開いた。嬉しかった。彼は自分との「将来」を真剣に考えてくれている。だけど……。
「ありがとう、でもダメよ」
「どうして?」
「そんなのは一人前じゃないわ。一人前の男っていうのはね、本当にやりたいことをちゃんと持っているひとのことよ」
反対されること自体は予想していたが、その理由は思いがけないものだったようだ。武は思わずぽかんと口を開けて、沙夜の顔を見つめた。
「本当にやりたいこと……?」
「そうよ、武がやりたいこと、あなたの夢……。それをまず見つけなきゃ」
「俺の夢は沙夜とずっと一緒にいることだよ」
「わかってる、わかってるわ、武……」
胸の奥からわき上がる愛しさをこらえられず、沙夜は武の首に手を回して、頬を寄せた。
「あなたの気持ちは本当に嬉しい。私だって、あなたとは片時も離れていたくないわ。毎晩、あなたが帰る時間になると泣きそうになる……」
「……だから」
「でも、焦っちゃダメ。今の私たちには時間があるもの。あなたが宿命の鎖を断ち切ってくれたから」
「……」
「私たち、いつか「普通」の暮らしができなくなるんじゃないかって、ずっと怯えてたよね。だから、何かに打ち込んだりするの、怖くてできなかった。いつかきっとそれを失ってしまう……そう思って」
「そう……だね」
中学時代、水泳を諦めた苦い記憶を甦らせ、武は唇を噛んだ。そんな彼を抱きしめる力を強めて、沙夜は続けた。
「でも、今は違うわ。私たちは当たり前のように明日がくるのを信じて生きていける。あなたと二人で、これから先、どんな風に生きていけるのか。考えるだけでわくわくするわ」
「沙夜……」
「だから、焦らないで。ゆっくり、二人で歩いていきましょう? あ、私がおばあちゃんになるまでゆっくりされても困るんだけど」
「沙夜!」
とびきりの笑顔を見せた沙夜を、武は強く抱きしめていた。かけがえのない、自らの半身を。沙夜もまた武を抱き返す。そのまましばしの時が流れ――。
武が、沙夜の耳元で囁いた。
「大丈夫、沙夜がおばあちゃんになっても、お嫁にもらうから」
「……もうっ!」
ふくれっ面で、武の手から離れようとする沙夜。しかし武が腕の力を緩めずにずっと抱いていると、すぐに抵抗をやめて、また体を武に預けてきた。
「ありがとう、沙夜。沙夜はいつも、俺が何をするべきなのか、教えてくれる」
「そんなこと……。あなたはいつも、ちゃんと答えを自分の中に持っているわ。ただ優しすぎるから、迷いが生まれるのよね」
「買いかぶりすぎだよ」
「わかってる……。あ、ご飯冷めちゃったわね。ごめんなさい。すぐ暖め直すから……」
「まだいいよ。それより……」
「――え?」
「もう少し、こうしていたいな」
そう云って、武は沙夜の艶やかな髪に頬を埋めた。沙夜もまた、慈しむように武の髪を撫でる。
「私も……そう思ってた……」
どちらからともなく瞳を閉じる。そして、唇が重なる……。
※
「じゃあ、また明日」
「うん、明日……ね」
夜更け。高校生で、しかも親戚の家に居候している武が、外泊などそうそうできるわけがない。おまけに沙夜は高校教師だ。武が焦るのも無理からぬほど、今の二人には制約が多すぎた。
いつも笑顔で送り出さなきゃ、と沙夜は思うのだが、どうしても寂しさで言葉少なになってしまう。こんなことだから、武が大学に行かないなんて言い出すんだわ。自分を叱咤して、武の好きな笑顔を作ろうと沙夜がしたとき。
武の手のひらが、沙夜の頬を包んだ。その手に自分の手を重ねながら、沙夜は武の瞳を見つめる。こんなことされたら、泣いちゃうじゃない……。
「高校卒業したらさ、俺、斎家を出るよ」
「……え?」
「いきなり同棲ってわけにもいかないだろうから、とりあえず一人暮らしかな。まあ、似たようなものになると思うけど」
照れたように笑う武を、沙夜は半ば茫然として見つめた。
「それぐらいなら、賛成してくれるだろ?」
「……ええ、でも、お父様や斎さんとちゃんと話し合わなきゃダメよ」
「わかってる」
沙夜の髪を武がくしゃくしゃっと撫でる。年上の威厳を保てるのはそこまでだった。抑えようのない涙をこぼしつつ、沙夜は武の胸に飛び込んでいた。
「武……武……武……」
もうほかには言葉にならない。ただ優しく抱きしめてくれる武の胸の中で、沙夜は涙を流し続けるだけだった。
「あと1年……寂しい思いをさせるけど、ごめんな」
そんなことない。云おうとしたけど、やはり言葉にはならず、沙夜は首を大きく振った。
どうすればこの気持ちを伝えられるだろう。私がこんなにも幸せだということを、どうすればこの人にわかってもらえるだろう。
そう思いながら、けれど、沙夜は知っていた。その想いが、二人に共通のものであることを。彼女を抱きしめる腕のぬくもりから、髪を撫でる手の優しさから、武の想いが伝わってくる。同じように、自分の涙が、背中に回した指が、彼にすべてを伝えているはず。それは二人にとって、「事実」としてそこにある現象だった。
やがて少し体を離した武は、沙夜に優しくキスをした。何度も何度も。失うのを恐れるからではなく、ただ愛しさのこみ上げるままに。
※
「おやすみなさい」
ぱたん、とドアが閉じる。そこに残る武のぬくもりを愛おしむように、沙夜はドアをそっとなぜた。
やがてふっとひとつ吐息をつくと、部屋に戻り、後片づけを始めた。お風呂に入って、早く寝なきゃ。明日は二人で鎌倉に行く約束をした。早起きして、お弁当を作ろう。そうやって明日のことを考えているだけで、自然と笑みがこぼれてしまう。
今夜はきっといい夢が見れる。夜が来ることが、明日になることがこんなに嬉しいなんて。
一人の部屋で、沙夜はそっと自分自身を抱いてみる。そこには武のぬくもりが、確かに残っている。
「おやすみなさい、武」
沙夜はもう一度、つぶやいた。