武は、病室のドアの前に立っていた。
このドアの向こうに、彼女がいる。
……やはり、会わないほうがいいんじゃないのか。
この期に及んで、それでも背を向けて逃げ出したくなる心を支えていたのは、自分を送り出してくれた沙夜の笑顔だった。
深呼吸をひとつして、武はドアに手をかけた。
「……たかひさ?」
1
それは2日前のことだった。沙夜の部屋で、武はいつもどおり夕食をすませた。今は沙夜が洗い物をしている音を、珈琲を飲みながら聞いている。
こうしてると、もう夫婦みたいじゃないか。
ふとそんなことを考えて、思わず笑みがこぼれたところを、沙夜に見られてしまった。
「どうしたの、一人でニヤニヤして」
「……いや、なんでも」
「なあに?」
「幸せだなあってことさ」
照れ隠しに武はそう云って笑う。いつもならここで沙夜も少し照れたような、けれどとても嬉しそうな顔で笑ってくれるはずなのだが、今日はなぜか悲しげに、小さく微笑むだけだった。
「……沙夜? どうかしたのか?」
「ううん……」
言葉を濁し、沙夜は武の側に腰を下ろす。そして、そのまま武の肩にこつんと頭を乗せた。武は沙夜の肩を抱いて、その白い顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「そうじゃないの。ごめんなさい。……ただ」
「ただ?」
「幸せだなあって」
「……沙夜?」
言葉とは裏腹に、沙夜の声は哀切に満ちていた。
ふと、武は遠い過去のことを思い出す。「あんたに会えて嬉しかった」そう呟いて、雪の日に逝った少女……。
まさか、沙夜の身にまた異変が? 武が不安と恐怖に心臓を鷲掴みにされたそのとき、沙夜がメモ用紙の切れ端を差し出した。
「松本市総合病院……?」
メモに書かれていたのは、その病院の名前と住所、電話番号。
意図がわからず、武はメモから顔を上げて沙夜を見つめた。沙夜はやはり悲しげな顔をしたままだったが、何かを決意したように唇を噛むと、次の言葉を紡ぎだした。
「高原さんが、そこにいるわ」
「――万葉が!?」
高原万葉。
その名前が、武の心を震わせた。
太祖との戦いの後、行方不明になってしまった彼女のことを、考えなかったわけではない。しかし、あえて意識の外に置こうとしていたのではないか、そう云われると武は否定できなかった。
人の気持ちはどうしようもないとはいえ、彼女の千年の想いを武が切り捨てたことは間違いない。星の並びが変わるほど時が流れても逢いにいく、その約束もまた。そのことが、武の心に棘を残していた。
「……どうして……?」
思わず、声が震えた。
どうして、沙夜が万葉の居場所を知っているのか。
どうして、俺にそのことを教えたのか。
……どうして、今のままではいけないのか。
武の胸に去来した様々な想い。しかし、その答えは、沙夜の言葉を待つまでもなく、武自身もわかっていたはずのものだった。
「私たちは、高原さんにとても大きな借りがあるわ」
「……」
「彼女が助けてくれなければ、私たちはきっと死んでいた。……いいえ、死よりも恐ろしい、太祖の新たな憑坐として、呪われた生を強いられていたかもしれない。それなのに、彼女の生死すらわからないなんて……」
「……」
「だから、私の方で調べたの。ごめんなさい、勝手な真似をして。でも、もし最悪の事態になっていたら……そう思うと、云えなかった」
万葉の死。それはあり得ない事態ではなかった。いや、むしろ最も確率の高いことだったと云えるだろう。
もしそうなっていたら、きっと武は激しい自責の念にさいなまれるに違いない。だから沙夜は、とりあえず生死がはっきりするまでは、武に黙って万葉を捜していたのだった。
武にも沙夜のその気遣いはよくわかる。だから、彼女を責めるようなことはしなかった。ただなにも云わず沙夜の肩を抱いて、その話に耳を傾けていた。
「……幸い、彼女は生きていてくれたわ。ただ……」
「ただ?」
言いよどむ沙夜の姿に、武は新たな不安を抱かずにはいられなかった。そう、万葉は病院にいるという。まさか大きな怪我をしているとか……。
「外傷はないの……。でも、心が……」
「心?」
「そう、誰とも口を利かず、ただじっとあの剣を抱いているだけなんですって。まるで心をどこかに置き忘れてしまったみたいに……」
「そんな……」
武は軽い目眩すら覚えた。自分の裏切りが、万葉をそこまで追い込んだのか? それともほかに何か理由が?
蒼白となった武の手を、沙夜がそっと握る。その手にすがりつくように、武は強く握り返した。今の自分のなにより大切なもの。けれどこの手のぬくもりは、罪の証なのか。
「落ち着いてね、武」
「……ああ、大丈夫……」
そう答えながらも、武の声は震えていた。励ますようにその手をさすりながら、沙夜は言葉を続けた。
「詳しいことはまだよくわからないの。でも、このままにしてはおけないことは間違いないわ。そうでしょう?」
「そう……だけど……」
「彼女のところに行ってあげて」
「沙夜!?」
武は思わず顔を上げて沙夜を見た。そこには迷いの表情はなく、強い決意の色だけがあった。
「なにができるのかはわからない。でも、高原さんを救えるのはあなただけ、それだけは確かだわ」
「そんな……そんなこと、わからないよ。それに、万葉を救うために沙夜が犠牲になるんじゃ、それじゃなにも変わらないじゃないか」
「――犠牲?」
きょとん、という顔を沙夜はした。それから、くすっと笑うと、もう一度武の手を取った。
「いやだ、私、自分から身を引いて、高原さんにあなたを譲ろうなんて考えてないわよ」
「……え?」
「それとも、そうしてほしかった?」
「そんなわけないだろう! 沙夜と別れるなんて、考えられないよ!」
「私もそうよ」
云いながら、沙夜は武の首に腕を回した。武も沙夜の体を強く抱き返す。愛おしい、ただその想いが二人を満たしていく。
「私、本当に幸せよ。でも、その私たちの幸せのために、傷ついた人がいるのなら、それはとても悲しいことだわ」
「……」
「だから……」
「わかった、わかったよ、沙夜」
沙夜を抱く腕の力を強めつつ、武はその耳元で囁いた。
「俺は沙夜を選んだ。そのことを絶対に後悔なんてしない。――だからこそ、けじめをつけてこなきゃいけないんだな」
「武……」
「行ってくるよ、そして、必ず帰ってくる。約束だ」
「ええ……待ってるわ。あなたがなすべきことをなして、帰ってくるのを……。私は、大丈夫だから……」
「沙夜……」
「信じてる……」
2
まだ吹く風に寒さの残る3月。今年は桜が少し遅れているようだ。そんなことを考えながら、武は夜道を歩いていた。
「万葉に初めて逢った日は、確か桜が怖いぐらいに咲いていたっけ……」
ふと夜空を見上げる。この1年、たった1年の間に起こっためまぐるしい出来事が、次々に武の脳裏を駆け抜けた。
「この季節に、もう一度俺は万葉に出逢う……。そして……俺は……なにをするんだ?」
沙夜に告げた言葉に嘘はなかった。けじめは、つけなければならない。そのために、万葉に逢いにいく。そのことにもはや迷いはなかった。
けれど、逢って、どうするのか。詫びるのか。もう一度突き放すのか。それとも……。
どんなに考えても、今は答えが出なかった。
*
「……ただいま」
「あ、たけちゃん、お帰りぃ。今日は早いのね」
「ほぉんと、今日もてっきり午前様かと思ったけど」
沈んだ気持ちで帰宅した武を迎えたのは、いつも通りの斎母子の「いじめ」だった。
もちろん、悪意はない。しかし、今では納得したこととはいえ、やはり「振られた」ことになった栞と、娘の恋を応援してきた母としては、多少の意地悪もしてみたくなるのだろう。
実際には、武と沙夜、二人の関係を認めてくれている数少ない人々だ。武もそのことはわかっているので、腹を立てたりはしない。むしろ気持ちが鬱いでいただけに、栞たちの明るい声は彼の心を和ませた。
「人聞きの悪いこと云わないでくださいよ、節子さん。午前様なんて、したことないでしょう?」
「そうだったかしら? だとしても、たまにはうちで晩御飯食べてほしいわね。栞と二人じゃ寂しいわ」
「そうだよぉ。あ、先生も連れてくればいいじゃない」
「そうね、人数多い方が楽しいわ」
「……考えておきます」
沙夜に云えば喜ぶかもしれないが……でもそれじゃ家庭訪問にしか見えないよなあ、と武は考えて、苦笑した。
そしてそのまま階段を上がろうとしたところで、武は明日からの予定を思い出した。
「あ、そうだ、節子さん。俺、明日からちょっと旅行に行ってきますから」
「旅行?」
「なにそれ? もしかして先生と行くの? あたしも行くっ!」
「違うって。一人旅だよ」
「……なにか、大事な用事が?」
小首を傾げて、節子が武に尋ねた。……やっぱりこの人は鋭いな。
「はい」
「わかったわ。気をつけてね」
「はい」
武の瞳の真剣さを読みとったのか、節子はそれ以上追求しようともしなかった。
しかし、栞の方はそれでは収まりがつかない。二階に上がる武についてきて、そのまま部屋にまで一緒に入ってきた。
「どういうことなの? 先生と何かあった?」
心配そうに眉をひそめて、武の顔を覗き込む栞。武がただならぬ決意を秘めていることを、栞も感じ取っていた。
そのいつでも自分の身を案じてくれる姿に、武は少し心が痛んだ。
沙夜とのことを打ち明けたとき、栞は泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、そして最後には笑顔で、こう云ってくれた。あたし、沙夜先生もたけちゃんも大好きだから、幸せになってね。
改めて、武は思う。人を愛することの難しさを。好きな人の側にいたい、そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも人を傷つけるのだろう……。
「たけちゃん?」
「……ああ、大丈夫、沙夜とはなんともないよ」
「じゃあ?」
「……万葉に、逢いにいくんだ」
「万葉……さん?」
栞の顔色が、さっと変わるのがわかった。武は沙夜から聞いた話を、ざっと栞に話して聞かせた。
「……ということなんだ。正直、俺になにができるのかわからない。でもこのままには――」
「あたしは、反対よ」
驚くほどきっぱりした口調で、栞は武の言葉を遮った。その常ならぬ態度に、武は驚いた。
「栞?」
「今更万葉さんに逢って、それでどうなるというの。たけちゃんだって、ほんとはわかってるんでしょう? 『できることなんてなにもない』って。それでも彼女に逢いたいなんて云うのは、ただの自己満足よ」
「……自己満足」
そうかもしれない。万葉とのことにきっちりけじめをつけたいというのは、自分自身が気持ちを楽にしたいだけなのかも。万葉にとっても、俺との再会は痛みをもう一度繰り返すだけなのかもしれない。だけど……。
「それでも、俺は行くよ」
「どうして……! そんなことしたって、誰も幸せにはならないよ。先生だって、ほんとは行かないでほしいって、思ってるはずだよ」
「約束したんだ。行って、自分のなすべきことを見いだしてくる。……そして……必ず、帰ってくるって」
「たけちゃん……」
栞は涙を目に浮かべて、唇を噛んだ。しかし、武の決意は変えられないと悟ると、くるっと背を向けた。
「……知らないから」
「栞……」
「たけちゃんのばかっ!」
叫ぶと、栞はそのまま武の部屋を走り出てしまった。武は追いかけようと一瞬腕を伸ばしたが、目の前で閉まったドアを開けようとはしなかった。拳を握りしめ、溜息をもらす。そして、ベッドに腰掛けて、栞の言葉を反芻した。
「先生だって、ほんとは行かないでほしいって、思ってるはずだよ」
……そうだろうか。あのとき、沙夜に万葉のことはもういいんだと、お前との暮らしがなにより大事だと云ってやればよかったのだろうか。
違う。いや、俺が本気で考えた結果、出した答えがそれなら、沙夜も受け入れてくれただろう。だけど、自分の心から逃げるために、沙夜への想いを口実にすることなんかできない。
やはり、俺は、行くしかないんだ。
3
翌日。見送りには沙夜と栞、そして汰一が来ていた。
汰一も栞から事情は聞いていたが、あえてなにも云わず、武の肩を叩いた。
「……じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
そして、沙夜は微笑む。その笑顔を見て、武は自分の選択が間違っていないことを知った。
必ず、帰ってくる。わざわざ口にするまでもなく、お互いの瞳が誓いを交わす。
やがてドアは閉まり、列車が走り出した。その列車が遠く見えなくなるまで、沙夜は見送っていた。
「先生……」
「……帰りましょうか。お茶でも飲んでく?」
屈託のない笑顔で、沙夜が云う。その笑顔に、栞はどうしても云わずにはいられなくなってしまった。
「先生は、ほんとにこれでよかったんですか? たけちゃんを行かせてしまって、本当に?」
その問いかけに、沙夜はちょっと困った笑顔を見せた。その表情は、栞にはやはり無理をしているように見えた。だから、沙夜の次の言葉も、虚勢だとしか思えなかった。
「……二人で、決めたことだから。こうしなきゃいけないって」
「そんなの……! そんなの、おかしいですよ! どうして、あのひとのためにそこまでしなければならないんですか? 今の幸せを捨ててまで?」
「おい、栞、落ち着けよ」
汰一が栞をなだめようとするが、栞の耳には届かない。栞はただ涙を瞳にいっぱいためて、沙夜を見据えていた。
この子は本当に、私たちふたりのことを案じてくれている――。そのことは、沙夜にも痛いほどに伝わってきた。けれど――。
「私たちは、なにも捨てていないわ」
「先生……」
きっと、彼女には私が意固地になっているだけに見えるのだろう。そうわかってはいたが、しかし、沙夜も自分の気持ちに嘘をついていたり、自分でも信じられないことを信じ込もうとしているわけでもなかった。そのことを、どうやって説明したらいいのか。もどかしさを感じていたのは、栞よりむしろ沙夜の方だったかもしれない。
「もしかしたら、たけちゃんはもう帰ってこないかもしれないんですよ。それでもいいんですか?」
「それが彼の出した答えなら、それでもかまわないわ」
「……!」
「彼を信じてる」
「……うそっ! 先生はやせ我慢してるだけよ! そんなの……そんなの……あたしはイヤだから!」
そう叫ぶと、栞は沙夜と汰一に背を向けて走り去ってしまった。
「栞さん……!」
引き留めようとする沙夜の声も、もう届かない。うつむく沙夜を気まずそうに軽く見やった汰一は、とりあえず栞を追いかけることに決めた。
「先生、すみませんでした。とりあえず栞のことは俺に任せてください」
「ええ、お願いね。……私の方こそ、ごめんなさい。あなたたちにまで、いやな思いをさせてしまって」
「そんなこと……。でも先生、栞の云うことも一理あると思いますよ。いつでもそんな風に、自分を抑えていなくてもいいんじゃないですか」
「汰一君……」
いつの時代でも、沙夜と武は歳の離れた間柄だった。そしてそれだけでなく、いつも想いを通わせ難い関係に置かれていた。たとえば叔母と甥であったり、敵同士であったり――。そのため、沙夜は我知らず自分をセーブするところがあるのは確かだった。
しかし、今ではそうした困難を乗り越えて結ばれたはず。それをいつまでも遠慮していたのでは、今の幸せさえ壊してしまう。栞や汰一が云いたいのはそういうことだった。だが。
「ありがとう。でも本当に、違うのよ。そういうことじゃないの」
やはり沙夜は、少し困ったように微笑む。栞と違い、汰一にはそれはただの強がりだとは思えなかった。
「……先生?」
「早く行ってあげて。ね」
「わかりました。それじゃ……」
「またね」
沙夜のことは気がかりだったが、栞を放っておくわけにもいかない。汰一は栞を追って、身を翻した。
*
地下鉄の改札で、汰一はようやく栞に追いついた。栞はまだ泣いている。人目が集まるのを感じながら、汰一は栞をベンチに座らせた。
「ちょっとは落ち着いたか?」
「うん……ごめんね、汰一ちゃん」
そう云いながら、まだ涙は止まる気配がない。汰一は栞の隣に腰掛け、その顔を覗き込んだ。
「相変わらずだな。人のために泣いてばかりで」
「そんなんじゃないよ……。でも、どうしてなんだろう。……ううん、たけちゃんや先生の気持ちはわかるの。でも、そんなの、優しすぎるよ。もっと自分の幸せのために、わがままになってもいいのに……」
「栞が云っても、説得力がないな」
「……え?」
「二人のために、自分の気持ちを殺しているだろう?」
「それは……それは違うよ。あたしは沙夜先生もたけちゃんも好きだもの。二人には幸せになってほしい」
「あの二人も、同じように考えていると思うよ」
「……」
「自分だけが幸せならいいっていうのであれば、他人のことなんか放っておけばいい。でも栞の好きな武も沙夜先生も、そういう奴じゃないだろ?」
「……うん」
ようやく栞は泣きやんでいた。やっと納得してくれたか、と安心して笑いかけようとした汰一は、しかし、先ほどより栞がもっと蒼白な顔をしていることに気がついた。
「栞?」
「そう……わかってたの。たけちゃんのあの性格なら、止めることなんかできないって。だけど、すごく不安……。たけちゃんと、万葉さんの絆の深さが、あたしにはわかるから……。あのときのように……にいさまは、もう戻らないんじゃないかって……」
「おい、栞っ!? しっかりしろ、栞!」
熱に浮かされたようにしゃべり続ける栞の肩をつかんで、汰一は思わず乱暴に揺さぶってしまった。我に返った栞は、汰一の腕をつかみ、哀願するような口調で云った。
「帰ってくるよね? たけちゃんは、……帰ってくるよね?」
「――ああ、帰ってくるさ。約束したじゃないか、武は」
「そう……そうだよね……。帰ってくるよね……」
栞に言い聞かせながらも、汰一は自身もまた不安に蝕まれているのを感じていた。そして同時に、沙夜の言葉を思い出してもいた。
「彼を信じてる」
不安がないはずがない。それなのに、どうして彼女はあんな風に笑えるのだろう?
理由はわからないが、その沙夜の笑顔だけが、今の不安を打ち消してくれる唯一の希望のように、汰一には思えた。
4
「あの……すみません、高原万葉さんの病室は、どちらでしょう?」
病院の受付で、武は訊ねた。
とうとうここまで来てしまった。
どうするべきなのか、未だ答えは出せていなかったが、とりあえず万葉の無事を確かめる。すべてはそれからだ、と武は考えていた。
「高原さん? まあ、あなた、ご親族の方?」
万葉の名を聞くと、受付にいた看護婦は喜色を浮かべた。しかし、武の返事を聞くと、すぐに落胆を露にした。
「いえ……友人です。こちらに入院していると聞いて……」
「あら……そうなんですか。失礼しました。やはり身寄りはいらっしゃらないのね。可哀想に」
「……」
万葉の両親はすでに他界し、兄弟はもちろん、親族もいなかった。幸い資産家の家庭であったため、万葉が生活する分には困らなかったが。万葉は遺産の管理を父の友人であった顧問弁護士に委ね、東京に出てきていたのだった。
ある日のこと。神剣を抱いた万葉が高原邸の玄関で倒れているのを、管理人が見つけた。おかげで身元はすぐにわかったが、意識を取り戻した後も、万葉は一言もしゃべらない。入院の手続きなどは件の弁護士が行ってくれたが、これからどうしたものか、途方に暮れていたのだという。
「だけど、お友達が来てくださったのなら、きっと喜ぶわ。元気づけてあげてください。302号室です」
「……はい、ありがとうございます」
廊下を歩きながら、武は万葉の孤独を思った。天涯孤独の身で、ただ武に逢うことだけを願って……願って。千年の約束を、今生でこそ果たそうと。それなのに……。
武は立ち止まり、頭を大きく振った。
なにを考えている、武。同情で、万葉を救えるというのか。
違う。同情なんかじゃない。
じゃあ何だ。愛だというのか。沙夜はどうなる?
違う……。
自問自答を繰り返す。
気がつけば、病室の前に立っていた。
――やはり、逢うべきではない。
きびすを返そうとしたそのとき、沙夜の笑顔が、武の胸に甦った。
「あなたを、信じてる」
今ここで逃げ出せば、俺は二度と、沙夜の笑顔を正面から受け止められないだろう。
自分を送り出したその言葉に支えられて、武は、ドアに手をかけた。
*
そこに、彼女はいた。
窓からの柔らかな光を浴びたその横顔は、やはり、息を呑むほどに美しい。まさに天女のように、透明感のある美しさだった。
けれど、今、その瞳にはなにも映っていない。ただ神剣を胸に抱いて、虚空を見つめている。
武は声をかけることもできず、ただその場に立ちつくしていた。
そのとき。ゆっくりと、万葉の首が動いた。彫像と化した武の方へゆっくりと面を向け、そして、胸を締め付けるほど悲しい笑顔を浮かべた。
「たかひさ……」
「……え?」
「鷹久……やっと来てくれた」
「まよ……う……?」
「必ずまた巡り会える……そう、信じていたわ」
万葉の頬を、涙の雫が伝う。
その姿に、声に、心を震わせられながらも、武の胸では不安の影が大きく広がっていった。
「螢……なのか? 万葉? 俺を、覚えていないのか?」
「……?」
万葉は軽く首を傾げて、武を見つめた。なにを云っているのかわからない、という表情だ。私はこんなにもあなたを求めているのに、なにを云っているの? あなたこそ、私を忘れてしまったの? そう問いかけているかのようだった。
そのとき、聞き覚えのある声が、武に囁いた。
(今のママは、螢だったときの記憶しかないの)
「……え?」
慌てて病室を見回す。しかし、そこには武と万葉しかいない。二人と、一振りの剣だけしか。
――まさか?
武がそのことに思い当たると同時に、万葉の胸に抱かれた神剣が、まばゆい光を放った。思わず目をかばう武。やがて光はゆっくりと薄れていき、武が再び目を開けたときには、見知ったもう一人の女性がそこに立っていた。
「パパ……やっと来てくれたのね」
「天野先輩!? どうして? パパって……ええ?」
そう、そこにいたのは、オカルト神秘学研究会部長・天野聡子だった。彼女は万葉と時を同じくして失踪し、栞をいたく悲しませたのだった。
その聡子が、今、忽然と姿を現した。あまりに予想外の出来事に、武はうろたえきってしまった。
「どういう……ことなんですか? 先輩……?」
武は、相変わらず不思議そうに自分を見つめる万葉と、悲しげな表情を見せる聡子との間で視線をさまよわせた。
そのとき、武はあることに気づいた。神剣がない。万葉がけして離そうとせず、常に抱いていた神剣・天叢雲が。
そして、そこには聡子が立っている。まるで叢雲が変化したように――。
「まさか……」
武の中で、様々な出来事がつながり、形を現していった。螢との出会い。叢雲の誕生。自分を守り、一度は砕けた叢雲。転生――。
「薙……? 薙なのか?」
「そうよ、パパ……。やっと……やっと思い出してくれた……」
こらえきれず涙をあふれさせて、聡子――薙は武に抱きついてきた。そのまま本当に子供のように、泣きじゃくる。
武は戸惑いながらも、その体を受け止める。心を満たす暖かさと切なさに、それがまぎれもない真実であることを、武は悟っていた。