1
子猫の鳴き声がした。
万葉は足を止めて、周りを見回してみる。
いた。
街路樹の根本で、小さな子猫が雨に打たれながら震えている。母猫の姿は見あたらない。
万葉が近づいて傘をさしかけても、逃げようとはしなかった。
足下でうずくまる子猫を抱き上げ、万葉は囁く。
「お前も……どこにも行き場所がないのね……」
答えるように、子猫がまた小さく鳴く。
雨に冷えたその体に頬ずりしながら、万葉はふと涙をこぼした。
傘が手を離れ、地面に転がる。降り続ける雨が万葉の髪を濡らし、頬の涙を隠した。
「あなたが見つけてくれるまで……私はどこにも行けないの……。だから……私を探して……逢いに……来て……」
雨はまだやまない。
2
「雨、降ってるんだ……」
栞はベッドから手を伸ばして、カーテンを少し開けてみた。
空にはどんよりとした雲が広がり、細かい雨が降り続いている。
起きあがる気にもなれず、栞はもう一度布団をかぶり直した。
……いつもなら、武が起こしに来てくれるはず。けれど今日は休日なので、とりあえずまだ放っておかれている。
楽しみなはずの日曜日も、栞には少し恨めしい。
「たけちゃん……どうしてるかな……」
隣の部屋にいるのだろうか。それとももう出かけてしまったのか。
……誰と?
自分の想像に、栞は胸を痛めた。
これまで、武はずっと栞の側にいてくれた。これからもずっとそうだと思っていた。
けれど。あのひとが現れてから、何かが違ってきた。
「たけちゃんは、万葉さんのことが……」
好きなの?
言葉にしてしまうと、それが真実になるような気がして、栞は口をつぐんだ。
涙がこぼれそうになる。布団をすっぽり頭までかぶって、考えるのをやめにした。
「あたしを……ひとりにしないで……」
雨音だけが、静かに響いていく。
3
気がつけばまた彼のことを考えていた。
どうかしてる、と沙夜はひとつ溜息をつく。
7つも年下の……それも教え子のことがこんなに気になるなんて。
同じ悪夢を共有しているとわかったからだろうか?
それは確かに原因のひとつには違いなかったが、それだけではない、何かもっと深いつながりがある……。沙夜にはそんな気がしてしょうがなかった。
しかし、だからといってどうなるものでもない。7歳年下の教え子。その事実には、なんら変わりはないのだから。
そこで沙夜はまた大きく溜息をつくと、書き物をしていた机から離れ、床にぺたんと座り込んだ。膝を抱えて耳を澄ますと、雨音が響いてくる。
……淋しい。
じっと雨音に耳を傾けていると、そんな言葉が胸の奥からわき上がってくる。
子供の頃から、孤独感に苛まれることが多かった。
友達が少なかったわけではない。家庭が不和だったわけでもない。
それなのに、時折無性に淋しかった。
なにかが違う。私の中に、異質ななにかがある。
それが明らかになったとき、きっと誰もが私から離れていくに違いない。
そんな確信があった。
――だけど、彼は違う。
彼なら、ありのままの私を受け入れてくれる。
そのもうひとつの確信は、沙夜の心に暖かい灯をともしたが、同時に、深い絶望の淵を覗かせてもいた。
彼が、自分を選んでくれるとは思えなかったから。
いつかきっと、彼を見送る日が来るのだろう。そのときは、優しすぎる彼が心を残さないよう、笑顔で送り出してあげなくては。
そう、私は大丈夫、大丈夫だから……。
いつしか、沙夜は涙を流していた。抱えた膝に頭を乗せ、静かに涙がこぼれ落ちていく。
「私は大丈夫……だけど……だいすき……」
微笑んで呟く。
雨はやむことなく降り続ける――。
2000.7.25