真紅の絆  第一章 旅立ち

−後編−


     4

「あーあ、せっかく京都まで来たっていうのに、よりによってここですか」

「文句云ってないできりきり歩く! でないと、日が暮れちゃうわよ」

「ぶー……」

 道を歩けば誰もが振り向く美女二人連れ。しかし彼女らが歩いているのは祇園や河原町の繁華街ではなく、訪れる人も稀な愛宕山の登山道だった。
 そう、つい1カ月ほど前に訪れた決戦の地。そこを沙夜は目指していた。

「この旅は巡礼みたいなものなんだから。まずここから始めないと。嫌なら帰ってもいいのよ?」

「はいはい、わかりましたよ。……でもね、先生。ここにはやっぱり、迂闊に近寄るべきじゃないと思いますよ」

「それは……そうかもね」

 確かに沙夜も、感じていた。何か表現しがたい不快感。近づくほどに、それが濃くなっているように思える。

「だけど、それならよけいに放っておけないわ」

「……わかりました。じゃあ、もう人気もないですし、飛びますよ」

「え?」

 聞き返そうとしたところで、薙の手が沙夜の腰を支え、そして――飛んだ。
 空間の揺らぎに眩暈がする。
 再び目を開けると、そこはもう愛宕神社跡だった。

「大丈夫ですか?」

「ええ、慣れてないからちょっと眩暈がしただけ……。まだちょっと、気持ち悪いかな」

「気持ちが悪いのは、『飛んだ』せいじゃないと思いますよ」
 油断なく辺りに目を配りながら、薙が答える。
 沙夜も気づいた。全身が粟立つような不快感。あのときと同じ。

「これは……瘴気? そんな、どうしてこんなにも……」

 思わず自分を抱くようにして、身震いする。冬の京都は底冷えするが、それ以上にここは冷え冷えとし、禍々しい気に満ちていた。

「太祖の「気」がまだ残っているのかしら?」

「それだけじゃありません。その気に引かれて、様々な負の想念が集まっています。危険だわ。早く封じないと……」

「封じるなど、無駄なことよ」

「――!」

 沙夜と薙が、同時に振り向いた。
 なにか、いる。
 道綱――大嶽丸にも匹敵する、強く、禍々しい気の持主。そして、それに率いられた無数の邪気が。

「たとえどれほど固い封印を施し、浄化を行ったとしても、悪しき想念は必ずまた澱み、闇への道を開く。なぜならそれが人の本質だからだ」

 声とともに、近づいてくる気配。
 沙夜と薙は寄り添い、身構えた。

「まさか……道綱?」

「ありえません……早すぎる」

「でも、これは……」

「大嶽丸程度の力を持つものなら、いくらでもいるぞ」

 声に嘲笑の響きが混じる。
 唇を噛み締め沈黙する沙夜と薙。
 そうしている間にも気配はどんどん近づき――ついに、茂みの中からその姿を現した。

「あなたは……!」

 見た目は、精悍な人間の男性だった。
 しかし、二人は、その男を――その男が放つ気を「知って」いた。
 戦慄のあまり、金縛りに近い状態になる。
 信じられない。
 その思いもあらわに、薙がようやく一言、呟いた。

「……酒呑……」

 男が獰猛な笑みを浮かべた。

     *

「ほう、これは珍しい奴に出会ったことだ。叢雲に……鬼姫か」

「……鬼姫……?」

「センスのない仇名をつけられましたね、先生」

 肩をすくめて、薙が呟く。度胸を据えたらしく、落ち着きを取り戻していた。腕を組み、昂然と顔を上げる。

「珍しいのはあなたのほうよ。まさかこんな大物が復活していたなんてね」

「酒呑……本当に……?」

 一方、沙夜の面はまだ蒼白のままだ。
 無理もない。伝説の鬼――酒呑童子を目の前にしているのだから。
 かつて大江山を根城に、都人を恐怖に陥れた最強の鬼。その力は大嶽丸をさえ凌ぐだろう。相手にするには荷が重過ぎるのは明らかだった。

「美女二人に惹かれて、迷い出てきたの?」

「減らず口を叩く余裕があるとはな。面白い女よ。……この程度のことは予想していたということか?」

「……」

 思わず、沙夜は薙の顔を見た。薙は何も答えず、ただじっと酒呑を睨み据えている。

「ほんの一瞬とはいえ、太祖が復活したのだ。大和の国中で、負の想念が著しく活性化された。我のみならず、様々な鬼どもが復活を果たしていようよ」

「……なんてこと……」

 沙夜は息を呑んだ。しかし、薙はやはり動揺した様子もない。
 ここでいきなり酒呑童子に遭遇するのは予想外だったが、闇の活性化と鬼の復活自体は、考えに入れていたということだろうか。いや、すでにその動きを知っていたのか。だから、護衛が必要だと云ったのか。
 そんな沙夜の物思いを、酒呑の声が破った。

「で、裏切り者が二人そろって、こんなところへ何をしにきた?」

 嘲弄と侮蔑。酒呑の口調からはその二つがあからさまに伝わってきた。
 それに対し、薙は臆することなく、

「私は何も裏切っちゃいないわ。私は生まれながらに中立よ。ただ自分が認めた人のために尽くす、それだけよ」

 そう言い放ち――あろうことか、あかんべをしてみせた。
 さすがの酒呑もやや鼻白み、薙の言葉の意味を深く考えなかった。
 だが、沙夜には引っかかった。「生まれながらに中立」。それはどういうことだろう?

「沙夜先生だって同じよ。ね、先生」

「え……」

 不意に呼びかけられ、沙夜の思考は再び中断した。
 いけない、いけない。
 知らず知らず、薙に頼り切ってしまっていた。なんと云っても沙夜より薙のほうが遥かに霊格が高い。酒呑童子という予想外の大物と相対し、薙に依存する心が出てきてしまっていたのかもしれない。
 しかし、本来これこそが自分の求めていた状況のはず。そのためにこそ、旅に出たのだ。
 ともすれば震えそうになる足を踏みしめて、沙夜は一歩前に出た。
 酒呑が、興味なげにじろりと一瞥する。
 その視線だけで、すさまじい霊圧があった。
 目をそらすまい、と懸命に沙夜は自らを叱咤した。

「私は……土蜘蛛を滅ぼすために、人と結んだのではありません。人も土蜘蛛も、そして神さえもともに生きてゆける世界が作れると思ったから……」

「……はっ」

 沙夜の言葉が終わらぬうちから、酒呑は一切の興味を失ったような素振りを見せた。
 そしてその態度に、声を細めてしまった沙夜を睨み据え、相変わらず嘲弄する口調で吐き捨てた。

「何を聞かせてくれるのかと思えば、なんとありきたりでつまらぬ物言いであることか。人や神とともに生きる世界だと? そんな世界で、我らはどうやって生きていくのだ。日陰に追いやられ、いわれのない迫害にさらされ、それでもただ生かされていることに感謝して生き長らえよと云うか?」

「違います……! 人とだって、理解し合えるはず。共存の道も――」

「ない」

 あまりに強い断定。そう云い切る酒呑の瞳には、暗く激しい炎があった。

(その炎の中にあるのは、怒り、憎しみ、恨み、そして――悲しみ)

 二人のやり取りを眺めながら、薙は酒呑の思いを読み取ろうとしていた。

(その悲しみに気づけば、説得できるかもしれない。――いや、むしろ逆鱗に触れるか。難しいところね)

 そんなことを考えながらも、薙は口を挟むつもりはなかった。ただ黙って二人の会話に耳を傾け続けた。

「すべては歴史が証明している。我らまつろわぬものは、服従か死かを迫られた。いや、服従さえ許されず、ただ無意味な殺戮の対象とされたことも数知れぬ。血と憎悪、我らと人との間にあるのはそれだけだ」

「そうした歴史があるからこそ、変えていかなければならないのではないの? 未来永劫、憎しみ合い、血を流し合うの?」

「それしか道はない」

「そんな……! そんなことないわ! 私たちは確かに心を通わせることができたもの!」

「……ぬしらのことは我も聞いている。鴛鴦命は、所詮闇の血に連なるものではないか。あやつと通じるものがあるのは、当然のことだ。……それに」

 一度言葉を切った酒呑は、薄い笑みを浮かべた。皮肉で、凄惨な微笑。

「本当に、心を通わせたと信じているのか?」

「どういう……こと……?」

「哀れな女よ。結局、ぬしは利用されただけではないのか」

「……!」

「闇の皇子として生まれながら、神に寝返ったあの男。その後ろめたさを隠すためには、ぬしのような女に寵をかけるのが何よりよな。それにまんまとだまされ、ぬしは本来の務めを捨ててあの男の元へ走り、太祖の封印にまで手を貸した。あの男にすれば、笑いが止まらんというところだろうよ」

「……」

「同情で生かされ、都合よく利用される。ぬしの今の姿こそが、我らの歴史そのものではないか」

「ちょっと、あんた、いい加減に――」

 さすがに黙っていられなくなった薙が、口を開いたそのとき。

「黙りなさい」

 沙夜が、一言、云った。
 その一言に、薙は――そして酒呑すらも、戦慄した。
 うつむいて酒呑の言葉を聞いていた沙夜が、頭を上げる。正面から酒呑を見据えるその姿には、もはや怯えた様子は微塵もなかった。

「あのひとを侮辱することは、何者でも許さない」

 抑えようのない気の高まりが、沙夜の全身から吹き上げてくる。
 霊格すらもが、一時に上がったかのようだった。
 その霊圧をまともに受けながら、酒呑は、なぜか会心の笑みを浮かべていた。

「これが……闇の皇子の妃たる血か……」

「……! 先生、いけない! 早すぎます!」

 何かに怯えたような薙が、沙夜の腕にすがりついて体を揺さぶる。
 すると、沙夜ははっと正気づき、元の様子に戻った。周囲を圧倒していた「気」が一瞬で収まる。眩暈を感じて倒れそうになった沙夜を、薙が支えた。

「……私……?」

「先生……よかった……」

 その様子を、酒呑が先ほどまでとは打って変わって、興味深く眺めていた。
 薙は沙夜をかばいながら、そんな酒呑を激しく睨み据えた。

「先生、ここはいったん退きましょう。話してわかる相手でもないわ」

「……」

 唇の端だけで、酒呑が皮肉な笑みを作る。
 ぎりっ、と音がするほど、薙は唇を噛み締めた。
 屈辱だが、この場はやむをえない。なんとか脱出する隙を薙は探していたのだが。

「待って……、待ってちょうだい」

 沙夜は薙の腕から離れ、酒呑のほうに一歩踏み出した。
 その瞳の中にあった真摯さと深い悲しみ。それが届いているのかどうか、酒呑は表情を変えずに沙夜を見据えている。

「それなら……人との共存を受け入れないのなら、ひとつだけ教えて。酒呑童子、
あなたは何を望むの? 道綱と同じように、人を滅ぼし、土蜘蛛の世を作ろうと思っているの?」

「我は……」

 そこでまた、酒呑は笑みを浮かべた。しかし、それはこれまでの皮肉な薄笑いとは違っていた。ある意味、喜色を浮かべていたといってもよい。
 薙は、最悪の事態を想像した。

「我は、大嶽丸と違い、七面倒なことをわざわざ始めようと思わぬ」

「だったら……」

「我が欲するものは、力のみ」

 それまで抑えていたのだろう、酒呑の霊気の高まりが放出されていた。空気が緊張をはらみ、肌がぴりぴりする。
 酒呑の腕が上がる。
 息を呑んで見守る沙夜を、まっすぐに指差した。

「だから、我が望むもの……それはぬしだ」

「私――?」

「……このセクハラ野郎……」

 悪態をつきつつ、薙もまた気を練り始める。
 最悪の予想は当たった。いよいよ抜き差しならないところまで来てしまったようだ。
 だが、当の沙夜には酒呑の意図も、薙の警戒も理解できなかった。

「……どういう……ことなの? なぜ、私を……?」

「闇の皇子の妃……『魂奮りの巫女』を手に入れれば、己の力を望むがままに高められるという。今やぬしは闇の者の宝よ。我は運がいい」

「な……?」

 沙夜は驚愕した――というより、呆れていた。
 確かに自分は『魂奮りの巫女』と呼ばれた。武を闇の皇子として覚醒させる鍵でもあった。しかしそれは、あくまで武――闇の皇子と対になってのことではないか。武が闇の皇子とならず、神として登極を果たした今、自分の力にはもうなんの意味もないはずだ。
 それなのに、こんな迷信といってもいいような形で、話が残っていようとは。

「何を云っているの? 闇の皇子がいない今となっては、私にはなんの価値もないわよ」

 だが、酒呑はまったく動じた気配もない。腕組みをし、薙のほうへ顎をしゃくった。

「価値がないかどうか、その女に訊いてみるがいい」

「天野さん……?」

 振り返り、沙夜は薙が蒼白な面持ちで立っていることに気づいた。
 再び沙夜をかばうように、薙がその前に出る。そして酒呑の動きにいつでも対応できるよう構えながら、答えた。

「酒呑の云うとおりです」

「……! そんな……?」

「先生の血は一種の触媒……。自らの内に取り込めば、何倍にも力を高められます。『魂奮りの巫女』であることと、『闇の皇子の妃』であることとは別なんです」

「……なんて……こと……」

 己が自覚していた以上の宿命の重さ。そのことに、沙夜は恐怖さえ覚えた。
 自分が今度は闇の者の標的となるからではなく、自分の存在そのものが、第二第三の闇の皇子を生みかねないことに。

「ママだけが、そのことに気づいていました。ママが一番恐れていたのは、そのことだったんです」

「そう……それで、あなたを……」

「……」

 万葉が恐れていたのは、自分が再び闇の側に走ることなのだろう、と沙夜は思っていた。しかし、問題はそんな簡単なことではなかったのだ。

「納得できたようだな。さあ、我の元へ来たれ、闇の姫よ。我が妻となれば、命まで取ろうとは云わん」

「一生幽閉して、力を吸い続けるのを『妻にする』とは云わないわよ」

「ならば一思いに食らってやろう。どちらでもよい」

「ですって。先生、どうします?」

 身構えたまま、薙が沙夜に視線を投げかける。
 一瞬、互いの瞳を見交わし、――そして沙夜も、決意していた。
 怒りを双眸に映して、酒呑を睨み据える。

「どちらもごめんだわ」

「そういうことよ。振られたわね、酒呑!」

 云うが早いか、薙はさきほどから練り続けてきた気を一気に叩きつけた。
 酒呑が右手を上げ、手のひらを広げてその気を受ける。
 激しい気と気のぶつかり合いに大地がどよめき、烈風が木々をなぎ倒した。
 濛々たる土ぼこりが収まったとき、彼らが立っていた場所には巨大なクレーターができていた。そして、沙夜と薙は、姿を消していた。
 かすり傷ひとつ負っていない酒呑が、獰猛な、そして嬉しげな笑みを浮かべる。

「狩の時間か。楽しませてくれる」

     5

 薙の手刀が一閃すると、その動きに合わせて気の煌きが尾を引く。その輝きに触れると、力の弱い妖魔はそれだけで崩れ去る――はずだったが、今では弾き飛ばすのが精一杯だった。
 額に浮かんだ汗を、薙がぬぐう。その背中をサポートしつつ、沙夜は心配げに薙の表情を伺った。
 本来、神剣・天叢雲の相手になるようなものどもではない。だが、いかんせん数が多すぎた。倒しても倒しても妖魔の群れは襲い来る。しかもすべてが一斉に攻撃するのではなく、断続的に攻めてくるのだ。切り抜けたか、と一息ついたところで、新手が現れる。明らかに沙夜たちは弄られていた。
 目の前にいる、最後の一匹を撃退する。次はいつ出てくるか、周囲に気を配りながらも、薙は大きく息をついた。沙夜が駆け寄って、体を支える。

「大丈夫? 天野さん……」

「平気です。これぐらい」

 気丈に笑ってみせる薙。しかし、その消耗ぶりは隠しようもなかった。
 戦力としてあまり役に立てず、むしろ守ってもらってばかりの沙夜は臍を噛んだ。

「ごめんなさい、私、足手まといになってばかりで……」

「なに云ってるんですか。さ、今のうちに走りましょう。酒呑の結界を抜ければ、『飛ぶ』こともできます」

 休む間もなく、二人が駆け出そうとしたとき、

「ふ……なかなかしぶといな」

 酒呑の声が響いた。
 近くには、いない。まだ自分が出るまでもないと思っているのだろう。

「さすがは叢雲、というべきか。だがその姿では、本来の力も発揮できまい。どこまでやれるか、楽しみにしているぞ」

 嘲笑が重なる。そして同時に、新手が現れた。それもこれまでの雑魚とは明らかに格の違う邪鬼が。

「くっ……!」

 守りに回ったら、受けきれない。とっさにそう判断した薙は、先制攻撃で打ち倒すべく、気力を振り絞って力をためた。

「はぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 裂帛の気合とともに、ありたっけの力を込めて邪鬼に叩きつける。
 狙いたがわず、薙の気は邪鬼の上半身を吹き飛ばした。
 深いため息をついて、思わず薙が地に膝をつく。そこへ、沙夜の悲鳴が響いた。

「天野さん、危ない!」

「……え?」

 振り仰いだ薙の視線の先に、もう一匹の邪鬼が映った。鋭い鉤爪を薙めがけて打ち下ろそうとしている。
 その視界を、沙夜の体が遮った。薙を守る盾になるために。
 このままでは、沙夜が死ぬ。
 そう思ったとき、薙はほとんど無意識にさきほど使った以上の気を放っていた。
 邪鬼が光の中で、ぼろぼろと崩れていく。
 その様子を見届けると、薙はついに精根尽き果ててその場に倒れた。

「天野さん!」

「……先生、無茶ですよ」

 蒼白になりながら、からかうように笑う。
 今にも昏倒してもおかしくない憔悴ぶりだった。
 もう、限界だ。私の軽はずみな判断で彼女を危険に巻き込んでしまった。これ以上苦しい目に遭わせるわけにはいかない。
 沙夜は最後の決断を、した。

「天野さん……」

 薙の上半身を抱き、まっすぐに瞳を見詰める。真剣な――というより、むしろ優しげな表情で。薙がかすかに、首を傾げた。

「私を……殺して」

「な……!」

「私に本当に酒呑が云うような力があるのなら、絶対に闇の者に渡すわけにはいかないわ。あなたなら輪廻さえ断ち切り、私の存在自体を抹消できるはず……。それに、あなた一人なら、逃げることもできるはずだわ」

「先生……」

 目を見開いて、薙が沙夜の顔を見つめる。
 こっくり、と沙夜が頷いた。

「……」

 無言で、薙が沙夜に向けて手を伸ばした。手のひらに力が集まるのがわかる。
 沙夜は目を閉じ、刹那の衝撃に備えた。
 ごめんね、武さん。
 さよなら、みんな。
 薙の手が、沙夜に近づいていく。そして――。
 ぽん、と沙夜の頭に手を乗せた。髪をくしゃくしゃと撫ぜる。
 茫然として沙夜が目を開けると、薙は瞳に涙を浮かべて微笑んでいた。

「バカなこと云わないでください」

「天野さん……」

「私の使命は、先生を闇の手に渡さないことじゃありません。先生を守ることです」

「……」

「だから……そんなこと云わないでください。もう二度と、そんな……」

 どうして、とは沙夜は聞かなかった。
 ふたりとも、親しい人の死に出遭いすぎていたから。

「……わかったわ。ごめんなさい。……ありがとう」

 見つめあい、微笑むふたり。
 だがそのとき、新たな敵の接近が感じられた。さらに、邪気が大きくなっている。

「……来ます」

「そうね」

 立ち上がろうとする薙に肩を貸しながら、沙夜は覚悟を決めていた。
 できるなら、なるだけ殺したくなかった。戦えば戦うほど、彼らとの間の溝が開いていく。
 それに――、闇の力を使うことで、自らの血が、魂が、闇に惹かれていくことが怖かったのだ。また再び、人の生き血を啜らずには生きていけない化け物になってしまうことが。
 しかし。薙だけは死なせるわけにはいかなった。それでは武に合わせる顔がない。
 たとえ闇に堕ちても、私たちの絆は切れたりしない――そうよね、武さん。
 息を整え、精神を集中する。己の内なる闇を呼び覚ましていく。

「……先生?」

 沙夜の様子の変化に、薙が気づいた。
 目の前で、沙夜が変わっていく。
 髪が紅く染まり、美しい爪は鉤爪のように折れ曲がり、そして頬には刺青のような紋様が浮かび上がりつつあった。

「先生!」

 薙が沙夜の腕をつかみ、微弱な雷撃を放った。
 びくっと沙夜の体が震える。集中を妨げられ、変化が解けてしまった。
 見返す沙夜に対して、黙って薙が首を横に振る。
 ダメです。
 瞳が、強くそう云っていた。

「でも、このままじゃ……」

 沙夜が唇を噛んでうつむく。
 瞬間、薙は迷った。まだ早すぎるのではないか。
 でも、もうほかに手段がないのだ。

「ひとつだけ、方法があります」

「……え?」

 沙夜が面を上げると、薙が恐ろしく真剣な表情をしていた。乾坤一擲の賭けをするとき、人はこんな顔をするのだろうか。

「酒呑がさっき云ったとおり、この姿では私の使える力は大きく制限されています。このままでは、酒呑の結界は突破できない。だから――」

「……」

「剣に戻ります。神剣わたしを、使ってください」

「……な……!?」

 その申し出に、沙夜は言葉を失った。
 確かに、叢雲がその真の力を発揮すれば、酒呑とさえ互角以上に渡り合えるだろう。しかし、それは叢雲を使いこなすものがいればこその話だ。

「無理よ……そんなこと。闇の血を引く私では、神剣に触れることさえできないわ」

「先生……」

 そこで、薙はふっと微笑んだ。その笑顔は、なぜかひどく、悲しげだった。

「光と闇なんて、思い込みでしかないのよ」

「……え……?」

 ますます近づいてくる邪気。もはや一刻の猶予もない。

「時間がありません。いきます」

 云うや、薙は胸の前で手を合わせた。まばゆい輝きが辺りを包む。
 思わず目をかばい――そして、再び沙夜が目を開けたとき、目の前の大地に神剣・天叢雲が刺さっていた。

(さあ、早く!)

 薙の思念が、沙夜の頭の中に語りかけてくる。
 おずおずと、沙夜は叢雲に手を伸ばした。

「あうっ」

 ばしっ、と電撃が走り、沙夜は身じろいだ。体の芯から、しびれた感覚がある。拒絶されている、と沙夜は感じた。

「……ダメだわ」

(恐れないで!)

 痛む手をおさえて顔をゆがめる沙夜に、薙の思念が呼びかけた。

(恐れが、反発を呼ぶの。先生なら使えるはず。私を、信じて。……ううん、先生を守りたいと願った、パパの心を信じて!)

「信じる……心……」

 もう一度、剣に手を伸ばす。
 それでもまだ怖かった。だから、目を閉じた。
 そして、心に浮かべた。心から信じる人たちを。孤独の闇に囚われていた自分に、手を差し伸べてくれた人を。

「武さん……高原さん……斎さん……汰一君……そして、天野さん……」

 ゆっくりと目を開く。そして。

「私に、力を貸して」

 呟くと、叢雲の柄を握った。力強く。
 瞬間――。
 叢雲の刀身が、新星のように光り輝いた。空気を裂く、甲高い共鳴音。
 それがやんだとき、沙夜の手には黒く鋼のような輝きを見せる神剣・天叢雲が握られていた。

「……応えて……くれたの……?」

 自分の成したことに半ば茫然としながら、沙夜はその刀身を見つめた。
 武が使ったときと、少し違うような気がする。あのときは、こんなに黒光りする剣ではなかった。
 使う人によって、その姿を変えるのだろうか?
 と、沙夜の意識が反れた隙を見計らったかのように、邪鬼が襲い掛かってきた。

(先生!)

「……!」

 とっさに、叢雲を横薙ぎに振るう。邪鬼は剣が触れた衝撃で弾き飛ばされ、動かなくなった。

「すごい……。私にこんなことができるなんて……」

 叢雲の力を改めて目の当たりにし、沙夜が息を呑む。
 だが、当の叢雲――薙自身のほうが、遥かに大きな驚きをいだいていた。
 それは、邪鬼を両断しなかったからだ。
 できなかったのではない。しなかったのだ。
 叢雲の力を無制限に振るえば、この程度の敵など文字通り分解できる。つまり沙夜は、叢雲に振り回されるのではなく、無意識に力をセーブしていたというだ。
 それは、沙夜が叢雲をすでに使いこなしていることを表していた。

(やはり私の見込んだとおりだわ……)

 薙は期待が確信に変わるのを、感じた。

(あなたならできる……。パパにさえなし得ない、光と闇の本当の架け橋となることが……)

 薙のそうした想いに、沙夜が気づくはずもない。
 ただ、感嘆の眼差しで手にした叢雲を見つめていた。
 そしてもうひとり、驚きを込めてその光景を眺めている者が。

「鬼姫に叢雲が使えるとはな……」

 声のするほうに、沙夜が振り向く。叢雲から感じる手ごたえが、沙夜から怯えを拭い去っていた。
 強い意志を瞳に映して、酒呑を正面から睨み据えた。

     6

 しばし、沈黙が流れた。
 沙夜と酒呑の視線が激しくぶつかり合う。
 沈黙を破ったのは、薙だった。

(これまでよ、酒呑)

「……」

 酒呑は、答えない。ただ相変わらず皮肉に、唇の端だけで笑って見せた。

「……退いてもらえないかしら?」

 叢雲を持つ手を下ろして、沙夜が云う。
 その言葉に対して、酒呑は自嘲とも憤りとも取れる様子で答えた。

「退く? どこへ? 退いてどうする? 闇の者は闇へ帰り、ただ屈辱と忍従の日々を送れと云うか?」

「そうじゃない、でも――」

「我はすべてを破壊する」

 絶望と憎悪。激しい負の想念に、沙夜は身震いした。
 そしてその裏にある悲しみもまた。

「人の世も、天上も、そして闇の世界さえ、何もかもすべてぶち壊してくれる。そのためには、鬼姫、ぬしの力が必要だ。叢雲さえ従えるその力、我が糧としてくれん」

(無駄よ! 叢雲わたしの力は十分知っているはずでしょう?)

「だが、鬼姫がその力をすべて引き出せるというわけではなかろう」

 うそぶき、酒呑が沙夜のほうに一歩一歩歩み寄ってくる。闘気を炎のように吹き上げながら。
 だが、沙夜にはわかっていた。酒呑が、すでに己の敗北を悟っていることを。
 先ほどの一振りで、叢雲の力も、沙夜がそれを使いこなしていることも、酒呑にはわかっていたのだ。それなのに。

「どうしてなの……?」

 すでに酒呑の間合いに入っても、沙夜は叢雲を構えることができない。
 どうしてもわかりあえないのか。
 悲しみだけが、胸を冒していた。

「どうした。黙って我が意に従うのか?」

 いいざま、手刀を振り下ろす酒呑。無意識に――というより、叢雲が自ら動くような形で、その攻撃を防いだ。
 次々と酒呑の攻撃が繰り出されるが、すべてを叢雲がさばいてしまう。相手にならない。力の差は、歴然としていた。

「もう……やめて……!」

 絶対有利な立場にある沙夜が、哀願する口調で云う。
 だが酒呑は、攻撃の手を緩めない。

「我を止めたければ、我を殺すことだ!」

「……!!」

 渾身の一撃をやはり弾かれ、両者はいったん間合いを開いた。
 これまでの余裕は跡形もなく、酒呑は肩で荒い息をしている。一方、沙夜は汗ひとつかいていない。

(……先生、もう、どうしようもないよ)

「でも……」

(わかってるんでしょう? 酒呑は死にたがってるの。戦って死ぬのが、彼の誇り。……楽にしてあげて)

 薙が悲しんでいるのも、沙夜にはわかった。
 どうして互いにこれほどの悲しみを抱えて、私たちは争い続けなければならないのだろう。
 それは私たちの罰なのか。……なんの?
 闇に生まれたことこそが罪? それが原罪だというのなら、……私たちは、生まれてきてはいけなかったの?

「そんなはず……ない。そんなの、認めない!」

(先生……)

「……それが、我らの宿業だ」

 沙夜の想いが、どれだけ伝わっていたのか。酒呑はやはり皮肉に微笑んだ。
 その言葉に、沙夜は心底怒りを覚えた。
 酒呑に対してなのか、何もできない自分に対してなのか、それとも酒呑の云う「宿業」そのものになのか、沙夜自身にもわからなかったけれど。
 怒りが、真紅のオーラとして全身をまとい、その気の昂ぶりに応えて叢雲が唸りをあげた。
 その様は、まさに戦の女神のように猛々しく、激烈で――、そして、美しかった。酒呑は言葉も忘れ、その姿に見惚れていた。

「それを業と呼ぶのなら、私がそれを断ち切ってみせましょう。あのひとが悲しみの輪廻を断ってくれたように、今度は私がやってみせる。――必ず!」

 その高らかな宣言に、酒呑は確かに感動していた。
 しかし――、皮肉な笑みが、その表情から消えることはなかった。

「……夢を見るには、我は長く生き過ぎた」

「酒呑……」

「我を殺せ。我の屍を踏み越えて、それでもなお、ぬしが同じ言葉を吐けるのなら、耳を貸す者も現れるであろうよ」

「……」

 奇麗事では何も動かせはしない。どれだけ言葉を尽くしてもわかりあえず、同朋の血で手を汚すことを味わっても、それでもその悲しみの鎖をいつか断ち切ることができるのか。
 酒呑は、そう問い掛けていた。
 そしてそれができるなら、自らを討ってその礎とせよと。

「……」

 沙夜は黙って叢雲を振り上げた。
 酒呑があぐらをかいて座り、目を閉じる。
 黒光りする刀身が、空を切った。

     7

 どすっ、と固いものに剣が突き刺さる音がした。
 沈黙のあと、酒呑がゆっくりと瞳を開ける。
 叢雲は、酒呑の首のすぐ横を通り、大地に刺さっていた。
 見上げると、沙夜が苦渋に唇を噛んでいる。

「ぬしの覚悟とは、その程度か」

 失望もあらわに、酒呑が吐き捨てる。
 その頬に、水雫がぽたぽたと落ちた。
 もう一度見上げると、沙夜が泣いていた。瞳いっぱいにあふれた涙が、次々に流れ落ち、酒呑の頬を濡らした。

「それでも……」

 嗚咽のあまり、途切れ途切れになった言葉を、沙夜が紡ぎだした。

「それでも私は……あなたに生きていてほしい……」

「……」

「生きていてほしいのよ……」

 それ以上は言葉にならず、ただ沙夜は涙を流し続けた。
 その様子を酒呑もまた黙ったまま、長い間見つめ続け――。
 やがて、静かに立ち上がった。
 何も云わず、沙夜に背を向けて数歩歩く。そしてその姿勢のまま、呟いた。

「百年、くれてやろう」

「……え?」

「百年の間、我とその眷属は眠りにつく。目覚めたとき、何も変わっていなければ、今度こそすべてをぶち壊す」

「酒呑……」

 信じてくれるの? 私を、待ってくれるの?
 沙夜の心の問いかけに気づいたのか、一度酒呑は振り返って、小さく微笑んだ。そこに皮肉の影は、なかった。

「鬼姫の涙と引き換えなら、百年ぐらいは安いものだ」

 そう最後に言い残し、酒呑の気配は消えた。
 全山に立ち込めていた邪気も消えていく。

「ふーん……気障なこと云っちゃってさ」

 叢雲が再び輝き――、そこには、薙が立っていた。

「あいつ、結構本気で先生に惚れちゃったんじゃないんですか?」

 相変わらずからかうように笑う。沙夜は肩をすくめて、

「大人をからかうんじゃないの」

「はーい。……でもとりあえず一件落着ですね」

「なんとか……ね。全部、天野さんのおかげだわ。ありがとう。ごめんね、やっぱり危ない目に遭わせちゃった」

「だから、やっぱり帰れ……は、なしですよ?」

 おどけた調子で、薙が云う。だがその瞳には、ほんのわずかな、陰があった。

「……それに、ほんとに巻き込んだのは私のほうなんだから」

「え? なに?」

「なんでもありません。……それより!」

 今度こそ満面の笑み。少しだけ、沙夜は嫌な予感がした。

「私たち、これでいよいよ正真正銘のパートナーになったって感じですよね?」

「そう……ね」

 それは確かにそうだった。ともに危難を乗り越えたというだけでなく、沙夜が叢雲を手にしたとき、不思議な連帯感があった。
 それは――沙夜にはあまり好きな言葉ではなかったが、運命的なものを感じさせた。
 まだ体に残っている、高揚感。私と彼女の間には、いったい何があるというのだろう。ふたりをつなぐ絆が、これからどこへ私たちを導くのだろうか。
 だが、薙のほうは、そんな深刻な意味で云ったのでは――少なくとも表向きは――なかった。

「じゃあ、『先生』『天野さん』っていうのも他人行儀だからやめませんか?」

「それもそうね」

 肩透かしをくらった気分もあったが、沙夜は気軽に頷いた。確かにそのとおりだ。いつまでも先生と生徒でもあるまい。これからは友人として……。

「私のことは薙って呼んでください。先生は……」

 沙夜でいいわよ、と沙夜は答えようとしたのだが。

「さやっち!」

「さ……さやっち?」

「そ、かわいいでしょ?」

 まさに目を白黒させる沙夜に対し、薙はいたずらっぽく片目をつぶって見せた。
 怒るより呆れるより、沙夜は、笑ってしまった。
 薙も、一緒になって笑う。
 蒼天に、しばし美女ふたりの鈴を鳴らすような笑い声が響いた。

「……じゃあ、改めてコンビ結成とこれからのふたりの前途を祝して、ぱーっといこう!」

「……薙って、そればっかり」

「さやっちだって好きなくせに」

「……うっ……」

「せっかく京都まで来たんだから、これで終わりってことはないよね? 祇園行こう、祇園! あ、私、嵯峨野も行ってみたいんだ! こっからなら近いんじゃない?」

「はいはい」

 笑顔で言葉を交わしつつ、ふたりは歩き出した。
 運命に向かって。



The RING of BLOOD
1st Episode "A Lady Meets A Sword"
END



2001.1.22

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