真紅の絆EX 月下の素顔

 眼下には、果てしなく蒼が広がっていた。
 深く、澄み切った蒼。その色は、なぜか人を悲しくさせる。
 その蒼をしばし見つめたあと、少女は呟いた。

「でっかいどう、北海道」

「……ネタが古いわよ、薙」

 沙夜が頭を抱えてため息をつく。薙は肩をすくめて舌を出した。

「てへ。でもすごいねえ、この蒼さ。神秘の湖ってのは伊達じゃないね」

「ほんと……摩周湖がこんなに綺麗に見えるなんてね……」

 今度は感嘆の深いため息をついて、沙夜が答える。
 その少し憂いを含んだ横顔を、薙が見上げた。

「さやっち、不安なの?」

「……え?」

「ほら、摩周湖がちゃんと見えると、婚期が遅れ……」

「なんですって?」

「あ、ううん、なんでもないのよ」

「……まったく、どうしてこういう風情のあるところに来て、少しは感傷的になったりしないのかしらね」

「どうせコドモですからねー」

「どうしても歳のことに話題を持っていきたいようね」

「あ……っと、別にそういうわけじゃないんだけどぉ」

 自業自得とはいえ、雲行きが怪しくなってきたので、慌てて薙は身を翻した。

「あっちのほうからも見てみようよ」そう云って駆け出す。

「待ちなさい、薙、ごまかそうったって……」

 美しい眉をやや怒りに跳ね上げて、沙夜が後を追う。笑いつつその手を逃れようとした薙だったが、ふと何かに気づいて足を止めた。追いついた沙夜も薙の視線を追い――彼女に、気がついた。

「さやっち、あの娘……」

「……ええ、そうね……」

 ふたりの見つめる先には、ひとりの美少女が佇んでいた。
 摩周の湖面を見つめるその瞳は、湖の色をそのまま映したかのように深く、碧い。何を想うのか、唇を軽く噛み締めている。悲しみか、後悔か、それとも怒りか……。
 沙夜と薙の視線に気づくこともなく、少女はただ摩周湖を見つめ続けていた。

「どうする?」

「夜まで、待ちましょう」

「オーライ」

 何度か振り返りながら、沙夜と薙はそこを――摩周第三展望台を降りた。
 少女はただひたすら、摩周の蒼を見つめていた。

     *

 深夜――。
 煌々たる満月が、摩周湖を照らしていた。
 蒼い湖と、銀の月。
 そこはすでに、異界のようでさえあった。
 そして誰もいないはずの展望台に、ただひとり、あの少女が立っていた。
 月明かりを浴びながら、やはり摩周湖を見つめている。あのときから微動だにせず立ち尽くしていたのではないかと思えるほどに。いや、実際そうだったのかもしれない。

「こんばんは」

 空耳かと、少女は思った。私に話し掛ける人がいるなんて?
 ゆっくり振り返る。そこには沙夜と薙が立っていた。
 静かに沙夜が歩み寄り、少女と並んで立つ。そして月を見上げて、云った。

「いい月ね」

「……はい、あの……」

「なあに?」

 少女のほうに視線を移し、沙夜が微笑んだ。少し気後れしていた少女が、その笑みにやや安心したように表情を緩める。
 ああいうところはさすが先生よね、と、薙は変な関心をしていた。

「あの……あなた方は、私が……?」

「……ええ、『見える』わよ」

「……」

 少女が息を呑むのがわかった。沙夜のその言葉から、ただ『見える』だけでなく、自分がどういった存在なのかさえ見透かされている、と理解したからだ。

「私たちは、どちらかといえばあなたに近い存在だからね」

 ひょい、と沙夜の肩の後ろから顔を出して、薙が云った。

「私に近い……?」

 目を丸くして、少女が復唱する。
 沙夜と薙は目を見交わして、肩をすくめた。

「説明するのがちょっと難しいんだけど……私は、常磐沙夜。この娘が……」

「御門薙でーす。あなたは?」

「あ……樹……時坂樹です……」

     *

「……そうですか、それでおふたりで旅をなさっているんですね」

「そういうこと。さやっちってこれで意外と無鉄砲でさ、フォローが大変よ」

「何云ってるのよ。あなたがいつもお気楽極楽だから……」

 自分たちの事情を説明する間、ずっとこんな調子で掛け合いが続く沙夜と薙に、樹はつい笑みをもらした。

「……ごめんなさい、笑っちゃって。でも、うらやましい」

「うらやましい?」

「ええ……おふたりが、とても信頼し合っているのが、よくわかります」

 その言葉に、沙夜と薙は顔を見合わせ、照れ隠しに苦笑して見せた。改まって云われると気恥ずかしい。

「樹さんにも、そういうお友達がいたんじゃないの?」

 沙夜は何の気なしに尋ねたのだったが、その言葉に樹の顔色がさっと変わった。瞳がまた、摩周湖を見つめていたときのように、愁いを帯びてゆく。

「私は……」

「どうしたの、樹さん?」

「私は……裏切ってしまったんです、その友達を……。友達だけじゃない、自分を……愛を……」

 抱えた膝に顔を埋め、樹は小さく肩を震わせた。
 沙夜は薙と一瞬顔を見合わせたあと、何も云わず立ち上がり、樹の隣に腰を下ろした。
 そして、樹の肩に腕を回してもたれかかり、頭をこつんとぶつけた。

「……え……?」

 驚いて、樹が顔を上げる。涙に濡れる瞳に映ったのは、沙夜の優しい――そしてどこか悲しげな微笑だった。

「ひとりで泣くのは、悲しいよね」

 その静かな一言に込められた想いに、薙は胸が痛んだ。
 樹は目を大きく見開く。その目を見つめながら沙夜が頷くと、今度は瞳から大粒の涙が次から次へと流れ落ちた。

「……私……私……わた……し……」

 泣き崩れる樹を、沙夜がそっと抱きしめる。
 沙夜の腕の中で、樹は声を放って泣いた。
 沙夜は樹の長い髪を、そっと撫でた。安心させるように、何度も何度も。

「ごめんね……私には、何もしてあげられない……」

 樹が、首を何度も横に振る。泣き続けたままで。
 その髪を繰り返し撫でながら、沙夜は言葉を続けた。

「だけど、あなたにも、いつかきっと現れるわ。手を差し伸べて、光を注いでくれる人が……」

「私に……手を……?」

「そう……」

「……だけど……だけど、私はもう……」

 たとえそんな機会があっても、私はもうやり直せない――樹の飲み込んだ言葉が、沙夜には痛いほどわかった。自分も同じように考えたから。
 もっと早く逢えていたら……信吾……。
 だけど。

「それでも、逢えてよかったって思ってる……私は……」

「……え……?」

「……」

 それ以上は何も云わず、ただ沙夜は微笑んだ。
 このひとがこんな風に笑えるようになるまでに、いったいどれだけの夜を重ねてきたのだろう、と樹は考えた。そしてどれだけの出逢いと別れを繰り返してきたのか、と。
 もう一度沙夜の胸に体を預け、樹は泣いた。これまで自分が重ねてきた夜と、これからまた続く夜とを思って。そしていつか訪れる出逢いに期待と、それ以上の恐れを抱いて――。
 沙夜は、そして薙ももう何も語ろうとはせず、ただ摩周の夜は密やかに更けていった。

     *

 一年後――。
 とある雑誌社の前で、沙夜と薙は佇んでいた。
 隣には、中型のバイクが止められている。そのバイクの持主が、もうじき現れるはずだった。

「あ……あの人かな」

 ヘルメットを小脇に、カメラバッグを抱えてビルから出てくる青年を指差して、薙が云った。沙夜も読んでいた雑誌から目を上げて、そちらを見る。
 予想通り、青年はバイクのほうへまっすぐに歩いてきた。
 沙夜たちのほうへ、つい視線を奪われる。カメラマンとしては見逃せない美貌がふたりそろっているのだから、無理もない。
 だが、その美貌ににっこりと微笑みかけられると、思わず彼は狼狽してしまった。

「失礼ですけど、相馬轍さんですか?」

「あ……そうですけど、……あなたは?」

 話し掛けられ、さらに青年――轍は動転してしまう。
 沙夜は笑顔で彼の問いを無視し、軽く頭を下げた。

「この度は、心光展入賞、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

「あなたの写真があまりに素晴らしいので、是非一度お会いしたくて、こうしてぶしつけにも押しかけてしまいました」

「そ、そんな……それは……どうも……」

 思いもかけない言葉に、轍はもうすっかりしどろもどろだ。
 その様子に、薙が思わずくすくすと笑う。
「失礼よ」と沙夜がたしなめると、薙は舌を出しながら轍にウインクした。
 それでやっと轍も、笑顔を見せた。
 その笑顔を、しばしじっと沙夜は見つめた。

「あの……?」

 再び顔を赤くする轍に対して、沙夜はまた優しく微笑む。

「……いい風が、吹いていますね」

「え?」

「あなたの周りには、いつも優しい風が、穏やかな光が、満ちているような気がします」

「……」

 ほかの人が聞いたら、何を云っているのかわからなかっただろう。轍にしても、すべてがわかったわけではない。ただ沙夜の言葉が、なぜか非常に嬉しかった。

「俺は……いつも彼女と一緒だから……」

 ついそんなことを口走ってしまう。だが沙夜は怪訝そうな表情さえせず、相変わらず穏やかに微笑んでいた。

「あなたのような人で、よかった」

「あなた方は、いったい……?」

「あなたの一ファンです。お時間を取らせてしまってごめんなさい」

 軽く会釈すると、沙夜は背を向けて歩き去った。

「ばいばーい」

 轍に手を振って、薙も沙夜の後を追う。

「あ……あの……!」

 轍が呼び止めると、ふたりは足を止めて振り返った。

「あの……もしかして、あなたたちは……」

 彼女のことを知っているんですか?
 そう轍が云おうとしたとき、

「よい旅を」

 微笑んで、沙夜が云った。
 それは轍が見た「最高の笑顔」のひとつだったと云えるかも知れない。
 立ち尽くし、ふと轍が我に返ったときには、ふたりの姿は消えていた。夏の日の蜃気楼のように。
 軽く頭を振ると、轍はバイクにキーを入れ、走り出した。
 そんな彼の様子を、実は沙夜と薙はまだ近くで見守っていた。
 ふたりは車の中にいたのだ。バックミラーの中で轍のバイクが遠ざかっていく。

「モデルに見とれてシャッターチャンスを逃がすようじゃ、彼もまだまだね」

 薙の言葉に黙って肩をすくめながら、沙夜は手にした雑誌――『ふうらい』をもう一度開いた。
 轍の入賞作品が、そこには掲載されている。彼女の「最高の笑顔」。
 その笑顔を見つめていると、なぜか武のことが思い出されて切なくなる。ぱたん、と『ふうらい』を閉じて、沙夜は薙に声をかけた。

「さ、行こっか」

「うん」

 エンジンを回し、ハンドルを切る。
 束の間、誰かの軌跡と交錯し、また離れていく。いつかまた出逢うことを夢見ながら。
 そんな、旅の中へ。



The RING of BLOOD EX
"MOONLIGHT"
END



2001.2.4

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