真紅の絆  第二章 涙

−後編−


     7

 一瞬、何が起こったのか沙夜にはわからなかった。
 自分はあの御霊に取り込まれて、彼らの叫びを聞いた。そして自らの内面とも向き合い、そして――、何かを、つかもうとした、そのとき……闇が……。
 悪寒が背筋を駆け抜け、沙夜は自分を抱いて身震いした。震えながら立ち上がり、将士の前へ一歩一歩歩いていく。

「助けて……くれたのね……」

「……」

 そう云いながら、沙夜の表情に感謝の色はない。何か様子がおかしい、と薙は感じた。

「でも……どうして……? どうして……殺したの……?」

「さやっち……?」

「彼らは……悲しんでいた……。ただ、それだけだったのに……」

 見開かれた、焦点の合っていない瞳から、涙が流れる。
 錯乱しているのか、と薙は思った。
 しかし、そうではなかった。沙夜は、確かに悲しみの声を聞いたのだ。憎悪と呪詛の裏にある悲しみを。
 将士は黙って沙夜の涙に濡れた瞳を見返していたが、ややあって、呟いた。

「その悲しみに溺れて、奴らの贄になればそれで満足だったのか」

「そんなこと……」

「自惚れるなよ」

 将士の低い声には、怒りがあった。憤り、と云うべきだろうか。沙夜は息を呑んで将士を見上げた。

「奴らの悲しみを知ったところで、どうなるというんだ。救うことができたのか? 何が救いだ?」

「それは……」

「ああなっては、もはや死なせてやることしか救いはない。死ねば、憎み続けることもないんだ」

「……」

「お前は、自分の手を汚すのを恐れるだけの卑怯者だ」

 吐き捨てるように云うと、将士は身を翻して歩き出した。
 その前に、薙が走り出る。悔し涙を浮かべて将士を睨みつけ、平手打ちを放った。

「あんたなんかに、さやっちの何がわかるって云うのよ!」

「……」

「世の中に背を向けて、自分からも逃げ出した男が……卑怯者はあんたのほうでしょ!?」

「やめて、薙」

「――でも!」

「いいの。……本当のことだから」

「さやっち……」

 抑揚のない声で呟く沙夜のほうを一度振り返ったあと、将士は何も云わずに歩き去った。
 沙夜が、ぺたん、と座り込んだ。虚ろに開かれた瞳から、ただ静かに涙が流れ続ける。

「さやっ……ち……?」

 薙の呼びかけにも、沙夜は答えない。心が壊れてしまったかのようなその姿に、薙は恐怖した。

「ねえ、さやっち、どうしたの? しっかりして」

 肩をつかんで揺さぶる。沙夜はやはり薙のほうを見ようともせず、呟いた。

「将士の……云うとおりだわ……」

「何云ってるの? あんな奴――」

「私には……何もできない……。手を汚す勇気もない……。奇麗事を口にするだけで、現実から目をそらしていたんだわ」

「違うよ! さやっち、それは違う!」

「――じゃあ!」

 振り向いた沙夜の表情には、狂気に近いものがあった。絶望に震え、すがるように薙の腕をつかむ。その力に、思わず薙は眉をひそめた。

「さやっち、痛い……」

「じゃあ、何ができるって云うの? あんなに……あんなに深い悲しみ……。癒せるなんて、思い上がりだった……私……」

 薙の腕をつかんだ手から徐々に力が抜けていき、沙夜はその場に倒れそうになった。薙が抱きとめると、その腕の中で沙夜は泣き崩れた。
 そう、闇に囚われたとき、沙夜は確かに悲しみの声を聞いた。しかしそのとき、沙夜はただ、怖かった。恐怖に震え、一瞬とはいえ心を閉ざした。
 彼らと向かい合うだなんて、口清いことを云いながら。沙夜は自分自身が許せなかった。

「さやっち……」

 唇をかみ締めて、薙は沙夜の体を強く抱いた。そうしないと、沙夜が壊れていきそうに思えて。
 やはりダメなのだろうか。私の願いは、叶えられないのか。

「しっかりしてよ、さやっち。私やパパをあんなに信じてくれたさやっちが、どうして自分をそんなに信じられないの?」

 けれど沙夜は、泣きじゃくりながら、子供のように首を振るばかりだ。
 昨晩、母のように自分を優しく包んでくれた沙夜が、今は幼子のように震えている。そしてそれは、そこまで彼女を追い詰めることになったのは、きっと自分のせいなのだ。
 薙は沙夜の髪を撫でた。この上ない優しい笑顔で。

「わかったよ、さやっち」

 もう、いいよ……そう、薙が云おうとしたとき。

「おねえちゃんたち?」

 子供の声。薙が振り返り、沙夜も思わず顔を上げた。
 そこには、目を丸くして立つ少女がいた。10歳かそこらの、まだ童女と云っていい。黒い艶やかな髪が、愛らしかった。手には花を何本か、花束のように捧げ持っている。

「美由紀ちゃん……」

 薙がその名を呼ぶ。沙夜も思い出した。あのとき、御霊から助けた少女だ。沙夜は、名前までは知らなかったが。

(みゆき……? どこかで、聞いたような……)

「どうしたの、おねえちゃんたち?」

 美由紀が、小走りに近づいてくる。薙は笑顔を作り、沙夜はうつむいて涙を隠した。

「美由紀ちゃんこそ。危ないから山に入っちゃダメって云ったでしょ?」

「うん……だけど……」

 薙との約束を破ったことで、美由紀は口篭もって下を向いた。だが、座り込んだままの沙夜が気になってしょうがないらしい。

「おねえちゃん、どうしたの? 泣いてるの?」

「……ううん」

 沙夜は涙をぬぐいながら、なんとか笑顔を作ろうとしたが、なかなか成功しなかった。
 薙が美由紀の肩に手を置いて、云った。

「おねえちゃんは、つらいことがあったんだ。そっとしておいてあげて」

「そう……」

 我がことのように、美由紀は表情を曇らせた。そして手に持った花を、沙夜に差し出した。

「……え?」

「これ、あげる。元気出してね」

「美由紀ちゃん……」

 おずおずと、沙夜は手を伸ばして花を受け取った。触れたら壊れてしまうのではないか――そう恐れて。
 しかし、手の中の花は、そして手に触れた小さなぬくもりは、消えることがなかった。

「ありがとう」

 沙夜は微笑む。涙は止まらなかったけれど、指先の小さなぬくもりが、心の中に小さな灯を燈した。
 少女もまた笑顔を返し、――そして沙夜の背後から迫るものに気づいて、表情を凍らせた。

「さやっち!」

 薙の警告が飛ぶより早く、沙夜は美由紀を抱いて跳躍していた。
 さっきまで彼女らがいた場所に、黒い触手が突き刺さる。
 振り向いた先には、黒い闇がうごめいていた。

「そんな……?」

「さっきは、散らしただけだったみたいね。相当しぶといわ」

 滅したとばかり思っていた御霊が、再び集合して現れていた。しかも、攻撃を受けたせいか、先ほどより荒れ狂っている。もはや止める術はなかった――たったひとつの方法を除いて。

「さやっち……」

 薙が、沙夜を促す。しかし沙夜は目をそらし、うつむくばかりだった。

「私は……」

「……!」

 突然、薙は沙夜の胸倉をつかんだ。驚く沙夜の頬に、薙の平手が飛ぶ。
 美由紀が、びくっと肩をすくませた。

「いい加減にしなさいよ!」

「……薙……」

「やるべきことって、人に教えてもらうの? 自分に何ができるか、確かめたくって旅に出たんでしょう? だったら、今、自分がやれることをやるしかないじゃない!」

 薙の双眸から涙がこぼれる。頬を打たれた沙夜以上に、薙自身が痛みを感じていることが、沙夜にはわかった。

「でも……私にできることなんて……」

「戦えるわ」

「薙……!」

「今、戦わなければ、その子は死ぬ! それでもいいの!?」

 薙が美由紀を指差す。沙夜が振り向くと、美由紀は恐怖に茫然としていた。沙夜と目が合うと、すがるように手を伸ばしてくる。

「おねえちゃん……」

 沙夜は身をかがめ、美由紀を抱きしめた。
 あたたかかった。
 闇の者より、人の命のほうが尊いなんて思わない。だけど、この腕の中の小さな命が、いわれのない妄執によって失われるなんて。
 この子が、人として生まれた以上、人間すべてへの憎しみにさらされるのは当然なのか。――それでは、自分が受けた仕打ちと変わらないではないか。
 そんなことを繰り返して、なんになるの。
 腕に抱いたぬくもりに、沙夜は決意した。

「大丈夫よ……。少し、目をつぶっていてね」

 安心させるために、精一杯優しい声で囁く。美由紀は頷き、素直に目を閉じた。
 沙夜は立ち上がり、御霊を見据える。
 瞳には変わらず悲しみと、強い意志が。
 その姿に、決意に、薙は涙を流した。希望と、慙愧とに苛まれて。

「薙」

 沙夜が右手を薙に差し出しながら、呼びかける。
 薙は強く頷いた。

「はい」

 五指を広げ、両手を顔の前で合わせる。まばゆい輝きが辺りを包み、その神気に御霊がおびえてあとずさりした。
 そして輝きがやんだとき、沙夜の手には黒光りする神剣・天叢雲が握られていた。
 一度はひるんだ御霊が、再び沙夜に向かって触手を伸ばす。
 沙夜は涙をこぼしながら、ためらわずに剣を掲げた。

「もう……おやすみ」

 一閃。神剣の軌跡はそのまま光の柱となって大地を走り、御霊を引き裂いた。
 声にならない叫びが、空気を震わせる。
 叢雲に断たれたものは、この世のすべての縁を失う。あらゆる呪縛も妄執も、すべて刈り取ってしまう。
 それゆえ誰もが叢雲を恐れる。御霊を形成する霊たちも、おびえ、逃れようとしたが、叢雲の輝きはすべてを飲み込んでいった。
 彼らの恨み、憎しみ、嘆き、悲しみが、叢雲の刀身を通じて沙夜にも伝わってくる。
 けれど今度は、それに溺れはしなかった。彼らの想いをすべて受け入れ、背負うために。沙夜は叢雲を振るい続けた。

(ヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテ)

(イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ)

 慟哭が沙夜の心を刺す。沙夜は歯を食いしばって、最後の一薙ぎを払った。
 白光が、すべてを包んで輝く。
 その輝きの中で、沙夜はすべてを悟っていた。

     *

 輝きが消えたあとも、沙夜は叢雲を手に立ち尽くしていた。
 もはや涙はない。
 いつの間にか日が落ち、星空が見えていた。沙夜はその星空を見上げて、呟いた。

「救いに……なったのかな……」

(わからない……。でも、彼らが解放されたのは、間違いないわ)

 薙の思念が答える。沙夜は力なく頷いた。

(彼らを縛り付けていたもの……それは……)

「わかってる」

 気を失っている美由紀のほうに歩きながら、沙夜は呟いた。

「わかっているわ」

 もう一度繰り返す。
 決着は、まだついていなかった。

     8

 小屋の前に腰を下ろして、将士はずっと闇を見つめていた。その闇の向こうから現れるはずのひとを、待ち続けていた。
 そして、彼女は来た。くろがねの輝きを放つ刀剣を携えて。

「……」

 何も云わず、将士は立ち上がった。
 沙夜も沈黙したまま、将士の前に立つ。
 将士は叢雲を見つめながら、口を開いた。

「斬ったのか」

「ええ」

 叢雲をゆっくり持ち上げて、沙夜が答える。切っ先をまっすぐに将士に向けた。
 将士は動じることなく、その剣先を見据えている。

「彼らを斬ったとき、彼らの心が流れ込んできた。そのとき、わかったの。彼らの呪詛に力を与え、御霊となさしめたのは――」

「俺の心だ」

 相変わらず平静なままで、将士が告げる。
 彼の見つめる剣先が、震えていた。沙夜は唇をかみ締めて、将士の瞳を見据えている。
 今度は、将士は視線をそらすことはなかった。

「どうして……?」

 搾り出すような声。人を呪う妄執に憑かれているようには、見えなかった。今でも信じられない。あんなに優しい仕草で、私の涙をぬぐってくれたのに。

「俺にもわからない」

 自嘲気味に、将士は微笑んだ。

「憎むことさえ、捨てたつもりだった。けれど俺の中の闇に、人を呪う心が残っていたのかもしれん。それが、奴らに力を与えた。――いや、俺の負の想念こそが、奴らを呼んだのかも、な」

「……」

「無意識ってのは、怖いもんだ。奴に触れるまで、俺は気づきもしなかった。あれが俺の心を映したものだなんて」

 将士は軽く肩をすくめた。沙夜は答える言葉を持たない。
 自分の中にも、その闇はあるはずだから。

「俺を、斬りに来たんだろう?」

「……」

「望むと望まざるとに関わらず、俺がいれば、また同じことを繰り返す。負の想念の根源を絶つには、俺を斬るしかない」

「……そうよ」

 答えながら、叢雲を持つ沙夜の手はますます震えていた。
 それしかないのか。ほんとうに、それしか。
 その沙夜の様子に、将士は小さく笑った。その笑顔は、とても優しかった。

「ちょっとは腹が据わったかと思ったら、相変わらず甘ちゃんか」

 呟きながら、山のほうへ向かって歩き出す。思わず身構える沙夜を振り返って、云った。

「その甘さに、甘えさせてもらおう。最後に行きたいところがあるんだ。つきあってくれ」

「……いいわ」

 叢雲を持つ手を下ろして、沙夜が答えた。将士のあとにしたがって、山へ入る。

(さやっち……)

「大丈夫よ」

 将士は振り向くことなく、山に分け入っていく。沙夜は足を速めてそのあとを追った。

     *

 一歩足を踏み入れると、空気が全く違うことに気づいた。清浄、と云っていいのだろうか。自然のままの空気に満ちている。

「ここは……?」

「『里』だ」

 やはり振り向かずに、将士が答えた。足早に歩く彼を見失わないよう、沙夜は小走りにあとをついていく。

「『里』……。じゃあ、ここが、あなたたち一族の……」

「そういうことだ」

 まつろわぬものにも、本貫地がある。帰るべき場所が。「一族」を持たない沙夜は、うらやましくもあった。

「どうして、ここで暮らさないの?」

「ここにはもはや誰もいない。ここにあるのは……過去だけだ」

 過去だけを見つめて暮らすのは、耐えられなかったのか。それなら、ひとりきりあの小屋で、何を見据えてきたというのだろう。
 そう考えたが、沙夜は訊くことはできなかった。
 しかし、将士は、その疑問に気づいていたのかもしれない。茂みをかき分けながら、呟いた。

「ここには過去と……俺の罪が、ある」

「罪……?」

 少し開けた場所に出た。立ち止まった将士の脇に立ち、その視線の先をたどる。
 そこには塚のように土が盛られ、小さな墓標が立っていた。
 将士が微笑みながら、墓標に向かって語りかける。切ないほど、優しい笑顔で。

「久しぶりだな、深雪。寂しい想いをさせてすまない」

(みゆき……?)

 あの少女の名前を聞いたときと同じく、沙夜はその名に聞き覚えがあった。
 将士は墓標を見つめたままで、言葉を続けた。

「もう……何年前になるかな。俺は、人に育てられたんだ。自分自身の本性にも、気づくことなく」

「……」

「だけど、あるとき、知ってしまった。俺は、違うと。そしてそのことは、最悪の形で周りにも知れた。親友だと思っていた男が、俺を指して云ったよ、『化け物』って」

 沙夜は目を閉じて、胸の痛みに耐えた。
 自分の身の上を、聞かされているようだった。

「それだけじゃない。奴らは……深雪を俺から奪った……永遠に……」

 唇をかみ締め、将士は胸の奥からこみ上げる想いに耐えた。
 今でも忘れない。忘れることなどできない。将士を守ろうと、彼女が銃弾に身をさらしたその瞬間を。真っ白な雪が、赤く染まって……。

「人を呪いたい……! 憎しみに身を任せて、奴らをすべて引き裂いてやりたい! だけど……だけど……俺を愛してくれたひともまた、人間なんだ。俺のために命を投げ捨て、俺の腕の中で、ただ『愛してる』と囁いて逝ったあいつも……!」

 ひざまずき、将士は大地に拳を打ちつけた。感情の高ぶりに呼応するかのように、木々がざわめいた。
 森が、山が、――『里』が、悲しんでいる。沙夜はそう思った。

「何を呪えばいい……何を憎めばいい……! 深雪を撃った奴か? 俺を裏切った男か? そいつらを殺せば、俺は満たされるのか。そんなはずない! そんなはず……」

 肩が震える。想いの激しさが、将士から言葉を失わせた。沙夜もまた何を云うこともできず、彼の背中を見つめるだけだった。
 やがて、将士は立ち上がり、沙夜のほうに振り返った。
 深い悲しみを宿した瞳。そのまま自分を映したように。

「だから俺は……悲しみの中へ逃げ込んだ……。人との関わりを断ち、深雪の墓守として、生涯を終えようと思ったんだ。ひとりでいれば、誰も憎まずにすむ……そう、思った……だけど……」

 そこで将士は、自嘲気味に微笑んだ。
 その笑みから、思わず沙夜は目をそらしてしまった。
 やめて。そんな風に笑わないで。

「俺は、自分の中の闇から目をそらしていただけだった……。叢雲の云うとおりだよ。卑怯者は、俺のほうだ」

「将士……」

「以前は毎日ここへ来ていたのに、最近は、なぜか足が向かなかった。それはきっと、奴が出た頃と符合している。俺の中の負の心が、ここから自分を遠ざけていたんだろう」

 もう一度墓標に向き直り、将士はその前にひざまずいた。その前では、いつも別人のように優しげな表情になった。

「そのせいで、ずいぶん寂しい想いをさせた。許してくれ、深雪」

「将士……!」

 こらえきれず、沙夜は涙をこぼした。
 沙夜は思い出していた。
 そう、あのとき。将士に助けられたとき。ただひたすら、その名を呼ぶ声が聞こえた。二度と手に入らないものを呼ぶ声が。

(そう……だったの……)

 あのとき聞いたのは、将士の嘆きだったのだ。押し殺した悲しみが、嘆きが、負の想念を呼んだ。
 それを、誰が責められるだろう。
 そして、将士の本当の痛みもまた、沙夜は理解した。
 将士は、誰を憎めばいい、と云った。けれど本当は、信じたいと思っているはずだ。どれだけ傷つき、血を流しても、自分を愛してくれたひとたちを信じたい。信じていたい。それなのに。
 最愛のひとと同時に、信ずべきものも見失ってしまった。想いだけでは、信じる心を支えられない。
 だから、将士は沙夜に訊いたのだ。なぜ、と。

「お前が悲しむことはない」

 気がつくと、将士の手が沙夜の頬に触れていた。初めて逢ったときと同じように、優しく涙をぬぐってくれる。

「俺の弱さが招いたことだ」

「違う……違うわ……そんな……」

 優しく微笑むと、将士は深雪に最後の別れを告げようとした。
 そのとき、初めて気づいた。その花に。
 墓標に、花が供えられている。まだ新しいその花は、ここ数日のうちに捧げられたものだった。
 誰も来るはずのないこの場所に、なぜ?
 将士は震える手でその花を取り、茫然と見つめた。

(さやっち、誰か来るよ)

 薙の呼びかけに、はっと沙夜が振り返る。確かに茂みをかき分ける音がする。
 ふたりが見つめる前に姿を現したのは、小さな黒髪の女の子だった。

「美由紀ちゃん……!」

「あ、おねえちゃん」

 沙夜に花をくれた少女が、あのときと同じように、目を丸くして立っていた。やはりあのときと同じように、手に花を持っている。

「みゆ……き……?」

 その名に驚いて、将士が美由紀の顔をまじまじと見つめる。美由紀は不思議そうにその目を見返した。

「美由紀ちゃん、どうしてここへ? もうこんなに暗いのに……お家へ帰りなさいって云ったでしょ?」

 腰をかがめ、美由紀と視線の位置を合わせて、沙夜が少しきつい口調で云う。先生に戻ってる、とこんなときだが薙は考えた。

「ごめんなさい……。でも、今日はまだ、お花をあげてなかったから」

 そう云うと、美由紀は墓標の前に歩みより、手に持った花をそっと置いた。祈るように、その場でしばし目を閉じる。
 沙夜は将士と一瞬目を見交わし、美由紀のそばに腰を下ろした。

「美由紀ちゃんが、お花をあげていたの? 毎日?」

「うん」

「ここへは……どうして?」

「道に迷って……」

 その答えに、沙夜は将士を見上げた。黙って将士が頷く。
 本来、一族の者しか入れない『里』に、ふとした弾みで人が迷い込んでしまうことはある。そのまま帰れなくなって、神隠しと云われたりするのだ。だが、同じ場所に自由に出入りできるのは、稀有な例といえた。

「そっか……。初めて会ったときも、ここへ来ようとしていたのね?」

 こっくりと美由紀が頷く。あんな山奥にどうしてこんな小さな子がひとりでいたのか不思議だったのだが、そういう目的があったのだ。
 けれど、どうして美由紀はそうまでしてここに通うのだろう?

「あんな怖い目にも遭ったのに……どうして?」

 沙夜の問いかけに、美由紀は首をかしげた。意味がよくわからなかったようだ。沙夜は質問の形を変えた。

「どうして、ここにお花をあげようって思ったの?」

 美由紀は、目をぱちぱちとしばたいた。沙夜の顔を見、そしてその後ろの将士の顔を見上げる。そうして、にっこりと微笑んだ。

「だって、とっても大切にされてる場所だって、わかったから」

 沙夜も将士も、言葉を失った。
 たったそれだけの理由で。誰かが大切にしていた場所。そのことを悼んで、少女は毎日花を捧げた。森の闇におびえながら、けして近くない距離を毎日駆けて。
 将士が膝をつき、美由紀を抱きしめた。美由紀は一瞬驚いて目を見張ったが、嫌がりはしなかった。
 将士の全身が震える。美由紀は小さな手で、そっと将士の頭を撫でた。

「おにいちゃん、泣いてるの?」

「……」

 将士は答えられない。ただ涙が、止まらなかった。

「元気出してね。おにいちゃんにも、お花あげるから」

 将士の髪を撫でながら、美由紀が優しく囁く。その姿に、もうひとりの少女の姿が重なって見えたように、沙夜には思えた。
 将士はただ涙を流し続けた。
 彼が信じようとしたものが、確かにそこに、あった。

     9

「じゃあ、行くね」

「ああ」

 短く答えたあと、将士は、照れくさそうに付け加えた。

「……気をつけてな」

「ありがと」

 朝の光を受けて、まぶしい笑顔で、沙夜が答える。薙は無理に憮然とした表情を作って横を向いたが、どうしても笑みがこぼれてしまう。
 そんな薙に向けて、将士も笑顔を見せた。

「また同じことを繰り返しそうになったら、遠慮せず斬りに来い」

「とーぜんよ」

 薙は背を向けたままで答えた。沙夜は小さく微笑んで、肩をすくめた。

「そんなことしたら、美由紀ちゃんが黙ってないでしょ。すっかり懐かれちゃって」

 三人が、河原のほうに目を転じる。そこでは水遊びに興じる美由紀がいた。
 しばらくその姿を見つめたあと、沙夜が呟いた。

「もう、大丈夫よね」

「ああ……」

 答えながらも、しかし、将士はやや表情を暗くする。すべての不安をぬぐい去れるわけではない。

「美由紀も……いつまでもあのままではいられない。いつか、俺に恐怖する日が、来るかもしれない」

「将士……」

 思いがけない言葉に、沙夜は将士を見上げた。その視線に対し、将士は陰のない笑顔を向けた。

「それでも俺は、彼女に救われたことを忘れない。だから、信じていられるさ」

「……うん」

 沙夜は頷いた。
 それは一種の諦めだと、人は云うかもしれない。いつか失う日のことを思うのは、本当に信じているとは云えないのではないかと。
 けれど、と沙夜は思う。人は変わる。想いも……うつろう。それでもけして傷つかない、失うことのない何かを見つけたなら、それだけを信じて生きていける。自分にとってのあのひとのように。そう、生きていける……。
 美由紀が、三人に気づいて駆け寄ってきた。気配を察したのか、瞳に涙を浮かべている。

「おねえちゃんたち、行っちゃうの?」

 沙夜は腰をかがめて、微笑んだ。

「また、逢えるよ」

「ほんと?」

「うん。……ね」

 将士を見上げて、沙夜は云った。美由紀も不安げに将士を見上げる。
 将士は美由紀の頭に手を乗せ、笑顔で頷いた。

「逢えるさ」

 美由紀の笑顔が、ぱっと輝く。何よりの餞だと、沙夜は思った。

     *

「ばいばーい」

 いつまでも手を振っている美由紀に振り向いて、薙が何度目かの声を張り上げる。沙夜も大きく手を振った。
 互いの姿が見えなくなるまで、そんなことが繰り返された。

「さて……と。次はどこへ行こっか」

「そうねえ……」

「今度はあったかいところがいいなあ」

「……ほんっとお気楽極楽なんだから」

 苦笑しながら、沙夜は薙の横顔を見た。
 将士は警告した。叢雲に気を許すな、と。
 しかし、頬を打たれたときの薙の言葉と、その涙。そこには、真実ほんとうがあった。
 だから、信じられる。信じていける。

「……なに? 人の顔、じろじろ見て」

「ううん、なんでも」

「あんまり美人だから見とれちゃった?」

「はいはい。じゃあ一仕事終わったってことで、ぱーっといきましょうか!」

「さんせーい。今日は乗りがいいね、さやっち」

「薙に気合入れてもらったからね」

 自分の頬を軽く叩きながら、沙夜が云う。薙は、う、と言葉を詰まらせた。

「……根に持ってる?」

「全然。でも、痛かったなあ」

「……基本的に暗いんだから……」

「なんか云った?」

「なーんにも。さ、行こ行こ。早くしないと日が暮れちゃうよ」

「まだ午前中よ」

「細かいことは気にしないの。出発しんこー」

 沙夜の肩に腕を回して、薙は歩き出した。
 その無邪気な笑顔につられて、つい沙夜も笑ってしまう。そしてそれはきっと、幸せなことなのだ。
 いつか失う日が来るのだとしても。今のふたりの絆は、真実だから。

「……どしたの、さやっち」

 薙が怪訝そうに云う。

「え?」

 気がつくと、沙夜は涙を流していた。

「やだ。笑いすぎ」

 微笑んで、涙をぬぐう。けれど、涙はなかなか止まらなかった。
 陽光を受けて、朝露のように、涙が輝いた。



The RING of BLOOD
2nd Episode "Nothing Hurt"
END



2001.3.7


あとがき

ちょっと『トライガン』入ってるかもー、と、自分でも思いました(^^ゞ。さしずめ薙はウルフウッドですね。
伊達将士は、私が12年ぐらい前に書いたオリジナル小説『孤狼伝』の主人公です。某新人賞に応募して、2次選考ぐらいまでいきました。
そこで自分が世の中に認められないのに絶望して筆を折った……わけじゃないんですけど(^^ゞ、それを最後に創作活動は一切していませんでした。去年、久遠に会うまでは。
自分的には結構気に入っていた話だったので、こういう形ででももう一度引っ張り出せたのは嬉しく思っています。自己満足ですね、すみませんm(__)m。
結局、将士の正体はなんだったのー?というのは、『孤狼伝』というタイトルから察してください。私の原点は平井和正のウルフガイシリーズなんです(^^ゞ。
ご感想などいただければ幸いですm(__)m。

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