太正十三年春。
久しく姿を見せなかった艶やかな華を再び迎えて、社交界は華やいでいた。
華の名は、神埼すみれ。
彼女の復活に男たちは色めき立ったが、しかし、それはすぐに失望の吐息に変わった。
いついかなるときも、彼女は一人の男に独占されていたからだ。
……いや、正確には、彼女がその一人の男を独占して離さなかったのだが、他の男たちにとっては、彼女と踊る機会がないという意味では同じことだった。
今夜もまた、白い軍服をきっちりと着こなしたその男、大神一郎が、すみれをエスコートしている。
軽やかにステップを踏む二人の姿は、いやでも人の目を惹きつけた。
*
「……大神さん、わたくし、少し踊り疲れましたわ」
曲が途切れたとき、上目遣いに大神を見上げながら、すみれが囁いた。
「そう? じゃああちらで少し休もうか」
群集を縫い、テラスへとすみれを誘う。
春風が火照った体を心地よく冷まし、すみれは小さくため息をついた。
その様子をまぶしげに見つめた大神は、
「なにか飲み物をもらってくるよ」
そう云って、ホールへ戻っていった。
その背中を少し見送った後、すみれは視線をテラスの外に転じた。
まぶしい夜景が広がっている。
わたくしたちが守った光。
そう思うと、誇らしさと同時に、愛しさに似た気持ちも湧き上がってくる。
柄にもないこと、とすみれは苦笑した。
と、そこへふいに声をかけられた。
「お久しぶりですね、すみれさん」
「……え?」
振り向いた先には、いかにも華族らしい若者が立っていた。あまり印象に残っていなかったが、かろうじて名前は思い出すことができた。
「こんばんは、伊集院さん。お久しぶりですわ。お父様はお元気でいらっしゃいます?」
「おかげさまで。……覚えていてくださったんですね。光栄です」
芝居がかったそぶりで答える男に愛想笑いを返しつつも、(伊集院……誰でしたっけ)と、すみれは下の名前を思い出せずにいた。
まあいい。所詮この世界では、個人の名前などどうでもいい。ただ「神崎」や「伊集院」という肩書きが重要なのだ。
一瞬見せたすみれの憂い顔に気づいたのかどうか。伊集院は両手に持ったグラスの一方をすみれに差し出した。
もうじき、大神が飲み物を持ってきてくれる。だが、無下に断るのも失礼だと思い、とりあえず手に取った。
伊集院は嬉しげにグラスを合わせて乾杯の仕草をする。しかし、すみれは口をつけようとはしなかった。
白々しい間。
わたくしと言葉を交わせただけでも幸せでしょう? 早々に下がりなさいな。
すみれの無言の勧告は、しかし、伊集院には理解されなかった。
「えっと……失礼ですが、最近、ご一緒の男性は、すみれさんの恋人なのですか?」
「恋人……」
人から云われると、嬉しいものである。
すみれは頬を染めて、頷いた。
「大切に思っていますわ」
「そ……そうですか」
ここまで当てられたら、いい加減引き下がりそうなものだが、伊集院はそれでも食い下がった。場の空気というものを全く読めない性質のようだ。
「見たところ、軍人のようですが……やはり家柄もそれなりの方なのでしょうな」
どれだけよかろうと、伊集院家には及ぶまい……そんな含みを持たせた言い方だった。
伊集院の意図を敏感に読み取ったすみれは、不機嫌に眉をひそめた。
「いえ……特にそのようには伺っておりませんわ」
「なんと。そんなどこの馬の骨ともわからないような男との交際を、よくお爺様がお認めになられましたな」
「祖父は関係ありません」
一言、吐き捨てるように云って、すみれはくるっと背を向けてしまった。
これが無事に立ち去る最後のチャンスだったのだが……やはり伊集院はそのことに気づかなかった。
「しかし、あなたがああいう男をお選びになる理由も、私にはわかります」
「……」
「こう申しては失礼ですが、あなたは非常に勝気でいらっしゃる。けれど、本当はとても脆い弱さを持った方だ。誰かに支えてほしい、心では強くそう願っておいでのはずです」
「……」
「だから、ああした粗野な男に惹かれてしまうのでしょう? しかし、すみれさん、それは間違いです。彼と私たちとでは、住む世界が違う。そして、あなたが住む世界にも、あなたを守ってあげられる男はいるのですよ。どうかそのことに気づいて……」
すみれが、振り向いた。
このとき、すみれは初めて自分の弱さに気づき、支えようとしてくれている人との出会いに感動しているはずだった。伊集院の妄想では。
けれど、実際には不機嫌を通り越して怒りに目を吊り上げていた。抑えようのない霊気の高まりが、つむじ風を起こす。
口で云ってわからない人は、こうですわ。
手にしたグラスを伊集院の顔に叩きつけようとした、そのとき──。
「お待たせ、すみれくん。混んでいてね……」
大神が、グラスを両手に持って戻ってきた。緊迫した空気に戸惑い、すみれに頭を下げる。
「や……ごめんごめん、遅くなって」
その姿に、すみれの怒りの感情はきれいさっぱりなくなってしまった。艶然と微笑んで、大神の方に歩み寄る。
「レディを待たせるものではないと、以前にも申し上げましてよ?」
「ほんっとごめん……、ん、そちらは?」
すみれの霊気の放射を受けて、呆然と立ち尽くす伊集院に気づき、大神が声をかける。
「なんでもありませんわ。さ、参りましょう。……あ」
手にしたままだったグラスを、伊集院に持たせる。
「よろしく、ボーイさん」
「ボーイさんにしちゃ……やけに身なりがいいね……」
「いいから。参りましょ」
強引に大神の手を取って、すみれが歩き出す。
結局、パーティが終わるまで、伊集院は立ち尽くしたままだった。
*
「ねえ……大神さん」
グラスを口に運び、のどを湿らせながら、すみれが聞く。
「なんだい?」
「あなたも……まさか、わたくしのこと、本当は弱い女だ、とか思ってらっしゃるわけではありませんわよね? わたくしを支えてあげないと……だなんて」
「……え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような……とは、このときの大神の表情だったに違いない。
思わず大笑いしそうになったが、すみれの瞳が思いのほか真剣であることに気づいた。大神はすみれの瞳を正面から見つめ、笑顔を浮かべた。
「すみれくんはいつも自信たっぷりで、すばらしく輝いている。俺はそんなすみれくんが大好きだよ」
「大神さん……」
頬を染めて、すみれが微笑む。その笑顔は本当に宝石のようだと、大神は思った。そしてその宝石は、自ら輝こうとするからこそ、美しいのだと。
「お上手ですこと。ご褒美に、もう一曲踊って差し上げてもよろしくてよ」
「光栄です」
大神がすみれの手を取り、ダンスの輪に加わる。
いつの間にかすみれをリードできるほど上達した大神を見つめつつ、すみれは思う。手に入れた、真実の魔法のことを──。
了
2000.8.9