つばさ

 大帝國劇場地下格納庫。
 すでに深夜と呼べる時間だったが、そこにはまだ光武を整備する紅蘭の姿があった。

「よっしゃ、こんなもんかな。……うん?」

 カンカン……と、階段を降りてくる足音が聞こえる。
 大神はんの見回りやろか?と紅蘭は考えたが、それにしては足音が軽い。
 紅蘭は、作業の手を止めて階段の方を見つめた。
 すらりとした肢体が現れる。栗色の髪を肩先で切りそろえた美貌。
 降りてきたのは、戦闘服に身を包んだすみれだった。
 お互いの姿を認めて、二人とも目を丸くする。

「紅蘭。こんな時間まで整備していましたの?」

「なんや、すみれはんかいな。すみれはんのほうこそ、こんな時間にこんなところへなんの用や?」

「わっ、わたくしは……」

 少しばつが悪そうな顔をしたすみれは、腕組みをしてぷいっと横を向いた。
 そうした仕草にまで、わがままな猫のような愛嬌がある。

「わたくしは、少し寝付かれないので、散歩をしていただけですわ」

「わざわざ戦闘服着込んでかいな?」

「それは……」

 言いよどむすみれを見て、紅蘭はにっこりと微笑んだ。

「わかっとる。うちが昼間、光武の出力を上げたっちゅう話をしたさかい、慣らしに来たんやろ?」

「……ばかばかしい。このわたくしが闇トレなどするように見えまして」

「見えんけど、ようやっとるわな。みんな知っとるで」

「紅蘭!」

「すみれはんは、才能も実力もある。その上、努力も欠かせへん。ほんま、すごいと思うで」

「……紅蘭?」

 普段なら、「それがトップスタアの証ですわ!」と高笑いしてみせるところだが、紅蘭のいやにしみじみした物言いが、すみれは引っかかった。
 小首を傾げて自分を見つめるすみれの全身を、紅蘭はゆっくり眺めた。そして、やや伏し目がちに、言葉を続けた。

「うちもすみれはんみたいに生まれとったらな……って思うことがあるで。すみれはんみたいに、華やかなスポットライトの似合う女やったら……って」

「紅蘭……」

「うちはこうして、油にまみれて機械をいじっとるしか能のない女やからな」

「……」

 思いがけない紅蘭の言葉に、すみれは一瞬眉をひそめ……そして、次の瞬間、高笑いを放った。

「おーっほっほっほ。なにをおっしゃるかと思えば、わたくしのようになりたいですって? そんなこと、できるわけがありませんでしょう?」

「……!」

 慰めの言葉などを期待していた訳ではない。だがそれでも、刹那、怒りで紅蘭の頭は真っ白になった。
 けれど、すみれの云うことは真実だ。
 なにをくだらないことを云っているのか。
 紅蘭は自らを嘲ることで怒りを静め、無理に笑顔を浮かべた。

「そやな。つまらんこと云うてしもうた」

「全くですわ。あなたがわたくしのようになれるはずがありませんもの」

「うん。ほな、すみれはん、うち、まだ作業があるさかい……」

 泣き笑いの表情になってしまいそうだったので、紅蘭は話を打ち切ってすみれに背を向けようとした。そのとき。

「そして、わたくしも紅蘭のようにはなれませんわ」

「……え……?」

 振り向くと、すみれは光武を見上げていた。右手を挙げて、光武を優しく撫ぜる。我が子を可愛がられたようで、紅蘭はそのすみれの仕草に心温まるものを感じた。

「わたくし、機械のことなんてとんとわかりませんもの。でも紅蘭がこうして整備をしてくださるから、わたくしは戦えるのですわね」

「すみれはん……」

「舞台もそう」

 すみれは紅蘭に向き直り、微笑んだ。

「どんなにわたくしが優れた女優でも、一人では舞台はできませんわ。カンナさんの粗野な演技や、さくらさんの田舎臭い演技が必要なのです。もちろん紅蘭、あなたもね」

「……」

「だから、つまらないことを考えるのはおよしなさいな。それじゃあ、わたくしはこれで。おやすみなさい」

 くるっと背を向けて、すみれは歩き去る。
 その後ろ姿を黙って見送っていた紅蘭は、ふと我に返って、すみれに声をかけた。

「すみれはん、特訓に来たんやないの? 乗っていかんでええんか?」

「何度も云わせないでくださいな。わたくしは散歩に来ただけですの」

 振り向きもせずにそう答え、すみれは階段を上っていった。
 紅蘭は肩をすくめてその姿を見送り、それからすみれの光武を見上げた。

「おおきに、すみれはん。……あんたやっぱり、かっこええわ」

     *

 2階に戻ったすみれは、しかし、自分の部屋には帰らず、書庫へと向かった。

「確か……この辺にあったはず……」

 記憶を頼りに、いつか読んだ伝記物を探す。

「あった、これですわ」

 見つけた1冊の本を胸に抱え、すみれは今度こそ自分の部屋へ戻った。
 部屋の灯りは、遅くまで消えることがなかった。

     *

 数日後。
 紅蘭は支配人室に呼び出された。そしてそこにいた米田、大神、マリアから、思いがけないことを聞かされていた。

「……主役? うちがですか?」

「おうよ。演目は「つばさ」と云ってな。飛行機に賭けた女空軍飛行士の物語よ」

「紅蘭にはぴったりだろう?」

「うちが……主役……」

 11月公演の演目「つばさ」で主役を務めてもらう……それが、紅蘭がここで聞かされたことだった。
 喜び、驚き、不安……色々な感情がいっぺんにわき起こり、紅蘭は半ば呆然と立ちつくしていた。

「それにしても、今までの花組の舞台とは趣がだいぶ違いますね。面白そうだわ」

 企画案に目を通しながら、マリアが呟く。それに米田は頷きながら、

「そうよ。花組の舞台も幅を広げなけりゃダメだって、すみれが随分云ってきてな」

「すみれくんが?」

「おう。面白えネタを持ってきてくれたんで、助かったがな」

「すみれはんが……この話を……」

 あの夜、すみれが書庫で見つけた伝記小説、それが「つばさ」だったのだ。それを元に企画を立て、米田のところに持ち込んだのだ。
 もちろん、そこまでは紅蘭が知る由もない。しかし、あの夜の会話がきっかけで、スポットライトの当たる場所をすみれが用意してくれたのだ、ということはすぐに理解できた。

「ありがとうございます。うち、頑張らせてもらいますわ。……ほな!」

 一礼して、支配人室を飛び出していく紅蘭。
 その姿を、残された3人は目を丸くして見送った。

「なにをあんなに慌ててるんだ、紅蘭は?」

「さあ……」

「張り切ってるんじゃないんですか」

「だといいがな」

     *

 階段を駆け上がった紅蘭は、まっすぐサロンへ向かった。
 この時間なら、すみれはサロンで過ごしているはず。
 そんな紅蘭の予想に違わず、すみれはサロンのいつもの場所に腰掛け、紅茶を楽しんでいた。
 息せき切って駆けてくる紅蘭を、ちらりと見やる。その手に持った「つばさ」の企画書にも当然気づいていたが、そのことにはなにも触れず、ただ眉をひそめた。

「なんですの、紅蘭。騒々しい」

「すみれはん……これ……」

 肩で息をつきながら、紅蘭はすみれの前に企画書を差し出した。
 すみれはやはり表情を変えず、ティーカップを口元に運ぶ。

「次回の公演ですわね。わたくしも先ほど聞きましたわ。それがなにか?」

「……おおきに。すみれはんが口添えしてくれはったんやろ?」

「なんのお話かしら? 演目と配役を決めるのは支配人の仕事。わたくしの与り知るところではありませんわ」

「すみれはん……」

「そんなことより」

 ティーカップを机に戻し、すみれは立ち上がった。紅蘭の瞳を、正面から見据える。
 その真剣さと迫力に、紅蘭は圧倒されるものさえ感じた。

「このわたくしを差し置いて主役をおやりになるんですから。いい加減な芝居は許されませんことよ」

「……!」

 主役、というだけでどこか舞い上がっていた紅蘭は、そのすみれの言葉で、雷に打たれたような衝撃を受けた。
 主役という立場の重圧、責任。果たして自分に務められるのだろうか? このすみれのように――。
 そこまで考えて、紅蘭ははっとあの夜のことを思い出した。
 紅蘭には紅蘭にしかできないこと、すみれにはすみれにしかできないことがある。それぞれが自分にしかできないことを精一杯やって、力を合わせて作り上げる。それが舞台。
 あのとき、すみれはそう云っていた。
 それなら、今度もまた。紅蘭には紅蘭にしかできない主役があるはず。
 自分を見失わず、ベストを尽くすこと。それだけが重要なのだ。これまで、花組のみんながそうしてきたように。

「わかっとる。うち、頑張るで!!」

 目を輝かせ、紅蘭はすみれの視線を正面から受け止めた。本人は気づいていなかったが、その目の輝きは、紅蘭が光武の整備をしているときのものと同じだった。

「……」

 なにも言わず、すみれはその場を立ち去った。
 けれど、紅蘭は見逃さなかった。最後に一瞬浮かべた、すみれの微笑を。
 その微笑みは、幾百の励ましの言葉より、紅蘭を勇気づけた。

「……よっしゃ! 気合入れていくで!」





2000.9.19

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