その日、俺は天使を見た。
いや、女神と云うべきだろうか。
いつも通り、消灯前の見回りをしているときのことだ。
舞台袖まで来たとき、舞台にまだ灯りがついていることに気づいた。
そっと幕間から覗いてみると……そこに、女神が降臨(おり)ていたのだ。
薄暗い舞台に、一筋差し込むスポットライト。その光を浴びて、舞い踊る女神。
なんのセットもなければ、音楽もない。けれど、彼女が舞う度に、小川のせせらぎが、鳥のさえずりが、暖かい陽光が、俺の目の前に浮かんだ。
俺は声をかけるどころか、身動きすらできず、その栗色の髪の女神をただ見つめていた。
やがて、女神の舞は終わる。息を整えるように、しばし胸に手を当ててじっと佇む彼女。舞台は光と音を失い、また薄闇に戻ってゆく――。
「……少尉、いつからそこに?」
不意に呼びかけられ、俺は思わず狼狽してしまった。女神の沐浴を覗き見たことを、咎められた気分だ。
しかし、そのとき女神はもう現身を取り戻していた。肩先の髪を掻き上げながら、彼女――すみれくんが、俺の方を見つめている。
「ああ、ちょっと前から……。一所懸命だったから、声をかけちゃ悪いと思って」
声さえかけられなかった、とは、照れくさくて云えなかった。
でも、そんなことはすべて見透かしたかのように、彼女はいつもの少し挑戦的な口調で云う。
「見とれていらっしゃったの?」
「はは……そうかもな。すみれくんは、こんな時間まで練習かい?」
照れ隠しに、話題を変える。
今度は、彼女が照れる番だった。人一倍努力家のくせに、彼女は自分が努力する姿を見られるのを嫌う。
「ただの気晴らしですわ」
「そうか……」
思わず笑みを漏らしてしまったが、とりあえずそういうことにしておこう。
それにしても……。
「君は本当に……スポットライトが似合うね」
「え……?」
「まるで、すみれくんのために用意された場所みたいだ」
ライトの光を見上げながら、そう云う俺の顔を彼女は少しの間見つめ、そして小さく微笑んだ。
「お上手ですこと。……でも、その通りですわ」
ライトを見上げ、両手を大きく上げる。その姿は、祈りを捧げる巫女のようだ。
「センタースポットに立つ。それがわたくしの務めですもの」
そう云いきる彼女の横顔には、傲慢さは欠片もない。ただ自分の為すべきことを知り、そのために全力を尽くしている――そう、殉教者とさえ云えるような一途さだけが、あった。
……俺はまた、見とれてしまっていたらしい。
いつの間にかライトは消され、すみれくんがすぐ側に立っていた。
「……少尉? わたくし、もう戻りますわよ」
「あ、ああ、そうか、もうこんな時間だね」
「いったいどうなさったの? 変ですわよ、少尉」
君が美しすぎるからだ……なんて、気障なことを云えれば苦労しないんだけど。
苦笑いを心に隠しつつ、俺は舞台袖の施錠を確認した。
「部屋まで送るよ。……いや、送らせてもらえるかな?」
一拍間をおいて、彼女が俺を見上げる。
艶やかな笑顔が、闇の中の薔薇のように輝く。
「よろしくてよ」
……殉教者は、俺かも知れない。
そんな気にさせる笑顔だった。
了
2000.9.18