One 〜おやすみなさいを言う前に〜

「それでは、わたくしはこれで失礼いたします。少尉……いえ、中尉、お休みなさい」

「……ああ、おやすみ、すみれくん」

 明日、巴里へ発つ大神に手紙を渡したすみれは、最後にまた艶やかに微笑むと、大神に背を向けて歩き去った。
 ドアのところで、大神はその後ろ姿を見送っている。
 その視線を感じていたからこそ、すみれは振り向くことができなかった。舞台の上のように、背筋をまっすぐに伸ばして、毅然と歩く。
 そう、今はまさに彼女にとって、一世一代の大舞台と云えた。
 そのまままっすぐ自室に戻る。後ろ手でドアを閉めると同時に、深く大きな溜息が漏れる。
 舞台は終わった。
 彼女は演じきったのだ。悲しみを面に出さず、笑顔で恋しい人を送り出す女の役を。
 できることなら、大神の胸の中で泣きたかった。行かないでほしい、何度もそう思った。
 けれど、自身が自らの意志で自らの人生を選んだように、大神もまた、自分の生きる道を選んだのだ。その決意を鈍らせたり、心残りになるようなことがあってはいけない。そう思えばこそ、これまで涙を見せずに、極力笑顔で振る舞ってきた。
 二度と逢えないわけではない。いつかまたきっと出逢うそのときまで、ほんの少しの間のお別れ。そう自分に云い聞かせて。
 だが、今夜すべての役を終えて、一人の部屋に戻ったとき、張りつめていた糸が切れてしまった。ドアにもたれたまま立ちつくすすみれの頬を、止めどなく涙が伝う。
 今夜だけ、今夜だけ泣こう。そうすみれが考えた、そのとき――。
 ドアが、ノックされた。
 まさか……。期待と不安で、すみれの心臓は早鐘を打った。

「すみれくん……まだ起きているかい?」

「少尉……!」

 予想は当たった。ドア一枚を隔てて、大神が立っている。
 すみれは一瞬、喜びに頬を染め、すぐにドアを開けそうになった。しかし、今、大神の顔を見れば、きっとこれまでの「芝居」が無駄になってしまう。
 張り裂けそうな胸を押さえつつ、すみれはドアノブから手を離した。

「なんでしょう、少尉」

「すまない……あと少しだけ、話がしたくて」

 わたくしも、まだまだお話ししたいことがあります。いいえ、ただ側にいられるだけでも。
 その心の叫びを押し隠して、すみれは答えた。

「申し訳ありません……。わたくし、もう休むところですから」

「……そうか……」

 短く答えたが、大神はまだ立ち去る気配がない。
 ドアを挟んで、立ちつくす二人。
 やがて、大神が静かに口を開いた。

「じゃあ……そのままでいいから、聞いてくれ。ひとつだけ、どうしても云っておきたいことがあったんだ」

「……」

「すみれくん……愛してる」

「……!」

 互いに、通じ合っていたはずの想い。
 それでもいざ言葉にすれば、なんと甘く切なく響くのだろう。
 けれど、今ここで聞くその言葉は、いっそ残酷でさえあった。
 こんな喜びを知ってしまって、明日からひとり、どうやって生きていけばいいのか。
 相反する様々な想いを抱え、唇をかみ締めるすみれの心情を知ってか知らずか、大神は静かに言葉を続けた。

「どんなに遠く離れていても、君のことは俺が守りたい。守らせて……ほしい。だから……」

「……」

「だから……あの縁談のときのように、一人で何もかも決めてしまわないでほしい。ふたりで乗り越えていきたいんだ、どんなことでも」

「……しょう……い……」

 すみれの心を、ゆっくりと暖かいものが満たしていく。
 同時に、すみれは自らの傲慢さにも気づいていた。
 あの縁談のとき、自分さえ犠牲になれば、と思った。それはつまり、仲間を――大神を、信じていなかった、ということにならないか。
 そして、今もまた。自分ひとりの胸にすべてをしまいこむことで、大神との別れを乗り越えようとしていた。
 しかし、これはふたりの問題のはず。ふたりで乗り越えていくべきことではなかったのか。

「話というのはそれだけだ。それじゃ……おやすみ、すみれくん」

 大神が歩き去る気配に、すみれははっと我に返った。
 ドアを開け放ち、あふれる涙をぬぐおうともせず、大神に駆け寄る。そして、振り向いたその胸に、ためらわず飛び込んだ。

「大神さん……!」

「すみれくん……」

「ごめんなさい……、ごめんなさい、わたくし……」

 それ以上は言葉にすることもできず、ただ泣きじゃくるすみれを、大神はそっと抱きしめた。栗色の髪を優しく撫ぜる。
 そして、なにも云わず、小さく首を横に振った。
 もはや言葉はない。
 ふたりは、今夜、ひとつになった。

    *

 翌早朝。
 朝焼けの光の中、大帝国劇場を見上げる大神の姿があった。
 皆との別れは、昨夜、すませている。だから、誰にも会わずに行くつもりだった。
 ――しかし。

「ずいぶん早いご出発ですこと」

 荷物を手に歩き出そうとしたその背に、声がかけられた。
 大神は一度目を閉じ、そしてゆっくりと振り返った。

「……すみれくん」

「少尉……いえ、中尉の考えることなんてお見通しですわ」

 いつもと変わらぬ高飛車な調子で微笑みながら、大神の方に近づいてくるすみれ。それが、大神にはなにより嬉しかった。

「すみれくんにはかなわないな」

「当然ですわ」

 大神を見上げ、すみれがにっこりと微笑む。
 最上の笑顔だ、と大神は思った。
 しばしの間、ふたりは無言で見つめ合う。そして、すみれが瞳にほんの少し憂いをたたえて、云った。

「お元気で」

「ありがとう。すみれくんも」

「……はい」

 背筋を伸ばし、敬礼する大神。
 すみれは胸の前で手を握り、その大神の姿を目に焼き付けるように、じっと見つめていた。
 敬礼を返さなかったのは、隊員としてではなく、ひとりの女として大神を見送りたかったからかもしれない。
 やがて腕を降ろした大神は、荷物を取り、歩き去った。
 すみれはその背中をずっと見つめ続け……ついにその姿が見えなくなると、小さく溜息をついた。

「さて……そろそろ皆さんを起こしてさしあげないと」

 女としてのけじめは、すでにつけた。
 最後に、隊員としてけじめをつけよう。花組みんなで。

「中尉……また必ずお会いしましょう。巴里の空の下で」

 どこまでも青い空を見上げて、すみれは最後にもう一雫だけ、涙を流した。
 再会の日を、胸に描いて。





2000.11.3

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