朝日のようにさわやかに II

     1

 秋の美しい山並みから、相馬轍は視線を少しずつ下げた。鄙びた穏やかな山村には、現在、大きな看板やプラカードが立っている。
 書かれている文字は、一様に「スキー場建設反対」「自然を守れ」。
 自然保護のための運動が景観を著しく損ねていることに、少し皮肉を感じながら、轍はシャッターを切った。
 こんなことをわざわざ声高に叫び、そして意見をぶつけ合わなければわからないなんて、どうして人間ってのはこんなに頭が悪いんだろう。こうして山を見上げれば、何が正しいことかなんて、すぐわかるだろうに。
 再び山を見上げて、轍がため息をつく。そこへ、村人が声をかけた。

「相馬さん、そろそろお願いします」

「あ、はい、わかりました」

 踵を返し、轍は村の集会所へ足を向けた。
 本日、建設業者と村との間で会合が持たれる。土地の買収や建設計画について話し合われるのだが、往々にしてそういう会議は贈賄や恫喝の舞台になりがちだ。
 そこで、偶然取材に訪れていた轍は、第三者として参加してほしいと村の人々に頼まれたのだ。ジャーナリストがいれば、業者側も露骨な裏取引は持ちかけにくいだろう、という判断だった。
 本来、取材に来た人間がそこまで立ち入るべきではないのはわかっていたが、心情的に村人を応援したいこともあって、轍はつい引き受けてしまった。
 もちろん、話し合いに口を挟むつもりはない。ただ不正な行いを防ぐ役に立てれば、と考えていた。
 集会所には、村側の主だった人々は集まっていた。反対派の最右翼・梶原政志が、無骨な顔に笑顔を浮かべて、轍に挨拶をする。頑固だが、基本的に気のいいこうした「親爺」が、轍は嫌いではない。つい「おやっさん」を思い出してしまう。

「わざわざ申し訳ありませんな、相馬さん」

「いえ、貴重な取材の機会をいただいたと思っていますから」

「そう云っていただければありがたいです」

「業者の皆さんは、まだのようですね」

 勧められた席に腰を下ろしつつ、轍は云った。向かい側のテーブルには誰もいない。

「なんだか本社のほうからわざわざ偉い人を呼んできたとか。もったいぶってみせれば、こっちが恐縮するとでも思っとるんでしょうな」

 憤慨を鼻息で表しながら、梶原は云った。轍は頷き返しつつ、手元の資料に目を通していった。
 なにぶん、急な話だったので、業者については十分な調査ができていない。なおさら、軽率な口出しはできないな……そう考えながらページをめくったとき、轍は驚きに目を瞠った。
 そこには、業者の情報が記述されていた。『鳴滝建設……滝沢財閥系列企業……』

「なっ……」

「? どうしました、相馬さん?」

 思わず腰を浮かせた轍を、驚いて梶原が振り仰いだ。
 轍は曖昧に返事をしつつ、椅子に座り直す。そして冷や汗をぬぐおうとしたとき、集会室のドアが開いた。

「申し訳ありません、遅くなりました」

 轍が知っている話し方とはかなり異なる、凛とした物言いだったが、それでもその声は轍の耳にいつも残っているものだった。
 轍は茫然と、ドアを開けて入ってくる女性を見つめた。轍が初めて見るスーツに身を包み、栗色の長い髪をこればかりはいつも同様、一本に編んだその姿を。
 梶原が、轍とは違う意味で茫然としつつ、その女性を目で追った。どうやらその女性は秘書ではなく、交渉相手そのものであるらしいとわかったからだ。自分の娘のような年若い女性の登場に、梶原は言葉を失い、次いで、怒りを面に表した。
 こんな小娘を連れてきて、どういうつもりだ――、そう梶原が怒鳴ろうとした瞬間を見計らったように、彼女はにっこりと微笑んだ。意識しているかどうかはわからないが、ともかく絶妙な間の外し方だった。

「はじめまして。滝沢グループ会長の代理として参りました。滝沢玉恵と申します。本日はよろしくお願いいたします」

 流暢に挨拶を述べたあと、もう一度、玉恵はにっこりと笑った。
 夢にまで見たその笑顔を、轍はただ茫然と見つめていた。

     *

 妙齢の女性の登場、しかもそれが会長の娘で、全権を委任されてきたという驚きのため、梶原たち反対派の人々は、初っぱなからすっかり飲まれてしまっていた。狙った演出なら、玉恵はかなりの戦略家だと云えるだろう。
 だが、玉恵はそれを好機と自分たちに都合のいいように話を進めたりはせず、ただ建設意図と地域住民のメリット、買収条件等を丁寧に説明し始めた。おかげで、梶原たちも平静を取り戻したが、もとより弁論ではかなうはずもない。結局、感情論になってしまうのだが、それでも玉恵は恫喝や賄賂という手を使わず、誠実に対応し続けた。
 それは理想的な会議の進め方であったかもしれない。ただ、話が折り合わず、いつまで経っても平行線になってしまうのも確かだった。
 結局、その日は双方の条件を持ち帰って吟味することにし、また後日改めて、という結果に終わった。

「それでは失礼いたします。今日は本当にありがとうございました」

 にこやかに頭を下げて、玉恵は集会室を出ていこうとした。
 最後まで、彼女は轍のほうを見なかった。その姿を見たとき、轍のように動揺することもなく、彼のことなどまるで見知らぬ人のように振る舞っていた。
 いたたまれず、轍は思わず玉恵を追って飛び出してしまっていた。

「あ、あの……!」

 玉恵、と叫ばずにいられたのが、轍のぎりぎりの自制心だった。
 玉恵は静かに振り向いたが、やはりその面には特別な表情が浮かんではいなかった。

「あなたは……報道の方でしたよね」

 会議が始まるとき、双方、自己紹介はしている。空々しく名刺交換までした。
 何を云っているんだ、そう叫び出したいのをこらえて、轍は頷いた。

「取材でしたら、ちゃんと手順を踏んでいただかないと、お答えできません。……こちらに、連絡を」

 玉恵は手帳に何か書き付けると、そこをちぎって轍に手渡した。
 かすかに震える手で、轍はそのメモを受け取る。
 玉恵はすぐに踵を返し、黒塗りの車に乗り込んで去っていった。
 轍はその車をずっと見送っていた。メモを渡すとき、手が触れたほんの一瞬――、そのときだけ、玉恵の瞳に何かが浮かんだような、そんな気がしていた。

     2

 少しためらったあと、轍はその部屋のチャイムに指を伸ばした。
 件の村とは結構離れたところにある、この地方では大都市の部類に入る街、そこのホテルに玉恵は滞在していた。去り際に轍に手渡したメモには、そこの名前と部屋番号が書いてあったのだ。
 呼び鈴が鳴ると、すぐに返事が返ってきた。

「はーい、どちら様?」

「……『ふうらい』編集部の相馬です」

 答えたのは確かに玉恵の声だったが、玉恵以外の人物が中にいることも考えて、轍はそう名乗った。

「はい、少々お待ちください」

 やはり平静なままの声が答え、すぐドアは開かれた。
 轍はややうつむいたままドアをくぐる。そして、ドアを閉じた瞬間、猫のように全身で彼女はぶつかってきた。

「――わっ、なっ……」

「にゃはっ、轍だっ。こんなとことで逢えるなんて、夢にも思わなかったよ」

 轍の首に両腕を回し、その頬に自分の頬を寄せながら、玉恵は心底嬉しそうに云った。昼間の様子とはまるで別人のような態度に半分驚き、半分安堵しながらも、轍は玉恵の腕を掴んで引きはがした。それは轍にとっても、ひどく惜しいことだったのだけれど。
 抱き返してくれないことに不満そうな表情を作った玉恵は、轍の沈痛な顔つきに戸惑って、首を傾げた。

「轍……?」

「どういう……つもりだ?」

「どういう……って」

 何かを探すように、視線をさまよわせる玉恵。それは話をはぐらかそうとしている証拠だ。そんなことまで、轍にはわかってしまう。わかってしまうのに――。

「昼間の態度のこと、怒ってるの? だって、仕事のときはやっぱりしょうがないじゃない。それに、轍のほうも、私と知り合いだってばれたら、立場が悪くなるんじゃないかと思って……」

「そんなことじゃない。わかってるんだろ」

「……」

 轍のきつい口調に、玉恵は唇を噛んでうつむいた。
 しかし、それは轍が知っているように、子供がすねるような様子ではなかった。そのことに訳もなく苛立ちながら、轍は言葉を続けた。

「俺たちが一緒に旅をして、一緒に感じたものはなんだったんだよ。自然がどれだけ美しいか、それを人間のエゴで破壊するのがどれだけ愚かしいことか……、それを一緒に見てきたんじゃないのかよ」

「……」

「そのことを伝えたい……俺の写真や、記事がその助けになればって、お前もそれに賛成してくれたじゃないか。違うのか、玉恵っ!?」

「……違わない……違わないけど……」

「だったら、なんでこんな……っ! 親父さんの手伝いをするってのは、こういうことだってのか? お前なら、こういうのを真っ先に止めてくれると思ってたのに……それを……」

「……」

 うつむいたまま轍の言葉を聞いていた玉恵は、ゆっくりと面を上げた。瞳には涙を浮かべていたが、轍が期待した後悔や反省の色はなかった。ただ挑むように、轍の視線を真っ直ぐに受け止めていた。

「どうして、私たちがやってることが全部悪いって、決めつけるの? まだ工事するって決めた訳でもないんだよ? みんなにいちばんいい方法探そうとして……」

「そんな詭弁は聞き飽きてるよ。結局、人間のエゴで自然を壊すことには変わりないだろうが」

「違う……! そうじゃなくて……」

「違わない。なんでだよ、玉恵。なんでそんな風に考えるようになっちゃったんだ」

「……」

 なんで。その言葉が、ふたりの心で何度も何度も繰り返されていた。
 ずっとずっと逢いたかったひとに、こうしてやっと逢えたのに、なんでこんな風になっちゃうんだろう。
 その嘆きが、苛立ちが、悲しみが、相手を、自分自身を傷つけるようなことさえ、云わせてしまったのかもしれない。

「玉恵……変わったな」

「轍が変わらなさ過ぎるのよ」

「変わるってなんだ? お前も『大人になれ』とか云うのか?」

「そうじゃないけど……!」

 それ以上は、つらくてどちらも言葉を続けられなかった。
 次に逢うときを、楽しみにしていたはずなのに。
 今度逢ったら、どんな話をしよう。たくさん考えていたけれど、決して、こんな話じゃなかった。
 耐えられず、轍は部屋を飛び出した。逃げるようにホテルから出て、バイクで来た道を戻っていく。
 玉恵もまた轍を追うことをせず、ただひとり、意味もなく広い部屋に立ち尽くしていた。

     3

 朝靄の立ちこめる気配を、轍はシュラフの中で感じていた。
 村はずれの河の近くに、テントを張っている。村人は集会所で寝てもいいと云ってくれたのだが、一人で考え事をしたいのもあって、轍は気楽なテントを選んだ。
 結局、ほとんど眠ることもできなかった。
 思うのは、なんで、ということだけだ。もはや玉恵を責める気持ちはない。なんで、あんな云い方をしてしまったのか。自分の知らない世界に入っていった玉恵には、玉恵なりの苦労があるはずだ。これじゃ俺は、三年前と何も変わっていないじゃないか。失うことがただ怖くて、泣き叫んだみっともない俺と……。
 そう考えて、轍は深いため息をついた。
 そのとき、河砂利を踏む足音がした。誰かテントに向かって近づいてくる。
 轍はシュラフから体を出し、テントを開けた。そこには、期待通りの姿が立っていた。

「……おはよ」

 長い栗色の髪を一本に編み、スーツではなく、今日は懐かしいライダーズジャケットを羽織っている。はにかんだような、それでいて包み込んでくれるようなその笑顔は、やはり轍にとって「最高の笑顔」だった。

「まさか、バイクで来たのか?」

 轍の問いに、玉恵は少し淋しそうに首を振った。

「ううん、タクシーで。やっぱりバイクはもうあんまり乗れないから」

「そうだよな」

「でも、これはいつでも持ち歩いてるの。これがあれば、負けないから……止まっちゃいけないって、思えるから……」

 玉恵は自分を抱くようにし、ジャケットを愛おしそうに撫でた。
 ああ、どうして変わっただなんて思えたんだろう――、轍は後悔と愛しさで胸を詰まらせつつ、玉恵の手を取った。

「まだ寒いだろ。入れよ」

「……うん、ありがと」

 轍の手を、玉恵は強く握り返した。

     *

 テントの中で、ふたりは寄り添って座っていた。
 お互い、言葉は少ない。
 ただそうしていれば、あの旅の続きにいるような気持ちになれた。

「昨日は……ごめんな」

「ううん……私のほうこそ」

 小さく首を振って、玉恵は轍のほうに顔を向けた。瞳にかすかに涙が浮かんでいる。

「さっきね、ちょっと怖かった」

「……怖い?」

「うん。帰れって云われたら、どうしようって」

「……バカだな、玉恵は……」

「うん……」

 轍は玉恵の体を抱き寄せ、髪を撫でた。ふたりの顔がゆっくりと近づいていき、どちらからともなく目を伏せる。唇が重なる――。

「相馬さん! 相馬さん、いらっしゃいますか!?」

「――!」

 テントの外から、大声で呼ばれた。轍はしかめっ面で立ち上がる。玉恵は苦笑しながら、行ってらっしゃい、というように手を振った。
 玉恵がここにいることを村人に知られるのは、確かによくないかもしれない。轍は中を見られないよう気をつけながら、テントの外に出た。
 外では村人の一人が、血相を変えて立っていた。

「おはようございます。どうしたんですか、こんな早くに」

「そんな、落ち着いてる場合じゃないですよ! 梶原さんが……!」

「梶原さんが、どうか……?」

「亡くなったんですよ!」

「なっ……!?」

 思いがけない言葉に、轍は目を見開いた。テントの中でも、玉恵が息を飲む気配がした。
 だが、もっと思いがけないことを、村人は口にした。

「夕べ、事故に遭われたんですが……どうも変なんです。みんな、滝沢の人間がやったんじゃないかって……」

「なんですって……!?」

「詳しいことはまだわからんのですが……とにかく、急いで集会所へ来てください! お願いします!」

「は、はい」

 伝言を伝えると、村人はまた大急ぎで走り去った。轍はその後ろ姿をしばらく茫然と見送り、それからのろのろとテントに戻った。
 玉恵は、茫然自失の体で座り込んでいた。轍と目が合うと、ゆっくり、ぎこちなく首を振る。轍は玉恵の側に寄り、体を抱き寄せた。

「わかってる」

「違うよ……私……そんなの……違う……」

「わかってる。なんかの間違いに決まってるさ、そんなの」

「違う……」

 玉恵の体は細かく震えていた。轍が「わかってる」と繰り返すと、ようやく意識を取り戻したように轍にすがりつき、涙を流した。

「大丈夫だ、玉恵。そんなの、調べればすぐにわかる。とりあえずそっちにも連絡が行くだろうから、玉恵は急いでホテルに戻るんだ。俺も村の集会所に行く。いいな?」

「うん……うん……」

「こんなときに、送ってやれなくてすまない。大丈夫か? 帰れるか?」

「うん……」

 頷きつつ、玉恵の体は小鳥のように震え続けていた。轍はその体をさすり、暖め続けた。

     4

 梶原の死は、酒を飲んだ帰りに、車にひかれたせいだった。
 普段から、酒癖はあまりよくなかったらしい。昨日も酩酊して、足下もおぼつかない様子で帰途につき、事故に遭ったのだという。
 梶原をひいた車は、まだ見つかっていない。ひき逃げだった。
 誰が云うともなく、事故を装って滝沢の者が梶原を殺したのでは、という噂になった。スキー場建設に最も強硬に反対していた梶原が死ねば、交渉は楽になる。他の反対者への恫喝にもなるだろう。
 すべては憶測にすぎない。だが、さも真実のように、通夜の席ではその話がささやかれていた。
 ただ轍だけが、玉恵を信じていた。玉恵にそんなことができるわけがない。玉恵の知らないところで人が動いた可能性もなくはないが、まだ交渉が始まったばかりの状況で、そんな真っ先に疑われるとわかっていることをするとは思えない。
 だがそのことを強く主張することもできず、いたたまれなさを抱えて、隅で立っていた。
 そのとき、玄関のほうから小さなざわめきが広がってきた。何事かと轍は顔を向け、驚きに目を瞠った。
 そこには、喪服姿の玉恵が立っていたのだ。
 玉恵はやはり轍のほうは見ようとせず、静かに焼香をすませ、手を合わせた。礼節をわきまえたその挙措は、しかし、かえって人々の反感を煽る結果になってしまった。

(あんな可愛い顔してさ……)

(えげつないよな)

(人の命をなんだと思ってるんだか)

(あげくに、こんなところへしゃあしゃあと出てきて……)

 聞こえよがしに囁かれる悪意。轍はそれらが自分自身に向けられたようで、悔しくて、そして悲しかった。ましてや玉恵はどんな想いだろう。そう考えて、轍は拳を振るわせた。
 玉恵が一同にもう一度頭を下げて、出ていこうとする。その背に、今度ははっきり聞こえるように、声が投げかけられた。

「人殺し」

「……!」

 玉恵の背中が、一瞬、びくんと震えたように見えた。そう思ったとき、もう轍は叫んでしまっていた。

「いい加減にしろ……!」

 村人が、そして誰より玉恵が驚いて、轍を振り向く。ダメ、と云うように玉恵は小さく首を振ったが、轍にはもう自分を止められなかった。

「誰か、彼女が梶原さんを殺すのを見た人でもいるっていうのか? 無責任な勘ぐりで人を傷つけるような権利は、あんたたちにだってないはずだぞ!」

 その剣幕に、人々は一瞬ひるんだ。だが所詮多勢に無勢、正論を突かれたという後ろ暗さもあって、人々の悪意はいっそう高まりを見せてしまった。

「証拠なんかなくたって、わかりきってる!」

「梶原さんが死んで得をするのは、その女だけじゃないか!」

「そうだ、そうだ!」

「玉恵は、自分の利益のために、他人を傷つけるようなことができる女じゃない!」

「轍、もういいから……!」

 ひとり抗弁を続ける轍に、玉恵が取りすがって止めた。自分に代わって非難の矢面に立とうとする彼を見ていられなかったのだが、その態度と、二人の言葉が、轍と玉恵の仲を明らかにしてしまった。

「……どういうこと?」

「相馬さん、あんた、この女を知ってるのか?」

「そういえば、テントのそばで女を見たって……」

 しまった、とほぞを噛んだときにはもう遅かった。最悪の状況で明らかになった事実は、最悪の誤解を生んだ。

「最初からグルだったのか!」

「親切面して、近づいて……」

「違う! そんなんじゃ……」

「轍は関係ありません!」

「黙れ! この人殺しどもめ……!」

「違う……!」

     5

 轍は沈鬱な表情で、テントを畳む作業を続けていた。
 撤収の準備だ。もうここにはいられない。
 あのあと、逃げるように集会室を出た。実際、逃げなければリンチにまで悪意はエスカレートしていたかもしれない。不本意ながら玉恵のボディガードにここまで送ってもらい、玉恵はそのままホテルに帰った。
 最悪だ。轍はもう何度目かの大きなため息をついた。本当に、どうしてこんなんことになってしまったのか。
 玉恵を守ろうとしたことが、間違っていたはずがない。だけどそれは、自然を守ることと、相反するのだろうか。どちらかを選べだなんて、そんなこと――。
 そこまで考えて、轍は愕然とした。昨日、俺は玉恵に、そのどちらかを選べと迫っていたのだ。「違う」と云うしかなかった玉恵の心を思うと、今更ながら、轍は慚愧に胸をかきむしられた。

「……轍」

「え……?」

 思いがけない呼びかけに、弾かれたように振り向く。
 玉恵は、例のライダーズジャケットに着替えて、立っていた。その瞳に宿る深い悲しみに、轍はしばし言葉を失った。

「おまえ……どうして……危険だぞ、ここは」

「うん……ごめんね、轍にもまた迷惑かけちゃった」

「そういうことを云ってるんじゃない」

「うん、ごめん……」

 うつむいて、沈黙してしまう玉恵。轍は急いで片づけを終え、荷物を積み込んでから玉恵に声をかけた。

「さ、送ってくから。早く乗れよ」

「……」

「玉恵?」

 玉恵はうつむいたまま動かない。
 轍は近寄って顔を覗き込み、思わず息を飲んだ。
 こんな心細そうな玉恵を見たのは、轍には初めてだった。あの旅が終わるときでさえ、こんな顔はしていなかったのに。

「玉恵……?」

「一緒に……行ってほしいところがあるの」

「え……」

「連れていって……お願い」

 うつむいたままで、玉恵は呟いた。その声は助けを求める子供のようにも、自分を導く巡礼のようにも、轍には聞こえた。

     *

 そこは、廃墟だった。
 荒れ果て、それでも原形を保った家屋の群れが、いっそう荒んだ印象を与える。生きるものの気配を全く感じさせないそこは、何か人を肌寒くさせるものが巣くっているようにさえ思えた。
 玉恵が轍に示した行き先は、この廃村だった。轍は言葉もなく、しばらく辺りを見回していた。

「……ここは?」

 息が詰まるような感覚に耐えながら、轍は玉恵を振り返って尋ねた。玉恵はやはり暗い表情で、うつむいたまま答えた。

「五年ぐらい前にね、廃村になったんだって」

「……」

「この辺りにもスキー場誘致の話があったんだけど、自然保護のために強硬に反対して……結局、話は立ち消えになったの」

 玉恵はゆっくりと、家屋の一軒に近づいた。ぼろぼろに朽ちた壁に、痛ましそうにそっと触れる。その背中を、轍はじっと見守っていた。

「人々は喜んだわ。……だけど、その結果、この辺に産業は入らず……人が、暮らせなくなったの。仕事の当てのある人は、懸命に守ろうとしたこの地を出ていき……、そうできない人は、ここで……」

 呟きに、嗚咽が混じって途切れ途切れになる。轍は玉恵を支えてやりたかったが、なぜか体が動かなかった。

「……餓死した……小さい子も……いるんだって……」

 ついに耐えきれず、玉恵はその場に崩れ落ちた。止めどなく頬を伝うその涙が、轍の心を突いた。

「自然を守るために、人が犠牲になる……それってほんとに正しいことなのかな? 一方的にどちらかが傷ついて、それで『自然と共存している』って云えるのかなあ」

 それ以上は言葉にできず、あとはただ玉恵の嗚咽だけが、この死んだ村に響いた。
 轍もまた、何を云うこともできなかった。玉恵を抱いて、慰めることさえ。
 気休めの言葉が、今、なんの役に立つだろう。ここを見て、自分が出した本当の答えでなくては。
 どれだけの時間が経った頃か。玉恵は立ち上がり、轍の前に立った。涙はもうなく、ただ深い悲しみだけが瞳に残っていた。

「写真、撮って」

「……え?」

「轍の写真で、轍の記事で、轍の感じたままのことを、みんなに伝えてほしい」

「……」

「お願い」

 玉恵がそっと轍の手を握る。
 轍は頷くと、震える手でカメラを構えた。
 今の俺に、そんな資格があるんだろうか。ためらいはファインダーを覗いている内に消えていった。
 伝えたいこと、それは――。

     6

 轍がアパートに帰ったちょうどそのとき、電話のベルが鳴った。
 誰からの電話か、轍にはなぜか取る前からわかってしまった。
 軽く深呼吸をして、受話器を取り上げる。

「……はい、相馬です」

「にゃは、帰ってた。こんばんはー」

「おう。今、帰ったところだ」

「そっか、グッドタイミング。お疲れさま」

「玉恵こそ。大丈夫なのか?」

「うん……」

 少しの沈黙。そして、静かに囁くように、玉恵は云った。

「記事、読んだよ」

「……ああ……」

 今日は『ふうらい』の発売日だった。轍の記事が、掲載されている。
 その記事は、ほとんど写真だけで構成されていた。破壊された自然と、失われた人の暮らしが、等しく提示されている。そのどちらもが、胸を詰まらせる悲しさに満ちていた。

「結局、どうするべきか、なんて答えは出せなかった。今の俺じゃ、何を云っても奇麗事に過ぎない気がして。……ただ、そこにあるものを、伝えたかった」

「うん……それでいいと思うよ。どうすればいいか、なんて、人に教えてもらうものじゃないもんね」

「うん……」

 あのあと、すぐに梶原をひき逃げした犯人は見つかった。梶原は泥酔して車の接近に気づかなかったらしい。全くの事故だったのだ。
 誤解は解けても、どうしてもしこりは残る。父親が非常に心配したこともあって、玉恵は交渉役から外されて、東京に戻ってきていた。
 自分たちは何ができたんだろう、なんのためにあの場所にいたんだろう。それがふたりの胸に共通して残っている痛みだった。
 けれど、無駄だったはずがない。今は何もできなくても、答えを探して努力することはできる。

「……俺、今まで型にはまった考え方しか、してなかったって、よくわかった。『自然を守る』ってことが、どういうことなのか……自分の頭で、ちゃんと考えたことなんかなかったんだ」

「轍……」

「わかったつもりで、何もわかってなかった。それだけは、やっとわかったよ。だから、そこから始めたい。無責任なように、思われても……」

「そんなこと……ないよ……」

「玉恵のことも……」

「……え……?」

 受話器の向こうで、かすかに玉恵が息を飲むのがわかった。轍は微笑んで、精一杯優しい声で囁いた。

「玉恵のことも、わかったつもりになってた。玉恵がどんな風に考えて、何を苦しんで……そういうこと、ちゃんとわかろうとしてなかった。ごめん」

「轍……」

 違うよ、という声を嗚咽で詰まらせて、ただ首を振る玉恵の様子が、目の前にいるように轍にはわかった。
 どんなに離れていても、こんなに側に感じられる。
 すべてをわかったと思うのは、傲慢だ。人の心や痛みなんて、「わかるような気がする」だけなのだから。
 だけど、俺たちふたりはいつでも互いを近くに感じ合える。風の中、車輪を並べて走ったあの頃と変わらず。走り続けることを、信じていられるはずだ……。

「ありがとうな、玉恵」

「ううん……私こそ……ありがとう、轍……」

 嗚咽はやまなかったけれど、そこに今でも「最高の笑顔」があることを、轍は知っていた。
 そして自分も。きっと彼女にとって「最高の笑顔」であることができる。そう、信じられた。




2001.9.24

あとがき

『風雨来記』をプレイしていちばん気になったのが、「自然保護」に対する説教臭さでした。率直に云って、非常に青臭い空論に思えたんですね。便利に暮らしたいって思うのはそんなに悪いことなの? ほんとに文明を捨てて生活できるの?って、どうしても考えてしまう。行き過ぎた自然保護思想は、行き過ぎた自然破壊と、根本にあるものは変わらない。それは同じく、他者への非寛容です。
その引っかかりが、この作品を生むことになりました。なので私的にはちょっと異色作かも?
……それにしても。実に10カ月ぶりのシリーズ更新ですね。待っていてくださった方がもしいるなら、大変申し訳ないことですm(__)m。粗筋は一作目を書いた頃にはもうできていたんですが、結末をどうするかずっと答えが出せなかったのでした。結局、明快な答えは出せなかった……というか、ここで出したら嘘くさいだろう、という結論に、やっと至りました。
最後に、こうして再び書き上げることができたのは、ひとえに『風雨来記』のサントラのおかげです。ゲームはもうしばらくやってませんが、音楽を聴いていると、まざまざとゲーム中のシーンが浮かんできて、胸が熱くなり、何か書かずにはいられなくなりました。これだけの力を持った音楽ってのはそうそうありませんよね。風水さんのサウンドはほんとに素晴らしいです。
久しぶりなせいか、あとがきが長くなってしまいました(^^ゞ。
ご感想など、いただければ幸いですm(__)m。

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