コーヒーメーカー

 植松眞人・作

 私は知人との待ち合わせのために、どうしようもない喫茶店にいた。小さな傷が付きすぎて、曇りガラスのように見えるグラスに水をなみなみとつぐようなどうしようもない喫茶店の片隅で、どうしようもない男は、さらにどうしようもない話を続けていた。

「例えば、今の子どもたちを救うためには、心の教育をしっかりとしなければいけないと言う意見があるよね。俺は思うんだよ。それじゃあ、心の教育って具体的になんなんだよって。具体的に、どうやって子どもたちの心の教育をするんだよって。だろ、違うか。トラウマを抱えた子どもがいたとしてだよ、それをしっかり教育するって、どういうことだよ。トラウマを分析することなのか。一人一人の子どもたちが背負っているものが違うのに、それを学校というフィールドで、どうやって教育するって言うんだ。そう考えたら、とりあえず、心の教育なんて言う陳腐なセリフを吐けるわけがないじゃないか」

 どうしようもない話はまだ終わる気配を見せない。だが、どうしようもない男の前に座っている女は、その話をじっと聞いている。

 私はアメリカンコーヒーを注文したのだが、まだ出てこない。待ち合わせの相手も現れず、私は仕方なく店に置いてあったスポーツ新聞を読んでいる。しかし、野球にしか興味のない私にはシーズンオフのスポーツ新聞に読むべき記事はほとんどない。どうしたものかと考えていると、再びどうしようもない男の声が少し大きくなってきた。

「じゃあさ、きみの意見を聞かせてくれよ。こういう問題は、興味があるとか、ないとかの次元を越えてるだろ。興味の問題じゃなくて、必然の問題だろ。誰もが考えざるを得ない問題だろ。きみの意見はどうなの」

 どうしようもない男は、たぶん四十代の前半なのだろう。目のしたの隈が色濃く、肌のつやも悪い。だらしのない生活をしているのではないかという印象を与える顔だ。女の方はまだ二十代に見えるが、もしかしたら三十代に入っているかもしれない。短い髪で、ボーイッシュなシルエットだが、表情そのものはとても女性らしい。そして、コーヒーカップに視線を落としたままだ。しかし、その視線は凛としていて、困っているふうでも、怒っているふうでもない。ただ、男の話を無視しているようだ。どうしようもない男のどうしようもない問いかけにも、女は黙ったまま答えない。男は少しイライラした様子で、どうなんだ、と押し付けがましく問いかける。女は男に視線を戻すと、口元に笑みを浮かべて、興味ないよ、と答えた。

「あなたが、どんなレトリックを使って問いかけようと、興味があるかないかの問題だと思うわ。考えざるを得ない問題なんて、世の中に存在するの。しないわよ」

「それは違うだろ」

「違うって、さっきから何度も言ってるけど、違うって何が違うって言うの。違うって言うからには正解があって、それに対して、違うって言うことよね。間違ってるっていうことよね。あなたが正解を知っていて、私がその答えを間違えてる。そんなの思い上がった考え方だとは思わない?」

「いや、俺が違うって言っている意味は、そうじゃないんだ。絶対的な話じゃなくてさ、相対的な話なんだよ」

 女はもうすでに男の話を聞いていない。確かに私が彼女の立場でも、この男から聞くべきことは何もないと0・1秒で判断するだろう。女はテーブルの下で組んだ足をぶらぶらと振り子のように揺らし始めた。私はそんな女の動きを時折見ている。男の話は限られた語彙を使い、何度も何度も組み合わせを少しずつ変えながら続いた。そして、女を攻撃するための言葉と、自分を弁護するための言葉だけが緩慢で焦点の決して定まらない連射銃のように響いた。

「世の中の流れが」と男の声。

 女の足の揺れが少し大きくなる。

「どうしようもない奴等が」と男の声。

 女の足の揺れがさらに多くなる。

「自己を認識するための自己否定を」と男の声。

 女の足の揺れがまた大きくなり、男の足に当たりそうになっている。

「君の思想的な背景はいったい」と男の声。

 女の足はついに、男の足に当たる。

 男の言葉は途切れる。しかし、女の足の揺れが止まることはない。何度も何度も男の足を蹴っている。男は困ったような顔つきになり、周囲の客の目を気にしている。私とも目があったのだが、私は女の足に神経を集中させていたので、男がこちらを見ても、全く気にならなかった。おそらく、私自身がこの男を軽蔑していたからに違いない。男がまるで肉食獣に追いつめられて怯えている小動物のように思えた。女は振り子のように振っていた足をいったん止め、足をほどいて、今度は改めて男を意識的に蹴った。男は後ろへ大きく倒れそうになったが、かろうじて持ちこたえた。私はもう一度女が男を蹴るだろうと予想したが、女はそこで足を止めた。そして、テーブルの上の伝票を取り上げると、私に差し出した。

「ねえ、私にコーヒーおごってくれない」と女は唐突に問いかけた。私がとっさにうなづくと女は、私の前に腰掛けた。ちょうど私の目の前に女が座り、通路を挟んで斜め前にどうしようもない男が座る形になった。

「あんた、聞いてたんでしょ。ていうか、聞こえてたわよね。どう思う? 隣の席の男のこと?」

「どう思うって聞かれても、どう答えていいのかわからないよ」

 私の言葉を聞いて、女は口元に笑みをたたえる。私が正直に答えるまで、許さないと言う表情だ。

「ちゃんと答えるよ。この男はどうしようもない馬鹿だ。話の論点が少しずつずれている。そして、何よりも愚かなのは、語彙が少ないことと、人に対して正確に言葉を伝えられないことだ」

 私がそう言うと、女は小さな声で、正解、と言った。その声を聞くと、私の斜め向かいに座っていた男が立ち上がり、黙って出ていった。半透明な喫茶店の自動ドアが閉まると、向こう側で一度男が立ち止まった。そして、こちらを振り返ると、私を睨み付け、再び早足で去った。

「振り返ったでしょ」

 ドアに背を向けている女が私に言った。

「あいつ、振り返ったでしょ」

 振り返った、と私が答えると、女は小さな声をあげて笑った。

「そうなんだよね。私って自分で言うのもおかしいんだけどさ、けっこうしっかりしてるのよ。でもね、私が付き合う男って、みんな別れ際に振り返るの。こういう時じゃなくてもさ、ほら、ドライブに行った帰りに私が家まで送っていったりするじゃない。だいたい、私が運転するパターンが多いんだけどね。そうするとさ、いつまでも振り返って、こっちに手を振ってる奴とかさ。ひどいのになると、お辞儀してるからね。ま、そういうのには恋愛感情なんて一欠片もないから、早く行けよ、消えろよって感じよね」

「あの男とは永い付き合いなんじゃないのか」

 女は、とんでもないという顔をしてみせる。

「今日会ったのよ。以前から知ってはいたけどね。私が通ってた英会話学校の講師なの。一緒に食事がしたいって言うから、付き合ってやっただけ」

 そこまで話すと、女はウエイトレスにコーヒーを注文した。ウエイトレスは返事もせずにカウンターの奥にいるマスターらしき人物に、ホットワン、と投げ遣りな声をかける。

「あんた、なに頼んだの」

 私がアメリカンだというと、女は最低と小さな声で言った。

「ここのアメリカンは、普通のコーヒーをお湯で薄めるのよ。あんなのアメリカンだって言ったら、アメリカ人が怒るわよ」

 女は特に冗談を言うつもりではなかったのだが、私はアメリカ人が怒るという言い回しが妙におかしく笑ってしまった。

「それじゃあ、アメリカ人が怒らないアメリカンコーヒーを飲ませる店を教えてくれよ」

 いいわよ、と答えたかと思うと、女は俊敏な動きで席を立った。

「ねえ、お姉さん。さっきのホットと、この人のアメリカン取り消してね」

 女がそう言うと、奥にいた髭面のマスターが、それは困るなあ、と不遜なもの言いをした。私が金を払うというと、女はそれを制した。

「ちょっと、この人どれだけ待ってたと思ってんのよ。私が男の馬鹿話を聞いて、蹴り上げて、男が出ていって、ああ、せいせいしたと思って、あんな男と顔を合わせるのが嫌だから、いま通っている英会話学校も辞めようって決意する間、ずっとアメリカン、来ないじゃない。用事があるんだからさ。許してよ。ね、お金なんか払わないからね」

 女はそう言うと、私の腕をとって、喫茶店を後にした。女の物言いは、決して威圧的でなく、ただ、正確に状況を把握し、権利を主張しただけだ。しかも、その声の抑揚には、明るいコミカルなムードさえ漂っていた。そんな言い回しのできる女に逆らえる男はそういないはずだ。案の定、髭面のマスターは、金をくれとも、困るとも言わなかった。ただ、困惑を表情に浮かべ、私たちの間には何の問題もないとでもいうように、皿洗いを始めた。

 喫茶店のドアを抜ける瞬間に女は私に言った。

「あのマスターね、きっとこっちを振り返るよ」

 私はドアを出た途端に喫茶店のほうに向き直ってみた。女が言ったとおり、髭面のマスターは、こちらを振り返り、私と目が合った途端に視線を手元の皿に戻した。

「どうして、わかるんだ」

 私が聞くと、女は、匂いで分かるのよ、と言って笑った。

 平日の午後だったので、喫茶店を出てからスーツ姿のサラリーマンとばかりすれ違った。休日には若い男女でごった返す通りも、サラリーマンと暇を持て余した年輩の婦人が歩くばかりで、活気がなかった。

「さっき、コーヒーおごってくれるって言ったわよね」

「ああ、コーヒーぐらいなら、遠慮はいらないよ」

 私がそう答えると、女は立ち止まって少し躊躇しながら聞いた。

「それなら、もう少しおごってくれない」

「もう少しってどういうこと」

「実は私の住んでるマンションって、ここからすぐ近くなのよ。おいしいコーヒー煎れてあげるからさ。コーヒーメーカー買ってくれないかな」

 私にはどういうことなのか、とっさには判断が付きかねた。まだ、会ったばかりの、しかもほとんど偶然のように一緒に歩いているだけの私にこの女はコーヒーメーカーを買ってくれと言っている。しかも、それは、私の部屋に来いという誘いでもあるわけだ。

「なにモジモジしてんのよ。コーヒーメーカーを買ってくれるなら、おいしいコーヒーを煎れて上げるって言ってるだけじゃない。買ってくれるのか、嫌なのか、どっちかしかないでしょ」

「しかし、初対面の女のマンションに来いと言われたら、誰だって驚くだろう」

「なるほどね。それなら心配はいらないわよ。私、こう見えても身持ちが堅いからね。絶対させないからさ。ほら、よく言うじゃない、据え膳食わぬは男の恥、とかさ、あれ逆の場合もあると思わない」

「逆の場合?」

「そう、逆の場合。据え膳くっちゃうのは男の恥って、そういう場合もあると思わない?」

「確かに、それもあるなあ。けど、据え膳食うのは男の思いやりって場合もあるんじゃないか」

「まあね、でも、それはブスの場合でしょ。私はスタンダードってとこだからね。だけど、色気がないからなあ。色気のない女でも誘う男って、正真正銘のスケベが多いから気をつけないといけないんだよな」

 私は女と話している内に、女の部屋で私と女が二人きりでコーヒーを飲むことに何の違和感も感じなくなっていた。不思議だが、この女の話す言葉が、私の気持ちの中に真っ直ぐに飛び込んできて、理路整然と身体の中に落ちついていくのだった。私たちは他愛もない話をしながら、雑貨をたくさん扱っている百貨店で、三番目に高いコーヒーメーカーを買って、女の部屋へと向かった。

 女の部屋は、六階建てのそれほど大きくはないマンションの最上階にあった。メゾンド・ギャラリーという笑ってしまいそうな名前が大きく片仮名書きされた自動ドアを通ると、私は女の後について、エレベーターに乗り六階で降りた。長い廊下は照明が暗く陰気な感じがした。女は、ポケットから部屋の鍵を出すとドアを開けた。

「好きなところに座ってよ」

 女は、そう言うとエアコンのリモコンを取り出してスイッチを入れた。

「さっそくコーヒーをいれてみようか」

 女の声に促されて、私はコーヒーメーカーの包みを開けた。

「失敗したよ」と私が言うと、女はこちら来て私の手元を見た。

「ペーパーを買い忘れた」

「そうか、ペーパーがいるんだったわね。ペーパーってコンビニで売ってるでしょ」

「売ってると思うけど」

「じゃあ、買ってくるわ」

「俺が行こうか」

「ちょっと説明するのがじゃまくさいところにあるのよ。私が行って来る。自転車で行くからすぐよ」

 女は、自転車のキーをドレッサーの上から拾い上げると、すぐ戻るから、と言い残して出ていった。

 私は女のいなくなった部屋に一人残され、ぼんやりと部屋を見回した。いろんなものが乱雑に置いてある部屋だった。決して散らかっているわけではないのだが、きれいに整頓されているというのとも違った。部屋の隅に埃がたまっているという乱雑さとは違い、どこか男っぽい乱雑さが感じられるのだった。

 私は見ず知らずの女の部屋に一人で留守番をしていることに、おかしさがこみ上げてきた。知らず知らずゆるんだ口元をしながら、私は女の部屋にあるものを手に取り眺めた。テレビの前にはテレビゲームが置いてあった。シングルベッドの脇には、洗濯物が畳んで置いてある。しばらく置きっぱなしになっているのだろう、洗濯物の上には、読みかけの雑誌が重ねてあった。部屋は典型的なワンルームだが、小さなキッチンがあり、そこだけは狭いながらも独立していた。私は台所を見に行った。子どもの頃、母親に「台所を見れば、女はわかる」と聞かされていた私は初めて訪ねた女の部屋で、隙をついて台所を見学することが癖になっていたのだ。

 女の部屋のキッチンは、きれいに片づけられていた。シンクの上には、釣り戸棚が作りつけられている。女の身長では背伸びをしなければ開けられないのではないか、と思われる戸棚を私は開けた。そこには、使い込まれたコーヒーメーカーがあった。その横にはペーパーまで置いてある。少し混乱した私が視線を落とすと、シンクの脇に、小さなフォトスタンドが裏返して置いてあった。フォトスタンドを手に取ってみると、あの男と女が一緒に映っている写真が挟み込んであった。日付が焼き込まれていて、二年前の八月になっていた。

 私はしばらくの間、戸棚のなかのコーヒーメーカーと写真とを交互に眺めていたのだが、ふと我に返った。そして、急いで戸棚の戸を閉めると、女の部屋を出た。

 マンションのエントランスを出るときに、曲がり角から自転車のブレーキの音が聞こえた。私は街路樹の陰に身を隠して、様子を見た。女がコンビニの袋を買い物かごに入れて、戻ってきたのだった。女は私に気付かず、駐輪場の入り口へと向かっていった。私は女の顔が微かに笑っているのを見た。女が駐輪場へ消えると、私は早足で女の部屋からは見えない方向へと歩き出した。

 平気で嘘を吐く女は信用できないものだが、何らかの理由があって嘘を吐く女と真っ向から向かい合うほどの度胸はない。我ながら気の小さな男だと思うのだが性分だから仕方がない。私はさらに歩みを早めた。

 女と買いに行ったあのコーヒーメーカーは、しっかりと手に持っている。だって、私はまだコーヒーを飲んでいない。

(了)